我ながら呆れるほど何もかもが投げやりになっているような気がする。
これがひとつの自棄というものだろうか。起きているのが面倒だから眠りたくなる。眠ると夢を見るので起きたくなる。例えば眠りについたとして、そのまま目が覚めなくたって構いやしない。ただその後にもう夢はみたくないなと思う。私の夢は特に安らぐものではないし、もはや目覚める気もないのに、目覚めてどうにかすべきことを夢にみるほどやるせないことはない。
目を開けるとほとんどの場合、フェアナーロがどこかぼんやりした瞳で私を見つめている。眠っている顔を見られたことなんかほとんどないに等しいから、これはとても新鮮で、かなり不思議だ。私と目が合うとフェアナーロは微笑って、抱き込む力を強くする。だいたい私は起きたいのだけれど、いつもフェアナーロはもっと眠りたいと言う。起きることなんかないと。
だけど光は移ってゆくし、私は夢をみたくないから起きると言う。こんな風に一度目覚めてからのまどろみは必ず夢を呼ぶのだから。
離しなさいと言えば嫌ですと拗ねた声。例えば半身を起こしたとしても、私の髪だけはしっかり握って放さないのだから、私は呆れるしかない。君が言うから大事にしている。君を泣かせたくないから、仕方ない、あまり離れられない。
そんな風に眠って、そんな風に目覚める日々を繰り返す。
今日は何をしようかと、空と、庭にまばらに息づきはじめた緑を眺めて考える時間はわりと好きだ。物珍しいのが一番の原因だ。いつだってやらなきゃいけないことが多すぎたものだから、私はやりたいことを考えないようにしてきた。
今は逆に、やらなきゃいけないことを忘れるようにしている。…やらなきゃいけないことなんて、本当はないってことも知っている。やらなきゃいけないと思い込んでやっていたことは数多いけれど、実際、そんなことひとつもしなくたって、我らクウェンディは生きていける。
……生きていける。でも、それだけだ。
なんとなく食べたい気分にならないので食事をしないでいたら、幾日目だったか、自分の方が死にそうな顔をしてフェアナーロが何か食べたらどうかと勧めてきた。何でも揃えると言い張るのが可愛くて、でも残念なことに本当に食べたいものが何もなかった。だから特にいらないと言うと、フェアナーロはむっつりと立ち去った。また怒らせたかもしれない。我ながらつくづく呆れるほど、そういうところも投げやりになっている気がする。
フォルメノスは石造りでどことなく淋しい。砦を覆う壁があまりに黒く光を彩に映すものだから、ああ淋しい檻ができたものだなと思って、草を踏みしだきながらふと歌いたくなった。歌う前に扉は開かれて、あの子が、あの子がひび割れた瞳で歩いてくるものだから、その足元がまるで不意に割れそうな氷で出来ているような足取りなものだから、ねえ、さあ、フェアナーロ!私は来たよ。
息子でなかったら君なんか愛してない。愛が何だか知らないかもしれない。
だけど今、あいたいんだ。あいたくてたまらないんだ。たぶん、憎んでいたとしてもあいたくてたまらないんだ。だから来た。…そしてね、君から去ろうとは当分思っていないんだよ。たしか、そんなことを思っていた気がする。
あんまり不安がるところは私と似ている。自分だったら絶対好きになれないのに、こんなに、ただに愛しいのはどうしてだろう?
フォルメノスの砦の中には、家族しかいないんじゃないかと思うくらい人が少ない。そう、“離宮”に似ている。“離宮”はフェアナーロの邸だったから、あの子のために人が少なかったけれど、ここは――どうなのだろう?
街と、そう呼んでいいほどに建ち並ぶ家々を見るなら、砦の中の人の少なさは、私のせいなのかもしれない。フェアナーロは、私が家族以外と接触するのを嫌う。いなくなったりしないのに。お前を見捨てたことなど、一度だってありはしないのに。
だから、孫に良く会う。私はもっと彼らと語り合ってみたかったけれど、今まではそうできなかった。彼らがどう思っているかわからない――私を?フェアナーロを?ああ、終わりが――必要なのだけれど!
