兄の一分

 トゥアゴンは変な奴だ。
 と言ったらあんたが笑った。変な奴だとは言われたくないだろうさ。お前には。
 何でだよ。言い返したらあんたが呆れたふうに肩をすくめた。そのうち分かる。だから、何で?あんたが皮肉気に笑う。
 ―――兄だから。
 痛みすら愛しそうな表情だった。

 マエズロスをサンゴロドリムから連れ帰ってきた夜のことだ。
 父上にこっぴどい説教と呆れ混じりの賞賛を貰った。やっと解放されて、走り出したいような急ぎ足で天幕まで帰る。
 月の浮かぶ空は深い藍色で暗く、しかし月から目を転じれば星が美しく輝いていた。
 “星々の輝くところがある”――月の出の前にいなくなった彼の人は、星をどう眺めたのだろう?
 月は――月は円くはない。どことなく朧な半円は、共にあった金の光のいないことに戸惑っているようで、白銀の光は大地に淡い影を落とす。
 西に消えていく時に、太陽は鮮やかな赤に燃えていた。……鷲の背中から見下ろした湖の、すきとおった赤――

 見張りが何か言いたげな目を向けていたが、その時は気にも留めなかった。
 重い幕をひとつ抜けるとランプの青白い光に満たされる。足を止めずにもう1枚くぐり抜け、……それを見た。

 寝台は薄い紗で覆われている。珍しい橙のランプは紗の外で柔らかな光を放ち、ぼんやりした暖かい色に室内を染めていた。
 寝台にはマエズロスが横たわる……空気が、熱いのか寒いのか分からない……その彼の上にかがみこむ人影がある……胃の腑がぐんと冷えた、口の中がからからに乾く……髪を梳き、汗を拭い、人影はかいがいしく世話をする……
 ―――あれは、だれ。
 何故か、頭が真っ白になった。父親の顔をしている。そう思った。
 あれは、だれ?あれはトゥアゴン。頭の隅で答える声がする。
 あれはだれ――そうだトゥアゴンだ、トゥアゴンが看ていてくれた。でも、あんなトゥアゴンは、おれは、知らない。
 あれは、誰だ。おれの何だ。
 ぐらりと世界が歪んだ気がして1歩下がった。幕に当たって音がたつ。トゥアゴンが気づく。呼ぼうとしたが声が出なかった。

 橙の光の下で、愛しい従兄を看ているあれは、誰だ。
 父親の顔をして、はるかに年上の従兄を見つめるあれは、おれの何だ?

