太陽のつばさ

   Ⅰ

 銀と金のふたつの木を手入れしているのはひとりのマイアで、名をアリエンといった。
 彼女の背中にはすきとおった空のような翅が生えていて、それでアリエンはどんな高い梢にも飛んでいくのだ。もちろんアウレの木の梢までも飛ぼうとは思わなくても――

 金茶の髪の青年が、エゼルロハールの頂に座り込んでいた。つまりはふたつの木の狭間だ。空を溶かし込んだ青の瞳が、風にゆらぐように飛び回る雪のましろの銀髪をしたマイアを見つめている。彼女のヴェールが無彩なのが彼にはつまらない。もっと色々な彩りがあればいいと思う。水が空にはじけた時のいろみたいに。
 ああ、わたし、今考えこんでるんだなぁ、と彼はぼんやり思う。かと言って何かを変えるでもなく、ただ座りこんでアリエンを見ていた。正確にはその背中を。その――翅を。
 アリエンの翅は風に愛撫され、風と戯れる。ゆぅらり、ゆらり。
 風のそよぎはいっせいに花を揺らし蕾を揺らし、最後の金のしずくと最初の銀のしずくを空に混じらせて散らす。風は喜んでいた。彼は微笑む。ああ、綺麗だ。

 アリエンが振り返る。彼を驚いたような顔で見ている。
「―――、どうなさいました?」
 色の薄い唇がちいさく動いて、金のしずくのように声が降る。そこに風がごぉ、とすこし強く吹いて、彼女の無彩のヴェールを空に舞い上げる。
「あのね、翅がね!」
 彼は明るい声で言った。穏やかになった風にのった声は、たやすく空の上のマイアまで届く。ふわりとヴェールが彼の手元にたどりつく。
「気になりますか?」
「マイアールでつばさがあるのって君だけだなぁって」
「ああ…。そうですね」
 アリエンは答えると、そっと銀の花を一房摘み取った。とたんにくるりと渦を巻いた風をとらえて、ふぅわりと地上に降りてみせる。
 立ち上がっていた彼は、にこにことアリエンを見つめた。
「でも、つばさより、風を踏むんだね」
「……ええ」
 またすこし風が吹く。アリエンは空へ舞い上がる。今度は金の木の方へ。
 光のしずくの散りおちる先に、ふわりと笑った彼が見えた。

「――うん、アリエン、君の翅はほんとにきれい」

   Ⅱ

 銀の刻の頃、ローリエンで幸せな眠りをとることに決めているのはひとりのマイアで、名をティリオンといった。
 ティリオンの指定席は木犀の茂みの間、小川のほとりだ。エゼルロハールから流れ出る小川は、いつぞやにウルモが帰ってきていた時、ヴァルダの桶から溢れ出した滴を導いたものだ。ローリエンまで流れることになったのは、マンウェがはしゃいではしゃいで、道すじを延ばしていったからだった。
 小川は出来た時から変わらずに、ふたつの木の様子を伝える。金の刻には金に、銀の刻には銀に輝く。だからティリオンはここを選んだのだろうとイルモは思っている。本当は、小川の辿り着く先、ローレルリンの方がより光としては輝いているのだが、あそこはエステの領域であって、イルモも頻繁に立ち入ろうとはしない。

 さて、そのティリオンをちょくちょく訪ねてくるのはアリエンで、彼女はたいてい両手に銀の花をいっぱいに抱えて、空をすべるようにやって来る。とはいっても飛んでいるわけではない。あまりに足取りが軽く音もないので、イルモが常々そう思っているだけだ。
 だからその日、イルモはその光景にびっくりして、口をぽやっと開けて立ち尽くしてしまった。
「…はね……?」
 ティリオンがすっかり寝転がっているのはいつものこととして、――その横に雪のましろの銀髪をしたマイアが座っているのもいつものことだが、……そのマイアの背中にふわりと風景をかすませて生えているもの――翅は、いつものことではなかった。
 うつむいていたアリエンがふと顔をあげる。振り返る、…と、風がざあっと吹いてあちこちを揺らした。イルモは、アリエンがヴェールを被っていないことに気がついた。彼女はぼんやりとティリオンに視線を戻しかけ、
「ああ」
と呟いた。そしてはっと顔をあげた。
「あ、イルモさま…?」
 今やっと気がついたかのような反応に、イルモはくすりと笑う。
「……翅、が、あるのだな、アリエン。わたしは知らなかった」
 近づいて見れば、翅は光にも似て、これで風をとらえられるのかと不安になるほど淡い。
「え…」
「しかし、何故、今日は出ているのかな」
 本性の透ける白金の瞳を覗き込んで、イルモはそっと緑灰の瞳を笑ませた。
「それに何かお悩みのようだし。…どうしたのだ?」
 夢幻を司るヴァラを見返して、アリエンは夢幻のように言葉をつむぐ。
「――翅、を、褒めていただいたのです。だから、このひとは、どう言うかと思って…。…来てみたら、あんまり気持ちよく寝てるんですもの…」
 銀の弓もつマイアは、幸せな眠りの中だ。銀をこよなく愛するティリオンが、なぜかアリエンだけは――彼女は見事な銀の髪をしているのに――避ける。アリエンがたびたび訪ねて来なければ、おそらくずっと顔を合わせもしないだろう。
「私の翅は銀ではないし、」
 アリエンはティリオンの髪を梳く。濃い茶色の髪が、アリエンのしろい指先で踊る。
「このひとの背中にはもっと大きなつばさがあって――」
 明るすぎる炎を本性にもつマイアは、その性をうかがわせる熱を帯びた声で続ける。
「私が風を踏むより軽く、遠くへ、このひとはいってしまうけれど」
 アリエンはすぅっと瞳を細めた。