金の刻も大分遅くに目覚めたものだから、砦には誰も…孫達も、誰もいなかったらしい。窓を開けて外を眺めていたら、光の雫は二つの木の歌を運ぶように踊りながら流れてくる。金、そして銀。どちらも愛しい。漂う光に私はまた少し歌いたくなる。声は出ないのだけれど。
風の流れていく先で、鮮やかな輝きが現れる。私は振り向かない。だんだんと濃くなる銀の光が、誰かの声を運ぶ気がする。それはあまりに深い激情を抱いていたひとか、空や風や雨や、恵みをもたらすひとか…
炎の、――憂えた声に私は静かに振り返る。
怒らせたいわけでも悲しませたいわけでもないのだけれど、いつからかフェアナーロは、私にそう思うことを言わなくなった。今もほら、まるで遠い昔のよう、君が幼い頃の。…口を曲げて、つついたら泣きそうな目をして、今は頬もすっかり大人の線と硬さだけれど、あの頃はどこもかしこも柔らかくて、そのくせ力は案外強いものだから、私はいつも抱きあげると落としやしないか心配になった。私のはじめのこども、愛しいフェアナーロ。ねえ、どうしたの。
フェアナーロはつかつかと歩み寄ると、私の膝に身を投げ出して、父上はずるい、とこどもの叫ぶように言った。私は微笑った。父上はずるい、ずるいと繰り返しながら、この子の器用な指はやさしく私の髪を梳かす。ああ、私は微笑んでいただろう!胸塞ぐような愛しさがあふれ出すように感じるのだから。
愛にどれほどの力があるのかと、そういえば随分前に誰かに問われた気がする。僕の答はいつだってひとつ、信じればどんな力もあろうが信じなければ力などない。言い換えれば思い込み。この歌で出来た世界では思い込みが一番の力になる。勿論、愛も思い込むべきことのひとつだ。思い続けたら、気が付いた時にはそれは真実に変わっているものだから。
やがてフェアナーロは俯き、私の膝に顔を伏せて黙る。今度は私が君の髪を撫でる。光はすっかり銀に満ちて、君の髪は光を吸い込んで淵のような黒をしている。この髪が炎と鋼の爆ぜる匂いをはらんでいると知っている。最も今日は、風に吹かれる荒野に揺ぎなくたつ岩のようだけれど。岩。石。長い間、変わらないもの。………。
石のスープとはなんですかとフェアナーロが私の目をみつめて言う。石のスープ?そんなことを私は言った?ああ、それは、―――そう、石のスープなら、ちょっと、食べたい、…かも。言うや否や、フェアナーロは伸びあがるように私にくちづけると、では必ず、と言い残して身を翻して行ってしまった。君、石のスープが何だか知っているの?私は呆れの混じった笑みをこぼす。全く、誰に似たのかせっかちなんだから!
石のスープは偶然の産物で、もちろん最初に作った当人だって、よもやそこまで出来上がるなんて思っていなかっただろう。あれはある意味で祝祭のようなもので、その雰囲気を食べるようなものだったのだし。今の私だって、フェアナーロがどんなスープを作るのか気にはなったけれど、それでも食べたくなかった場合、どうしたらあの子にわかってもらえるのか、根を張る不安として心に芽吹いて、妙に疼く。あんなこと言うんじゃなかった。銀の刻のはじまりに私はあっというまに憂鬱になって、もう庭の緑も目に入らず、石造りの窓枠を眺めて黙っていた。風も歌ってくれない。ひとりごとの多い質じゃあ、昔から、ない。ああ、でも、自覚もなしに石のスープと言ったと?そんなところまで投げやりに、なって、いるのか。
フォルメノスで私のいるのは私の部屋ではなくて、あの子の部屋で、そこかしこにひっそりとたち現れるあの子の気配が、影のようなものが多分私をひどく落ち着かせている。部屋には、――それともそのひとの気に入りの場所、心安らぎくつろぐ場所には、そのひとなりの何かが現れる。あの子は場所にはこだわらないけれど、今このフォルメノスの部屋に打ち寄せるように満たされている気配は、生まれた時から――もしかすると生まれる前から確かに知っていて、馴染み深く恋しく、待ちこがれていたもので、胸を騒がせ、心を落ち着かせる。それは甘い眠り薬のようで、私の理性をやさしく包んでしまう。
それなのに感情ばかりがあふれる。落ち着かせるのに騒がせる。
……私の部屋は、どんな気配を持っているだろう。そもそも私のくつろぐ場所は――場所、だったろうか?
