歌の架空

 あんたはどんどん冷たくなるな。
 男は拗ねた声で云う。それが体そのもののことを云っているのか態度のことを云っているのか私にはわからない。
 こんな山のてっぺんにいるのがいけないんだ。これじゃあんたは相変わらず“高嶺の花”だ。今度狩りにゆこう――
 そんなことを男は云う。そのくせ訪うと必ず私と部屋にこもる。
 私はほとんど寝台の上にいる。男とくちづけをするといつも火を呑んだようだと思う。

 この男が誰なのか何なのかたまに私にはわからなくなる。手や足の先にくちづけながら冷たいという男を私は知っているのに思い出せなくなる。
 男のくちづけは火を呑んだように私の身に炎を熾す。くちづけのあとは触れる指があまりに熱くて私は吐息をひとつ吐くごとにこの男に溶かされていく。溺れる。
 ゆるりと長いやさしい愛撫に私がすっかりとろけた頃に男は囁く。マエズロス。マエズロス。マエズロス…
 私は身に押し入るものをより熱く感じる。背がぞくりと震える。私は手を伸ばす。男の顔を見ている。夜色の黒髪にやわらかなきんいろ。霧のかかった紫の瞳。私の手は空をかいて男の背にふれる。男は私の吐息を呑む。言葉を呑む。だが唇が離れた時に私の喉からはようやくひとつの言葉が放たれる。
「フィンゴン…!」
 男は――フィンゴンは笑う。そして云う。
 ああ、あんた、やっとおれの名を思い出した。

 暖かいまどろみの奥で彼の歌を聞いた。聞いたことのない恋歌はひどく綺麗な旋律で耳から脳髄を愛撫する。私は竪琴の上をすべる彼の指をみつめていた。
 弟や従弟妹たちはみな私にとっては守る対象でそれは今でも変わらないのに。……なぜ彼だけがこうも鮮やかにそこからはみだしてしまうのだろう。
 愛しているというには我を忘れすぎる。恋というには甘やかではない。食いたいというのが一番しっくりくるのだけれど。
 だけれども情交の最中に彼の首や肩や腕に噛みつくたびにああこの子は私に食われることはないと安堵する。その時ばかりは私は彼を“子”だとみている。私のかわいい子。いとしい私の獲物。手は届くのに得られない。征服できない。

 彼が来ると私は休日になる。彼と話し彼と行動する。ほとんどは部屋にいる。私はよく眠る。彼がいる時は夢をみない。彼がいる時は私は放っておけば何も考えていない。時々困るとこぼしたら彼は云った。
 あんたの考え方は複雑すぎて疲れるだろうから、そんな時がある方がちょうどいい。おれのことだけ思ってればいい。あんたはいつも考え出すと、おれのことなど忘れてしまうのだから、今はおれのことだけ思っていろ。
 みつめていたのに私の目は何も映していなかったらしい。彼はいつの間にか竪琴を置き私の髪を指で梳いていた。
「歌は」
「え?」
 私はぼんやりした声で問う。
「今の歌は…?」
 彼は笑った。
「恋歌だよ」
「…ああ」
「教わったんだ。あんたに聞かせたかった」
 彼は私の髪を指に絡めて弄ぶ。
「あんたに、知っててほしかった」
 彼が何のことを云っているのか私にはわからない。彼がいる時に考えないからだ。そのうちわかると云ってまたくちづけがおりてくる。私は舌を絡めながら思う。フィンゴン。お前の息づかいが音楽のようだ。すると彼は今度は私の胸にくちづけて云う。
 あんたの鼓動が音楽のようだよ。

 世界がある。お前がいない。…そして私は夢からさめる。

 世界がある。お前がいない。お前がどこにいるかと考える。お前がいなくなってからお前のことばかり考えている。世界がある。お前がいない。お前はマンドスにいるのだとどこか深くで声がする。本当だろうか? それを考え出すと私の耳にはあの恋歌が響きだす。

   眠れずあなたは星を眺めているだろう
   息をひそめ希望の輝きを見つめているだろう
   ただひとりで

   夜明けと共に
   あなたを抱きしめ
   くちづけてあなたの言葉を我がものと
   互いを互いのものと知らしめよう

 ここはどこだろう。私はどこにいくのだろう。私はお前を思っている。歌が響く。

   (闇の中で泣く
   あなたのもとへいくよ)

「続きは?」
 私はびくりと身を竦ませて声の投げられた傍らを見る。お前は微笑んで私に問う。
「続きは?マエズロス」
「忘れてしまった」
 お前の微笑みは変わらない。
「フィンゴン。……私はお前にあいたかった」
 お前は静かに私の目を覗きこんで云う。
「――あえるよ」
「いつ?」
「さあ」
「そんな答えではさっぱりわからない」
「早い方がいいのか、遅い方がいいのか、おれにはわからない」
 私はたぶん涙を流している。お前の指がそれを散らす。
「歌の続きは忘れてしまった」
 私はお前にふれようと手を伸ばす。お前は近くにいるはずなのに届かない。
「……あんたは知ってる」
 お前は笑みを深くして私の手のない腕にふれる。
「知ってるから、わかるだろうよ。その時に」
 そうして腕にくちづける。すっかり白んだ空が金に輝く。私は云う。
「あいたいんだ。フィンゴン」
 世界がある。お前がいない。
 私はひとりきりで立ちつくす。

 その夜明けは珍しく霧が濃く空はお前の瞳のようだった。
 灼けつく手も誓言も一瞬前まで考えていたことはすべて消えた。成すべきことはわかっていた。そう動いていた。
 けれど私はお前のことを思う。これぞ恋の成せる業よ。お前のことを思い出す。お前のことを考えている。これぞ恋の勝利よ。……そう。確かに私はあの歌の続きを知っている。そして歌えはしない。

   夜は去り
   星は沈む
   暁がわれらの勝利
   恋の勝利

 それでも身に熾る炎は私の瞼の裏でおわらない。お前の口づけが息づかいが私の中に響いておわらない。
 歌がこだまして私はその時恋の勝利を知った。かなた昔に予言されていたような恋の勝利を。お前の――そして私の恋の、勝利を。