「…ああ、私、このひとが好きなのです」

 ほぉっと息を吐き出して、そしてアリエンは微笑んだ。膝の上に置いていた一房の銀の花のつぼみを、イルモに差し出して。
 途端、ほろりと花が咲く。銀の光が、銀のしずくが零れだす。イルモもまた微笑んだ。花を持つアリエンに静かに告げた。
「――そなたの翅は輝くようだよ」

   Ⅲ

 東の涯へ遠ざかる月の島を眺めて立ち尽くすアリエンを、太陽の船に凭れて彼は見ていた。アリエンの背中に咲く翅は、今はすっかり光に似ている。
 闇が降りて、木は死んだ。川は枯れて、あの光はもう戻らない。
 アリエンは太陽の船に向って歩いてくる。出航のために。

「帰ってきた時はその姿の方がいいよ」
 言葉に、アリエンは彼に気づく。
「……どうしてですか?」
「わたしも、君のその姿の方が好きだから」
「も?」
「うん」
 アリエンはしばし黙り込んだ。す、と上げた瞳は強い白金。
「………。…私はもう風を踏まないのに?」
「うん」
「あのひとは、私よりも先へいってしまったのに?」
「うん」
「どんな高い梢よりも高くへ、私はいかなければならないのに?」
「そうだよ。だから、帰ってきた時はその姿の方がいいよ」

 差し出された彼の手をアリエンはとった。太陽の船へあがると同時に、アリエンの姿は光の糸のようにほどけ、炎そのもののようになった。白金の輝きは遮るもののない明るさ。呼応するかのように太陽の船もまた輝きを増した。
「帰ってきた時は…」
 アリエンは呟いた。太陽の船は空をすべり、ゆくのだ。行く先は東。今ならば、まだ、月の島の――ティリオンの背中を追いかけて。
「私は、“帰ってくる”ことはもうないのだと思うけど…」
「そうかな?」
 彼は笑っている。そうアリエンは思った。
「まだ…わからないよ。今度は君の背中をティリオンが追いかけるのかもしれないし」
 風がくるりと渦を巻く。
「考える時間ならたくさんあるよ。空の上で。だからアリエン――いっておいで」

 刻限だった。太陽の船はすべらかに空に乗った。風を受け、高みへ…高みへ昇ってゆく。燦然たる煌きで、アルダに最初の太陽の黎明を教えながら。
 空の上へ、上へ、上へ――星々の領域では風もなくなる。スーリモの祝福を受けながら、アリエンは真っ直ぐに前を向いて立った。遠く東の涯からじきにこちらへ向ってくる月の島のことを考えた。

 あのひとの光と私の光は混ざるだろうか?かつての刻のひとつのように。

   Ⅳ

 新しい金の光の広がってゆくのを見つめて、彼は考えていた。
 風もなくなるあの高みで、アリエンとティリオンはすれ違う。
 きっとアリエンはぴんと立って、前を見つめている。そしてティリオンは、そんな彼女に見とれるのだろう。かつての光の中で、幾度となくそうしたように、―――今度は、背中ばかりではなく、向き合って。

「………これって縁結びしたことになるのかなぁ、イルモ」
「あなたがちょっかい出さなくても、あのふたりの縁ならとっくに結ばれてる」
 背後から返された言葉に、彼は笑って振り返る。
「そう?」
「そう」
 灰色の髪をしたヴァラは重々しく頷いた。最も、同じ灰色の髪を持つ兄には遠く及ばなかったが。彼がますます笑みを深くするのを見て、続けてイルモはこう言った。
「だからあなたは心配しないで、帰ってきたら迎えればいい」
 彼は目を丸くした。輝く空の瞳が、ぱちぱちと数回瞬かれ、そっか、と彼は言った。
「いってらっしゃいには、おかえりなさい言わなくっちゃ、ね」
「…そんなこと言ったのか…」
「うん」
 無邪気に頷く彼を見て、イルモはやれやれと肩をすくめた。彼はイルモに近づくと、行こう、と短く言って通り過ぎた。

「――言えなかった相手もいるからね」

 ちいさく呟かれた言葉に、はっとしてイルモは彼の背中を見やった。
 長上王は、明るい笑い声をあげて、新しい光の中を駆けていった。