否、断じて否。悲しいことに。
けれど。あの子も本当はそんなところがあるのだ。
私が整えて好いているのは私の都ティリオンだけれど、あの子はティリオンには何の感慨も持ってはいない。私の都があの子を拒むのに、私は心の裂かれるような思いをしたけれど、あの子に苦悩を植えつけたのは都の追放が原因ではないのだ。
私の眸は石の窓枠に据えられて動かない。けれどその時私の視界は、夕よりももっと暗く不思議な沈黙を見据えていた。ああ、星がみたいのだ!この光溢れる地にあって、こんなにも心が星を求めるのは何故だろう?あの薄明の地は…薄闇に覆われた遠き中つ国は…
ふ、と風が頬を撫でて…私は白昼夢から醒めるように顔を上げる。戸惑いをまとって扉の脇に佇むのは赤毛の初孫で、おはいりと言うとまるでそろそろと、気弱な森の獣に近づくようにやって来た。
遊びましょうおじいさま、と揺らぐ陽炎のような声で言った。ネルヨ、遊ぶの?ええ、と答えながら彼は小さな作業台を部屋の隅から引いてきて、私の目の前に置いた。ピトゥヨもテルヴォも私とは遊んでくれません。言いながら、もうひとつ椅子を置いた。窓際に遊びのしつらえが出来上がる。末の双子がそういえば庭にいたかもしれない。私が覗いた時にはすっかり静まっていたけれど、風や芽吹きは遠慮のない子どもの息を伝えてはこなかっただろうか。――こども、とくくれるほど幼くは、もうどの孫だってないのだけれど。
今日は皆してお出かけです。私も出ましたけど、カーノとモルヨは奥方の所だろうし、トゥルコは森で、クルヴォはなんだか空ばかり見たがっていましたね。珍しく問われぬのに口数の多い彼の手は、言い募りながら止まらずに動いている。紙を取って、山に折って谷に折って。見よう見まねで私もいちまい、紙を手に取る。ネルヨは笑って、遊びの下準備ですと私に折り方を指導してくれた。さほど時をおかずにお互いの手元にはうさぎが一羽ずついた。
おじいさまはあとうさぎを22羽くらいそこに集めてくださいね。ねえところで皆は帰ってくるの?そりゃ、ごはん時には帰ってくると思いますよ。とりとめなく話しながら過ごしたら私の手元にはうさぎが3羽増えた。その間にネルヨは、何だか難しそうなことを口笛でも吹きそうな上機嫌でやっていて、じきに、できた!と小さく叫んだ。どうです、おじいさま、何に見えます?――それは、鷲?見事なものだとじっと見ると、ネルヨはそんなところだけ妙にあの子に似た口調であと象と馬と犬と猫をつくるんですと言った。
どうしてごはん時には帰ってくるの?ああ『アルダノーレ』をやりたいんだなと思いながら問いかけると、ネルヨは思いもよらない事を聞かれた、といった顔をした。家だから?なぜか宙を見つめながら言うので、私は息がゆるむ。空を見た眼が一度手元に落ちて、それから私をすっと見た。
そういえば、あなたのミンヤは今度は何をするんですか?フィンウェミンヤのしたいことは私になんかわからないよ。おじいさまが原因でなくて父上が今さら何をするって言うんです?厨で。
うさぎが1羽、出来たと思ったらぱったり倒れた。全く、あの子は本当に本気だったらしい。まあ、いいんですけど。独語めいてぽつりと言うと、ネルヨは鷲との奮闘に戻った。やっぱり2回目でも難しそうに見える。
世界の野に祝福あれ。うさぎを天へと辿りつかせよ――『アルダノーレ』は盤がなくても駒がなくても、やろうと思えば私たちはできる。紙の盤や駒をつくりながら、私は試合開始の宣言をそっと言葉に乗せてみる。道を“開く”力をもって。ネルヨは象の鼻のところと格闘しながら、私が後手なんですか、嫌だなぁとぼやいた。私は笑った。…道を“導く”力をもって。けれど小声の了承は、遊びましょうと言った言葉に違わずに。私はひょいと肩をすくめると。“アルダノーレ”…青の兄うさぎ、“西のマンウェの流”へ。ネルヨはくいっと象の鼻を曲げて立たせると、首を少しかしげて、……白の兄うさぎと西の猫、白の弟うさぎと兄の馬、南の兄うさぎと赤の象を“導く”“アルダノーレ”赤の弟うさぎ、“南のヴァルダの流”へ――と返した。試合、開始。
私の手元にうさぎが10羽を超えて、空想の盤面で双方ともうさぎがうっかり数羽いなくなったところで、むしろ悲痛な兄上!という叫び声と共にモルヨが駆け込んで来た。
