氷の嵐を見たか
砂漠に降る雪を見たか
わだつみの底に吹く風を聞いたろうか
我らが月の欠片を食べて以来
私には火しか見えない
もう眠れない
銀の花を食べてみたことを私は覚えている。ひとつの花房から、無数のちいさな花のいくつかを摘み取り、噛みしめたことを覚えている。
開きかけた花びらは光の雫をしたたらせ喉をすべりおち、身体の奥に熱を、舌には苦みをもたらした。そうしたらフィンゴンは、私の目の前で、大きな瞳をまるくして、食べちゃった、と云ったのだった。
私が噛みしめたかったのは花ではなかった。彼という存在だった。
「……苦い」
逆三角形の銀の花房を、左の手から垂れ持ちながら、マエズロスはそう呟いた。右の手は、ちいさな花を運んだまま、まだ唇の上にある。
隣に座ったフィンゴンは、銀の花房に手を伸ばしたが、それより早くマエズロスの手が花を摘み、彼の目の前に突き出した。
「ほら」
だから当然、フィンゴンは手を出したりなぞしなかった。花持つ指に唇を寄せ、花を含んで、指を食んだ。食んだ瞬間、ほそい指はぴくりと震えた。
ことさらゆっくりと指を食んだ。指先を吸った時に喉が花を呑みくだした。
「フィンゴン…」
いささか苛立った声をマエズロスはあげたが、指を食む彼は気にもかけず、両手でマエズロスの手を包み込み、愉しげに舐める。取り返そうとしても離さない。マエズロスは逆の手でフィンゴンの頭を叩いた。その手に持った花房で。
とたんに指に歯がたてられた。手を離そうとはせず、指を噛んだままフィンゴンは、ちろりと目をあげて、笑いながら云う。
「痛い」
マエズロスは無言で、もう一度花を彼の頭にぶつけた。花房から花はこぼれて、光の粒が周りに舞う。するとフィンゴンは歯をゆるめ、おそらく歯形を舌でなぞった。マエズロスは眉をひそめた。
きしきしと骨が軋むような気がする。どうしてこうなるのか。
食いたいのは私の方だと云ってみたらどうだろう。
「甘いよ」
ちゅう、と指を吸ってフィンゴンは云った。
「私は飴じゃない」
「でも、甘いよ」
「花の味を聞い――」
マエズロスは、ふるりと身を震わした。ちいさく開かれたままの唇から吐息が落ちる。左の手の花房からは、はらはらと花が光となって零れる。
指からつらぬく感覚もさることながら、うつむいたフィンゴンの首、その背中へ続く骨の動く様が、薄ら汗ばんだ肌から匂う艶が、音を散らした。くらり、視界は色を溶かして渦を巻く。
「――ぁ――熱い…」
フィンゴンの舌が手首を舐めた。
空が見える。銀色の空。
銀の光、銀の花、銀の輝き。そらをゆく――
月光は冷たい色をしている。マエズロスはそう思う。つめたいいろの下でこの身体はあたたかい。そうも思う。
指先までじわりと高められた熱と熱は、月の下の白い身体から溢れてすべる。
マエズロスはフィンゴンの耳に歯をたてた。銀の花。銀の花。思い出されてならない。
ああ、今、お前を食いたい。お前を噛みしめたくてたまらない。
くちづけは互いの息をすべて呑みこんで、またも、くらり、視界は渦を巻く。熱は零れて、ふたつの身体はまだ離れようとしない。
喉の奥は苦くて熱い。お前の血はきっと甘い。花の香がする。
あの花に香はないのに。
あの銀の花はもうないのに。
空をゆく銀の光はつめたかったが欠片を食べた我々は光を零す花のような甘い熱しか感じていなかった。
もう眠れない。だが、めざめは切なく遠い。