アラベスク

 フィンゴンがその見事な黒髪を金を絡めて編んでいるのはもうずっと前からのことで、マエズロスが思い返すに成年より前から――少なくとも、マエズロスがフィンゴンと言葉を交わすようになった頃にはすでにそうだった。
 その頃からフィンゴンは髪の長さも決めているようで、大体いつ見ても同じ長さに整っているものだから、賑やかな噂のわりにはまめな奴だと思ったものだ。
 絡めた金の紐は『髪帯』で、少し変わった事情と共にフィンゴンが手に入れたもので、円やかな金の留め具の方は他ならぬマエズロスの渡したものである。青みを帯びた深い黒髪に艶のある金はよく似合った。
 マエズロスは恋人の金を編みこんだ黒髪が、実のところとても好きなのだが、そのことを言葉にして伝えたことはなかった。ただ、時折獣の甘えるようにすり寄ってきた時に頭を撫で髪をすくと、フィンゴンはいたく満ち足りた顔で笑うので、マエズロスもなんだか機嫌よくその髪をもてあそんだものだ。

 その朝、寝ぼすけの恋人の顔を覗き込むと、マエズロスの赤毛はさらさらと流れ落ちてフィンゴンの頬をくすぐった。
 ぱちりと目を開けたフィンゴンは、マエズロスの顔をたどるように髪を撫で、その先を少し食んだ。
「なんだろう、最近あんたの髪の色が少し変わった気がする」
「嫌いか」
「似合ってる。今のあんたに」
 フィンゴンは満ち足りたように目を細めた。
 髪を食ませるままに、マエズロスはフィンゴンの髪に手を差し入れる。髪帯を辿って、編まれた黒髪を撫でていると、眠いような声が聞こえた。
「………あんたは髪、編まないの……」
 額と額を触れ合わせる。霧のかかった紫の瞳を覗き込んでマエズロスは微笑む。
「編んで欲しいのか?」
「いや、伸びたなぁ、って」
 フィンゴンは自分の黒髪を手に取り、マエズロスの赤毛とするりと合わせる。それからこどものように口をとがらせて、ちぇ、と言った。
「でもやっぱり、おれのじゃ合わない」

 髪の色変わったね、と言ったのは輝く金髪の幼なじみだ。
 食えない王である彼はなりふり構わずヴァラールに懇願して、マエズロスを現世に呼び戻した。もうずっと前のことだ。
「どんな風に」
「なンか、違う」
「なんだよなンかって」
「君らしくってさ、……うまく言えない」
 フィナルフィンは自分の髪とマエズロスの髪をねじり合わせて、ほら、変わった、と笑った。
「前は絶対私の髪となんか合わせられなかったよ。今なら良いだろ」
「良いかもな」
「『髪帯』あげる」
「君の?……なんか怖いな」
「恐いとはなんだよ失礼だなー。誰にもあげたことないぞ」
「僕もないよ」
「フィンゴンには?」
「あれは案内人殿のだ」
「ふぅん…。黒に赤はちょっときついかもね」
「あれは、曰く、私の目の色だと」
 フィナルフィンは何かを言おうとした口で、何も言わなかった。
 そのままマエズロスの目をじっと見て、嘆息のようにああ、と言った。
「恋だね」
「だろうな」
「素直でよろしい」
「………素直に、以外どうしろって言うんだ」
 そうしてほんの少し頬を染めた幼なじみを、フィナルフィンはたいそう満足気に眺めた。
「君らしいよ。ほんとに」

 マエズロスの名づけ子は髪を編まない子だったが、最近はそうでもないらしい。今この月と陽のめぐるヴァリノールで見る名づけ子は、年経て美しい森のようだ。若木の頃を、いや新芽の頃を知っているマエズロスからすれば、年月と彼の成長に、感嘆するばかりなのだ。
 まろい頬のこどもはすっかり立派な大人になり、包むような優しさを円やかに結実させた。公の立場があまりに重かったからだろうか、エレイニオンの夢みるような菫の瞳は、時折あまりに深くて目がくらむ。
 エレイニオン、と、今でもマエズロスはそう呼ぶ。名づけた名なので当たり前と言えばそうだ。もちろん名づけ子の正式な名を―父名も母名も―知ってはいるが、エレイニオンというエペッセがもはや母名みたいなものだというのが彼の言で、「だから良いんだ」とにこりとされてはマエズロスは何も言えない。彼の父のまっすぐな目に勝てないように、彼の微笑みにも勝てやしない。
 父譲りの、というには少し優しく煙のかかったような黒髪は色味の通りに柔らかで、編み癖ははっきりつくらしい。ぐねぐねしちゃうんだもん、と口をとがらせていた小さな姿を思い出す。
 けれど細い金糸を編みこんだ花冠のようなそれは、不思議と彼に似合っていた。
 やさしい光の差し込む彼の庭で、花に埋もれた森の最も美しい時間に。
 どことなく照れたような彼と、誇らしげな彼の伴侶の寄り添う姿に微笑みがこぼれるのを感じた。

 エレイニオンが名づけ子なら、エルロンドは養い子である。
 エルロンドは編むというよりは結うと言った方がしっくりくる髪型をしている。
 母譲りの黒髪は貴い銀のあでやかさを秘めていて、鈍みのある金の留め具と良く沿った。
 編むのも結うのも嫌がった片割れとは対照的に、エルロンドは髪をいじるのはそう嫌でもないようだった。すこし困った顔をしながらマグロールが結ってやっていたのをよく覚えている。
 彼を手元に置いていた頃はあいにくマエズロスは手がひとつ足りなくて、その心揺さぶる黒髪を、何度まぶしいような目で見たか知れない。
 手は出せないから口だけ出した。金が、鈍みのある金が似合うだろうと思ったのは、きっと遠い日々の名残だったろう。
「金じゃあなくっても良かったんだろうな」
「……変えようとは思いませんでしたね」
 今になって、時々、エルロンドはマエズロスに髪を結って貰いに来る。その間にゆるゆると話をする。つい最近のことから一緒にいた頃のこと、二人とも知らない話すら、する。
「あなたも似合うでしょう」
「え」
「金ですよ」
 エルロンドはマエズロスの赤毛を見て、ふと笑う。
「あの頃は思いもしませんでしたけど、こんなに穏やかな光の下なら」

 天をゆく銀の船は今宵は惑いなく道を進むらしい。マエズロスは星を穿つような輝きを見上げ、目を細めた。
 さらさらと、衣装が音を立てる。さらさらと月光が髪を撫でる。
 熱のない光の下、マエズロスの赤毛は静かな輝きに彩られている。
 渦であり、螺旋であり、萌えいづる草であり、水面の波紋であり、そういった繰りかえす円の動き。
 流れるように紡ぐ左腕、刻むように叩く右腕。
 歌もない、音楽も。風がしたたるように夜を揺らす。
 指に口づける。その指で天を示す。
 ひらひらと、衣装が舞い上がる。ひらひらと月光が髪を揺らす。
 音のない光の下、マエズロスはひとり踊る。

 やがて月も遠くに向かい、帰りついた寝床で、むしろ冷たい手で恋人はマエズロスの髪を撫でる。
「昼に見たかったな」
「陽の下では―――とても」
 マエズロスは舞の名残の熱で、フィンゴンの冷えた唇をあたためる。
「髪くらい良いだろ」
 遠い月光でも赤毛に絡む金の輝きは美しかった。
 とろけるような微笑みで、マエズロスはフィンゴンを抱きしめる。
「……かもな」
 囁いて、さっさと眠りにかかったマエズロスの背を撫で、フィンゴンも目を閉じた。