兄上、父上が、言いかけて私に気づき、あ、おじいさま、ただいま帰りました、といささか早口で言った。どうしたんだ?どう、そう、兄上!父上どうかしてる!どうかって?私もネルヨも顔を見合わせた。モルヨが生唾をごくりと呑み込む音が聞こえた。
だって父上、厨で石を煮てるんだぞ…
私にはあの子が石のスープを作ろうとしているのは分かったけど、孫たちは勿論知るよしもない。ネルヨがあっけにとられた表情をして、それでお前はどうしたんだ――と訊いた。
いや、ちょうどタマネギが。タマネギ?ちょっと貰ってたから、何も入れないよりマシかと思って、刻んで入れてきた。私は目を丸くしたと思う。ネルヨは瞬間黙って、まあ父上がそれで文句を言わなかったなら良いんじゃないか、と言った。
良いっていうか、兄上父上は大丈夫なんですかっ!?モルヨの声をはるかに上回る大声で叫んだのはカーノで、モルヨと同じく私に帰還の挨拶をするとネルヨに言い募った。厨でタマネギ煮てるんですいやそれはいいんです一緒にいえ明らかに主に石を煮てるんです!………沈黙。ネルヨはごく真面目に、カーノは「どう」したんだ?と訊いた。
気にするなとごく普通にふたりの弟を追い出して、ネルヨは何事もなかったように、東の猫“南のヴァイレの力”へ、と言った。次の手だ。私は噴き出した。なんですか、おじいさま。いや何、慣れてるな、とね。慣れましたよ、さすがに。…おじいさまには新鮮ですか。うん。
フェアナーロがネルヨに面倒をかけるのは…というよりもむしろ、フェアナーロの行動に驚いた弟たちがネルヨに報告に来るのは「いつものこと」であるらしい。全く、あの子は良い息子を持った!私の手元が止まっている間にネルヨは犬までも折りあげたようで、盤は無いけどありったけの駒で盤面を作っていった。うさぎがあからさまに足りない盤面に苦笑すると、ネルヨは不意に言った。おじいさま。何?私が勝ったら、ひとつお願いごとを聞いてください。
―――いいよ。
答えて、そして次の手を言った私にネルヨは試合を続けた。するとじきに次の弟が駆け込んで来た。兄上、父上がとうとうおかしくなった、…のかと思ったけど違いますねおじいさまのせいですね。心配して損しました。クルヴォは私を見た瞬間、少し焦燥を抱いた顔色をけろりと戻した。ネルヨが深い溜息をつきたそうに、で?と訊いた。下手な言い訳して野菜を入れましたよ。それよりあの石何なんですか。スープは煮立ってるのに冷えたままで。
新たな疑問を生んで去っていったクルヴォの後に双子が揃ってやって来て、ネルヨは先に父上はおかしくなってないから安心しろと言い、双子は顔を見合わせてから皆来たの?と尋ねた。私は笑っていた。
ネルヨが次の手を言おうとした時にひょいとピトゥヨが戻ってきて、兄上、ところであのスープっていつ完成するのかな、ちょっと心配だよと言った。ネルヨは小さくうぐ、と呻いたが、ピトゥヨは言うだけ言って行ってしまったので、ずいぶんと恨めしそうな顔で呟くしかネルヨにはすべがなかった。どうして下のあいつらはそういうところが似てるんだ。
それからずいぶん間が空いたような気がするが、私のうさぎは3羽しか増えなかったし、ネルヨは猫にひどく手間取ったようだった。最後の弟の声が慌てふためいて邸に響いた時、私は笑いがこみあげてきてたまらなかった。おじいさま、とネルヨは不機嫌な声で言った。だって可笑しいじゃないか。最後のひとりは雛鳥が親を呼ぶように兄上兄上兄上と繰り返していて、その遠くの響きを聞きながら“兄上”は手の合間にティエルコルモめ、と呟いた。なんてぴったりな名前なんだ。
君たちの名前はよくつけたものだと思うよ。言うと、ネルヨは手を止めた。父名も母名もね。私は微笑む。目の前の孫たち兄弟の父名は多分に母名的で、あの子が“名づけたい”父親であるのが窺い知れて、私としてはとても面白いと感じたのだ。そもそもの“父名”の理由からは大分離れてしまった父名であるけれど。
かく言う私も子どもたちの名前は母名的につけた。とりわけインディスの子らには、ほとんど大きな運命の流れのようなものを感じてつけたのだ。では、あの子は?