「フィンゴン?」
 おれはわけのわからない恐怖にとらわれた。世界が色を無くす。おれが黙っているのをいぶかしんだか、トゥアゴンはこちらに歩みかけて、困惑した声で呼んだ。
「兄上…」
 ばしんと世界に色が戻った。
「兄上?」
 トゥアゴンがもう1度、呼んだ。
「あ、ああ、うん」
 まだ何かよく動かない気がする足を進めると、トゥアゴンは紗から出てきた。寝台をちらりと見やると、不機嫌そうに言いつのった。
「知っているとは思いますけど、衰弱が酷い。傷が多い。血が足りてません。熱が高いので意識もはっきりしない。でも、まあとにかく――生きています」
「――ありがとう」
 おれが言うと、トゥアゴンはいっそう苦い顔をする。
「……礼なんて言わなくていいんです。兄を助けただけです」
 嬉しくなった。
「だからお前が好きだよ、トゥアゴン」
 軽く言ったら、トゥアゴンはむっと口を噤み、やがて恐る恐る、というふうに言った。
「でも、……1番じゃない、でしょう?」
「お互い様だろ」
「私は1番なんかつくりません」
「おれだって、つくろうと思って決めたんじゃない」
「なんであのひとを一番になんかするんですか。私はあなたとあのひとの前には存在できないのに」
 ……驚いた。
 さっきあんな顔をしてマエズロスを見ていたくせに、気付いてないでそんなことを言う。
「ほんっと可愛いな、トゥアゴン」
 トゥアゴンは、心底気味悪そうにおれを見た。それがまた余計に可愛い。
「兄らしいこと、全然できなかったな…」
 ぼんやり呟く。トゥアゴンが自嘲するように笑った。
「…私だって、弟らしくはなかったです」
 そうか、と言いながら踵を返す、と、え――と慌てた声がする。
「どこ行くんですか。あなたが居てくれないと、私がこのひとの面倒見る羽目になるじゃないですか。もう限界なんですいい加減。首絞めそうで怖いですさっさと代わってください」
 おれは首だけ振り向ける。
「絞めても文句言わないと思うぞ。死にたがってたから」
「っ、……莫迦言ってるんじゃないですよ」
 トゥアゴンは、おれの腕を掴んで引き戻した。
「まっぴらです。なんであなたが助けたものを、私がわざわざ刈り取らなくちゃいけないんですか」
 真剣な目。可愛いひねくれ者の、それは多分、本音。ぐいぐいと引っ張っておれを椅子に座らせると、肩をつかんで言ってくる。
「大体、そんなことしたら、あなたは今度はマンドスに突入しに行くでしょう。フィンゴン」
 笑いがこみあげてきて、抑えようとして、こらえきれずに口が笑った。そっと窺うと、トゥアゴンは見本のような渋面をして、口を数回ぱくぱくとしていたが、やがて眉間にくっきり皺を刻んだ。
「………」
 出て行こうとするが、幕を抜ける前に足を止め、振り返る。
「――よく、見張ることです。フィンゴン」
 おれは眉をひそめる。看るなら分かるが…
「見張る?どうして」
 問い返すと、トゥアゴンはもどかしげに息をついた。
「そっちじゃありません」
 外をちらっと見て、トゥアゴンは戻ってきた。ごく低い声で囁く。
「周りをよく見ることです。フィンゴン。そのひとを守りたいなら」
「………そんなに酷いのか」
「だから急いで帰って来たんじゃないんですか」
 おれは黙った。トゥアゴンも黙った。
 2人で黙ってみると、わずかに幕を揺らす風の音に紛れて、かすかな、苦しげな息づかいが耳につく。
「早く治ればいい」
 眉間に皺を寄せて、吐き捨てるように突然トゥアゴンは言った。おれは噴き出した。トゥアゴンが信じられないものを見たような目つきでおれを睨んで、それから少し泣きそうな表情になった。
「なんで笑うんですか」
 お前が可愛いからだよ。そう言ったら、多分さっきよりももっと気味が悪いという顔をするだろう。
「それでこそトゥアゴン。でも好きだぞ。そういうところ」
 トゥアゴンはむっつりと口を閉ざしていた。つい――言ってしまった。
「多分おれを見捨てるところまで」
 は、とトゥアゴンが顔を上げる。おれ自身も驚いている。
「それが兄ってものだろう」

 むかし、マエズロスが言った。そのうち分かる。
 兄だから、例えばそう、痛みさえ愛しく思うことがあると。
 おれはトゥアゴンに散々迷惑をかける。心配をかける。トゥアゴンが怒る。もっと自分を大事にしろと言う。
「おれは――自分を大事にしてないわけじゃないんだ」
 だけど。だけど目の前に、もっと自分を大事にしてない奴がいたら?そして、そいつが自分にとって、とてつもなく大事な存在だったら?
 同じことだ。そういう意味では、マエズロスとおれも、おれとトゥアゴンも。
 ああ、でも、そう。
 これは言わなければ、と思った。トゥアゴン。
「お前にわかってもらえなくても、嫌われても、おれはお前が好きだよ」

「……嫌うわけないでしょう」
 トゥアゴンが、しぼりだすように言った。
「ほぉ。なんで?」
「“弟だから”ですよ。見捨ててもね。大好きですよ。ええそうです。“弟”ですから!」
 投げやりに言い終えて、トゥアゴンは少し笑った。
「あなたも同じだ。私が見捨てても好きでしょう。“兄だから”………兄上」
 トゥアゴンは、また父親の顔でマエズロスを見た。
「そのひとも――兄です」
 おれは微笑んだ。うん、――兄なのだ。