「ミスリル」

 ある年の夏、やって来たやせっぽちの若い役人は、鉱夫たちに冷ややかに迎えられた。見棄てられた鉱山に、中央の役人が何をしてくれると言うのか。数年単位でやって来る視察は、通り一遍のもので、良くなったことなど何一つなかった。
 カルと名乗った彼は、その日いちにち坑道に入り、鉱夫たちの働きを見物していた。あんまりおとなしかったので、途中から鉱夫たちは役人の存在を忘れていた。日の終わりに挨拶された親方が「お前まだいたのか!」と叫んでいたくらいだ。
 翌日からは坑道にいなかったが、これも役人としては普通のことだった。鉱夫たちは一日働き、いつものごとく実りは少なく、それを数日続けて、近くはない家に帰る。
 すると何故かやせっぽちの役人は、鉱夫たちの家のある集落で、アンドゥカル≪没り日≫のおにいちゃんとか呼ばれて完全に子守をしていた。交代する鉱夫たちから聞くに、男たちからはいささか不気味に受け止められていたが、女たちは彼をある意味でこき使い、ある意味で同じ輪に入れてたくさんの話をしていた。
 それが始まりだった。カルはだいたいひと月滞在して中央に帰っていった。
 と思っていたのは鉱夫たちだけで、カルは鉱山を巡って視察を続けていたのだった。現れては鉱山集落同士をつなぎ、鉱脈の調査と、鉱山都市の計画を進めていく。鉱夫たちにも道具や生活の不満などをこまめに聞き、予算をつけ、――そして、今まで稀にしか採れることのなかったミスリルを目指した大規模事業が始まった。中央からの担当顧問官はもちろんカルだった。
 親方は顧問官に出世したのかとカルに絡んでその赤毛をぐしゃぐしゃに撫ぜ、この事業だけの特別な肩書です、そのまま通常の肩書になると良いんですがねとぼやかれていた。鉱夫たちは、その頃にはもうカルのことをうちの村から出た役人さん扱いしていたから、出世は大きな祝い事だった。ミスリル事業の決起会にはもちろんカルを引きずり込んで、しこたま飲ませて身内扱いした。
 ミスリル事業は最初からうまくいったわけではない。鉱脈がかなりの深度だということは分かっていたし、鉱山都市を形づくる過程で事故も事件も数多くあった。カルは山ほど書簡をやり取りし、鉱山へ来る頻度は落ちたものの年に1度は顔を見せ、気づけば顧問官は特別が外れてカルの普通の肩書になっていた。
 鉱夫たちは、カルがおそらく並みではない――生きる時間が違うだろうことを感づいていた。すっかり白髪になった親方が、変わらぬ容姿のカルの頭を撫でて、もう鉱山はお前の実家みたいなものだろう、と諭していたのも見かけたことがある。カルは初めてやって来た頃よりは肉がついたものの相変わらずの細身で、ちゃんと出世しているのにいつまでも腰が低く、だからやっぱり子供たちからはアンドゥカルおにいちゃんと呼ばれていた。今の子供たちからも、昔の、もう今や立派な鉱夫たちからも。
「ヘルカルモさま、お返事を頂くかお戻りになられるかです」
 中央からの使者の方が派手ないで立ちだった。そういう使者が来て、やっと鉱夫たちは、そういえばカルは大変お偉いさんなのだったと思い出したくらいだ。坑道の入り口まで来てわめきたて、わりと奥に潜っていたカルは慌てて戻って来たのだろう、粉塵まみれで使者ともめていた。
「よろしいでしょう。どうしてもお聞き入れにならなかった場合、手紙を大声で読み上げよと仰せつかっております」
 使者が突然辺りにも聞こえるような声ではっきりと言ったので、鉱夫たちは皆面白そうな気配に耳を澄ませた。
「『愛しいヘルカルモさま あなたはヴァニメルデを殺めておしまいになるの。私はあなたがいないので毎晩』――」
 大声を上げて使者に掴みかかったカルの顔を見て、みんな笑顔になった。髪と同じくらい真っ赤じゃないか。ヴァニメルデ王女は見る目がある。カルは消え入りそうな声で、だって私は底辺の生まれで、王女殿下にそんな…とぶつぶつ言っていた。
 とろけた没り日のような赤毛の顧問官が、最高顧問官になり、王の会議で最も重要な地位を占め、――そして王の世継、ヴァニメルデ王女の婚約者となったと聞いた時、鉱夫たちはざわざわと噂したものだ。ほら、やっぱりあいつは高貴の身だ、あいつなんて言っちゃいけないな、あの方は高貴の身であったではないか!
「アンドゥカル執政閣下に乾杯!」
 ミスリル鉱夫なら誰でも、その名を称えるのにためらいは無かった。いつもそうやって宴を始めているのだから。

「タル=アンドゥカル! タル=アンドゥカル!」
 ……世継の君アルカリンは鉱夫たちの訴えをいたく機嫌良く嘉納した。そして母女王にそっくりな美しい貌で貴男達と同じ気持ちで嬉しい、と笑った。
 けれどもうひとつ事を進めてみる気はないだろうか。わたしは父ヘルカルモに王笏を受けさせたいのだ。
 地をどよもす歓呼の声はタル=アンドゥカルの名を称え、王笏が当然あるべき処へ渡ったと喜んだ。
 ミスリルをこよなく愛したタル=テレンマイテでも、その娘、芸術擁護のタル=ヴァニメルデでも無かった。その二代の王の間に、実際王の仕事を務めていたのは誰なのか、誰もが知っていた。だからこそ代を重ねても鉱夫たちは大声を上げてその名を称えるのだ。
 鉱山へやって来た顧問官はひとりしかいなかった。鉱夫と話し、鉱夫を気にかけた最高顧問官はひとりしかいなかった。閣下と呼ばれる身になってもやって来たのだ、彼は。王配殿下に抱き上げて貰った子も数多い。
「タル=アンドゥカル! 我らが王よ! 万歳!」
 黴臭い歴史家たちにはこう言ってやれ、アンドゥカルの肩書が変わったことなど何ほどのことだろう、彼はずっと、もう長い間、200の歳月我らの王であったのだぞ、と。