フェアナーロがクルフィンウェ…その名を、5番目の息子に与えた時(それは母名とほとんど同時だった。きっとあの子も何か予見めいた確信があったのだろう)、あの子がフェアナーロと自称することが多いのも手伝って、後から受けたその名を嫌っているのではないかという噂がたった。私自身はあの子の存外に私に似ているところを目の当たりにして、驚くばかりだったのだが。クルフィンウェという名は功績を称えてつけたものだ。あの子は生まれたばかりの息子に、もう多大な期待を寄せているのだ…私と同じように。慣習として、父の名をそのまま子に与えるのはよくあることで(そもそもの父名の始まりはそうであったから)確かにそれが長男ではなく、5人目だというのは異例のことだったが、「期待」の…それとも「欲」の…所在を知れば当然のように思えた。
どうなろうとありのままに丸ごと愛するというのはおそらく生の中で1度、あるかないかのことで、私の場合はそれがあの子で、あの子、フェアナーロ、フィンウェミンヤ。私にとってはいつでもミンヤ、はじめの子で、あの子にはそれ以外何も望まなかった。存在がまず愛しすぎて、愛しくて、愛しくて…
どうしたら、揺ぎなく信じさせられるだろう?私は無理なことを考えている。どんなに幼い時だって、揺るぎなく信じるなんて出来なかったのに。私の心にはいつも不安が織り込まれていた。今は、不安よりも何か予感とでも言うような焦燥がどこかで消えない。――望みの叶う寸前のような、永遠の憧れを知った時のような。
フェアナーロ、お前が世界で一番最初に出会ったのは誰だと思ってるの?愛してるよ。世界の誰にも勝る愛で。愛してるよ。たったひとり、お前だけを、私は誰よりも先に愛したのだよ。……私が初めて愛される前に愛した相手。愛してるよ。何度言ってもたぶんお前は信じないのだろうけれど。
愛しているとは君は言わなかったね。…愛しているかと訊くこともなかった。君が言ったのは「愛しているとは言えないと思う」――そう、そう思うのだろうね。
ねえ、フェアナーロ、私の息子、愛されてなくても愛することはできる。愛されていると愛し方がわからなくなる。だから私は、君に愛されているかを考えることはない。愛しているから。ねぇ、憎んだって、いいのだよ。……
おじいさま。は、と顔をあげるとネルヨが、慈悲深いとしか形容しようのない表情で、長考ですねと言った。そういえばトゥルコはどうしたの?兄を捜す声はもう聞こえない。まだ来ませんよ。諦めたかな。言った瞬間、はたはたとごく軽い足音がして、白い獣が近寄って来た。フアンが来たね。来ましたね。トゥルコ?
