待つ湖で

「…ここへ来る前」
 やがて語りだした言葉は、ミーリエルにはいっそ意外なほどに弱いものだった。
「来る前は、ただ眠りたくて――仕方なかった。私はあなたのことを思い出しもしなかった」
「ええ」
 だからミーリエルは微笑んだ。
「そうしてほしかったの」
「嘘だ。ミーリエル」
 即座に返った言葉。フィンウェは眉をしかめ、搾り出すようにもう一度言った。
「……嘘だ」
「ほんとうよ」
 ミーリエルは笑みを深くする。手をのべて、過去に、かつて、何度となくそうしたように彼に抱きついた。
「わたくしが、そうしたかったからそうしたの」
 おずおずと上がった腕が背を撫でた。強く抱きしめて、身をわずかに離して、ミーリエルは言った。
「あたしが、そういう女だって、知ってるでしょう?」
 永遠の色をした瞳が、困惑に揺れるのをミーリエルは見た。愛しくて、愛しくて、愛しすぎて、見つめているのが辛くなる瞳。愛してると、その言葉をいつも叫ぶようだった瞳。……それがミーリエルには辛かったのかもしれない。
「フェアノールには会えないわ。嫉妬で殺したくなっちゃうもの」
 もう長い間考え続けて、心は決まっていたから、声は揺らがなかった。フィンウェは一度目を伏せ、笑った。
「思ったんだ。彼に湖で出会えていたら――“フィンウェ”は幸せだっただろうって」
 ミーリエルも笑った。そしてふたりは手を取り合い、湖の間へと出かけた。

「ねえ、ミーリエル。わがひと」
 湖を眺めて、フィンウェは言った。
「あなたを、誰よりも、愛してた…!」

「ええ、殿。わたくしのフィンウェさま」
 湖からふいと視線を逸らして、ミーリエルは言った。
「あなたを誰よりも愛してる」

 ふたりはしばし逍遥した。湖の岸辺、まばらに立つ木々は、本当にあの目覚めの湖へ戻ったような色をしている。その中のひとつを見つけて、フィンウェは立ち止まった。ミーリエルは近づいた――。
 銀色の柳。沈黙の中で、わずかな風にさらさらとなびく。
 やがて口を開いたのはフィンウェだった。
「……あなたは、ここで、眠るの?」
 ミーリエルは微笑んだ。愛しさが溢れると、微笑み以外の表情が出来なくなっていくのを、今さらのように悟った。
「出会った頃のようね。―――ええ」
 フィンウェは何かを言いかけた。けれど口をつぐんで、そして一言、そう、と云った。
「フィンウェさま。わたくしは待てないの」
「うん」
「あたしのあなた、愛しているわ。この世の果てまでも」
「うん…」

「おやすみ。私が、ちゃんと待つから」
「わがひと。ミーリエル」
「あなたはおやすみ…」

 長い息を吐き出して、目を閉じたミーリエルの顔を見て、フィンウェはじっと黙り込んでいた。息をするのさえ憚られた。何事か、壊してはいけない時の流れというものが、音もなく渦を巻き言葉を無にしたのだった。
 星の光だ。フィンウェは思った。あの、柔らかな金と銀の輝きではない。
 それでも眼前のしろい貌を眺めていると、心はたやすくその瞬間を呼び起こしてしまう。
「………ミーリエル…」
 吐息のような囁き声が、言葉を紡ぐ。
「ミーリエル…」
 応えは返らない。
 返るはずがない。
 フィンウェは微笑んだ。何故かはわからなかった。伸ばした指先で、確かめるようにしろく凍りついた頬に触れる。――前に、したように。
「…ミーリエル…」
 唇に触れて、指は離れた。名前ばかり形づくる自身の唇に触れてみる。
「……ミーリエル…!」
 言葉は遠い昔の声のように響いた。胸の奥が、頭の芯が、痺れるように熱かった。
 座したまま動かないフィンウェの頭上で、同じように銀色の柳がさらさらと揺れた。光だけは違う輝きだったが、その時確かにフィンウェは、あの遠い夢幻の園にいたのだった。
 微笑みは唇に宿らず。涙は裡に留まらず。ただ、吐息ごとに紡がれる名が波紋のように大気を震わせた。長い悲しみが時を隔て、織物のように経糸に緯糸を絡め、彼に立ち戻ってきたのだ。身が強ばる。心が、凍る。
 時間は今、その流れを止めた。

 ――みひらかれた眼で何を見ているのか、フィンウェにはわからなかった。
 悲哀とも、孤独とも、永遠とも称された、知恵ある濡れた灰色の瞳は今、心の求めてやまないものを見ていた。信じがたい光景だった。だからフィンウェは微笑んだ。涙は留めようがなく、はたりはたりと零れていたけれど、嬉しかった。ひたすらに嬉しかった。その幻がどう彼を傷つけようとも。
「私のせいで、あなたは死を望んだのですか」
 火の精、愛しい息子。その姿が、鋼の色をした瞳が、大気に溶けるように静かに問うた。フィンウェは微笑んだまま言った。
「………フェアノール、私は、眠ることを選ばなかったよ」
 思い描ける自らの亡骸も多分、このように微笑んでいたのだろう。子の表情が歪む。
「そしてこれから先も選ぶことはない。それが答えだ」
 細く長い指、匠の手がフィンウェの唇をなぞった。頬を辿って、涙をすくい取った。幻の温もりを感じて、フィンウェの心がびくりと竦んだ。
「あなたは、この方の傍にいる時はいつも泣いている…」
 フェアノールは悔しさを隠そうともしなかった。たった一度、目にした母に、彼はやはり激しく嫉妬したのだから。
「父上…」
 冴えすぎた灰色の瞳が、それゆえに透きとおった青を帯びているのをフェアノールは知っている。それはまるで孤独が結晶したように、永遠を見つめすぎてしまったように悲しく輝く。その瞳を覗きこむと、フェアノールは、かつて銀色の柳の下ではどうしても出来なかったことをした。
 両手で包むように触れた頬は蒼ざめて濡れている。
「どんなにかお怒りでしょうが」
 フェアノールは囁いた。確かにここに存在がある。そう、だから。
「それでも、あなたを、愛しています」
 ―――静かに、放った声を追いかけるように、フェアノールはもう一度フィンウェの唇にくちづけた。