戸口に現れた影に私たちは一瞬息を呑んだ。
兄上、父上がヤバい。そう言ったトゥルコの顔には黒ずんだ赤い滴が飛んでいて、何となく茫然とした風情が奇妙だった。トゥルコ、お前もヤバいぞ。どうしたんだその血は。血?着替えたんだけど。服を引っ張るトゥルコにネルヨは軽く溜息をついて近づくと、かりかりと爪で頬を引っかいた。乾いてるな。言ったネルヨを仰ぎ気味に見て、あっ!?とトゥルコは叫んだ。
やば、顔か。返り血なんだけど慌ててて気が回らなかった。ネルヨはトゥルコの額を小突くと、お前は狩の獲物でも入れてきたのか、と訊いた。肉入れたけどさ。…兄上、あれは止めなくていいの?や、おじいさまに言ってもらった方がいいかな。あれ怖いよ。肉まで入ったか。じゃあそろそろ完成だな。ネルヨは振り返り私に笑った。“石のスープ”はちゃんと出来たようですよ。
――知ってたの?聞き返した私にネルヨは思い出しました、と言った。アラフィンウェはお話をねだるのが上手だった。私たちは聞いたんです、あの話。あ、それと。
ネルヨはトゥルコを促して行きながら、最後に言った。
西の兄うさぎ、“北のヤヴァンナの天”へ。私の勝ちです、おじいさま。
負けちゃった。どうしよう。
少しどきどきしながら、ひとりになった部屋で私はうさぎを最後まで折った。
もちろんネルヨのお願いごとで、私が真剣に困ることなんてありはしない。ネルヨはとても優しい子で、そしてどうやら不運なことに、私のことをよくわかっている。
それより目下の心配は、完成したらしい石のスープ。きっとフェアナーロは作り方なんか全然知らないだろうに、息子たちの善意はあの子の予期せぬ正解を出した。全く本当に、本当に良い息子たち!
食欲っていったい何だったんだろう、と最近考えたりもする。私の味覚は時々破壊的になる。
それはどちらかというと心の問題で、いまやどれが原因の傷だったのか私自身にも分類できないから放っておいている。幸い味覚なんてものは珍しく完全に私だけの問題だから、隠しておければそれで困らない。いつも無いわけでもないし。無い時は無い時で、私は絶対に、何がなんでも“みんなでごはん”だけは譲らなかったから――眺めていればそれで、なんとなく、満たされていた。
満たされる、という感覚が大事なんじゃないかとも思う。
満たされている。それは私にとって言い表すなら“幸せ”という感覚だ。
泣きたくなるのは満たされているからだ。私の躯に満ちあふれて、眸から涙となって零れるのだ。歌いたくなるのは満たされているからだ。私の心をひたして、口から声となって流れ出るのだ。
ああ、フェアナーロ!お前、傍にいるだけで、こんなに満たされるなんて知らないだろう?あいたくてあいたくてたまらなかったのは、私が満たされていたことを知っていたからなのかもしれない。そう――満たされることを知っていたからなのかもしれない。
満ち足りて、私はスープを口にする?……どうだろう。何せもう隙間なんか残っていないような気がするのだけれど。
そんなことを思っていると、私の眸はまた星を求めだす。銀の光はこんなに美しいのに、どこかで私は闇の麗しさを希むのだ…。
おじいさま。おじいさま!
一度視界が真っ白になり、戻ったかと思うと、ネルヨが膝をついて私を見上げていた。
さあ、行きますよ。嫌なんですか?なんならお願い事をこれにしましょうか?
口は厳しく、そのくせ優しい目つきに、私はまざまざと誰かを思い出す。
ネルヨ、君は祖父似だって言われてたっけ?はい?勿論私じゃなくて、私の好きなあかがねちゃん、我らのきつねさんのことだよ。
ネルヨはくすりと笑った。私がルサンドルとも呼ばれるのはどうしてだと思っていたんです?
髪はね。そうじゃあ、なくって…。言葉を途切れさすようにぐいと引かれた手に、またそれを思い出して、私は残りを口に出さなかった。
(最後は、私に、とてもやさしい)
結果から言えば、私はスープを食べた。一杯だけだったけど、フェアナーロの機嫌はあからさまに上向きになって、その態度に孫たちがそろって胸をなでおろしたのがこれまた分かりやすくて、私はスープにむせかけた。…いや、本当にむせたりなんかは勿論しない。そんなことになったら、また、どれだけフェアナーロの機嫌が荒れるか!私はもう百万遍見てきたけど、孫たちはやっぱり何か困ることもあるだろう。
フェアナーロは、私への不満を自責に変える癖がある。自分に対する苛立ちと焦り――得体の知れない焦りに。
でも、それが消えた時、フェアナーロはとても綺麗な表情をする。満たされた表情を。
そんな表情は長いこと、ずっと、見ていなかった気がするよ。
呟くと、すぐむくれる。真正面にいたトゥルコがぎょっとして父から目を逸らす。逸らして、横を向くのは不自然だと思いなおしたのか、掻きこむように皿に顔を向けた。私の隣でネルヨは、彼の生涯何万回目かの溜息をついて、見事にそっぽを向いてスープをひとさじ、飲み込んだ。
石のスープをゆっくりゆっくり食べていくと、私の皿には最後に、夜のように黒い――そう、夜空の色をした石が残った。戯れに匙の背で軽く叩くと、澄んだ響きが耳を打った。
ああ、星の…
私は心の底の夜空にふと思いを飛ばす。石のスープ。ねえフェアナーロ、君、本当は知っていたんじゃないの?あの星空の下で作られたスープを。
私が立ち上がると、フェアナーロまで立とうとする。君まだ食べ終わってないでしょう?食べてからおいで。
言うと、リーン!また星が歌った。フェアナーロは戸惑ったように座りなおした。
カーノが双子と目くばせして、耐え切れないといったふうに笑った。おやネルヨ、君のすぐ下もなかなか曲者のようだよ?
紙の駒たちが幻の盤面に並ぶ。一手目から順番に、私は駒を動かしていく。……ね、私は今日も、お前のことばかり考えていたようだよ。愛しい子、あまりにまっすぐなフェアナーロ。
アルダの野をうさぎは駆け、時に“道”を踏み外す。落とし穴はそこかしこに。銀の光に銀の影。うさぎの耳が長く尾を引く。
忘れたけれど忘れられない影が私の心に吹いている。銀の。こんな光の揺らぎ方は。銀の。柳の。
わがひとはどんな夢をみているのだろう。
星の記憶と、かの面影が、今でも私を揺さぶる。それは、けれど、傷ではない――傷ではない。それはむしろ、永遠に続く甘さ、永遠に満ち足りて、完成してしまっている円いもの。星の音で鳴る石。
私はうさぎをひとつ取り上げる。てのひらに乗せて目の前に掲げる。すると後ろから伸びた手がうさぎをつまむ。
“アルダノーレ”ですか?そうだよ。ネルヨとね。負けてしまったよ。言うとフェアナーロは私を後ろから抱くようにして、うさぎを台へと置いた。
なぜ、と聞いても?耳元で囁くのだから私は笑みがあふれるのを抑えられない。君のせいだよ。抱く腕が強くなった。私の?そうだよ。君のことばかり考えていたんだよ。
この子が本当にこどもだった頃、私はこの子が眠りへ就くとすぐに寝台を抜け出していたものだけれど、今はこの子もそれを知っているものだから、腕の中にとらえて放そうとしない。それは、本当は、小さな頃から変わっていないと言ったら君は、驚くだろうか。それとも悲しむ?
石のスープの“正解”を寝物語のように話していると、じきにフェアナーロは私を抱きしめて目を閉じた。私も目を閉じた。瞼の奥で銀の光が踊るよう。声が途切れる。星がみえる――
良い息子たちを持ったね。星に後押しされたように私の唇から言葉がこぼれだす。君は幸運だ。立派な父親だ。
眸を開けばフェアナーロも何かを言おうとして。たぶん私は笑ったのだ。
いいんだよ。フェアナーロの瞳が少し、見開かれた。いいんだよ。私は嬉しい。君が、誇らしい。
そうして、また眠りにつく。夢を見なければいいなと少し思う。我ながらずいぶんと投げやりになっている気がする。けれど誰が何と言おうと、今私がとてもしあわせであるということは、イルーヴァタールにも変えられないほんとうのことなのだ。
今度は私と試合をしてくださいね。眠りへすべる直前にそんな声を聞いたように思う。きっとフェアナーロの夢にはこの夕べ、うさぎが駆け回ることだろう。アルダの野をどこまでも、どこまでも、駆けていく…
―――“天”へたどりついたら美味しいスープがふるまわれる。それが星の下なのか、金と銀の光なのかは、知らないけれど。