「ヴァラール」

 双子が曲がりなりにも落ち着いたのはほぼ同時だった。エルロンドが空っぽになったお茶の名残を見つめている間に、エルロスは一度も手をつけていなかったお茶を一気に飲み干して、「ギル=ガラドどこ」と強張った声で言った。
 バラール島に来たことはもちろんあったが、今いるこの館は全く見知らぬ処なので、双子にはてんで勝手がわからない。
 誰かに保護者の行方を尋ねようにも、皆それはそれは忙しそうなので声をかけづらい。
「あのひとにしよう」
 エルロスがそう言った時、エルロンドはそのひとを目にして、知らず言葉が飛び出た。
「赤いから?」
「ん、赤いから…」
 エルロスの同意を聞きながら近づいたそのひとは、赤いところは見目にただのひとつもない。長い黒い前髪を後ろにかきあげながら、ふわわわ…と豪快なあくびをしていたそのひとは、ぐるぐると髪を棒状の何かでまとめると、初めて目の前の双子に気付いたように目を瞬いた。とりわけ濃くて澄んだ藍色の中に、星がちかっと光るような瞳をしていた。
「あふ、ごめん。何?」
 あくびの小さな名残を吐き出してそのひとが訊いたので、エルロンドはぴくっと正気付いた。一瞬思考がどこかに飛んでいた気がする。
「あの、ギル=ガラドを見かけていませんか?」
 そのひとは鷹揚に頷くと、くるりと踵を返した。
「あの子、会議中だな――こっちだ」
 エルロンドはエルロスと目を合わせた。当たり? 大当たり。でもこのひと、誰?
 すぐ目の前を歩いているのに、そこにいないような気がする。もっとずっと、大きなもの。ずっと知ってる、思い出よりも身近で…
「エダインはどうなるのですか?」
 突然、行く先から良く知った声がした。ギル=ガラドの声だ。他に誰かも話しているようだったが、きっとエルロンドの耳は、知っている声だけをよく拾った。
 議場、というには開放的な大広間で、会議は行われているようだった。ここは階上で広間のぐるりの回廊だ。エルロスが手すりに駆け寄った。
「人の子に何か報いる手立てはないのでしょうか?」
 覗き込んだ先では、色が溢れていた。
 というのは控えめな表現だ。エルロンドは目が眩んだ。閃光を見たように目を瞑って顔を逸らし、逸らした先でエルロスを見て、エルロスが一心に見つめている先を見て――ギル=ガラドを見つけて、ようやく視界を取り戻した。エルロスが唸り声で「小っさ」とぼやく。
 保護者が少年の姿形なのにはとうに慣れていたが、何もかもが圧倒的なこの議場の中では、本当に小さく思える。同時にエルロンドの目には、強すぎて混沌とした気配の中で、確かな線を保っているのは彼だけだった。
「くっきりしてるよ」
「そうだけどさぁ」
 見つめる先で会議は続く。あまり飲み込めない応酬があって、ギル=ガラドは相手をむしろ睨みつけるような勢いできっぱりと返した。
「議題に上がらぬようだから申し上げたのです」
 議場の空気もざわついたが、それよりも双子の間近で、連れて来てくれたそのひとがふふっと笑った。
「さすがノルドール。運が強いなー。あの子が王なのは本当に得難いことだ」
 双子は驚いてそのひとを振り向いた。そのひとはもう、姿があるようには見えなかった。エルロンドはエルロスがきゅっと手を掴んだのを感じた。冷えた指。議場からギル=ガラドの声が聞こえる…。
「思い至らず忘れてしまうことはどの立場であっても起こり得ること。ましてやここには代表するものがいないのですから私から申し上げました」
 あっはっは! そのひとが、澄んだ大きな声で笑った。明るく鮮やかな赤の炎が心に躍った。
 そして、そして、そして――空白。

「どうしてうちの双子とご一緒に?」
 探るようなギル=ガラドの声がすぐそばで聞こえて、エルロンドは目を開いた。…閉じていた? 忙しなく瞬く横で、エルロスも腑に落ちない顔をして額を押さえていた。
「お前を探していたから連れて来た」
「……ありがとうございま、す?」
 ギル=ガラドの声が乱れたのは、そのひとに頭を撫でられたからだろう。細かな紅玉貴石を散らしたような赤い光が舞って、おそらくただ撫でられただけではないのが分かった。
「ヤヴァンナがいなくて良かった。いま持ってかれたら困る…」
 そのひとはぶつぶつ言うと陽炎の揺らぎのように階下に去った。そのひとの姿は、今はもうはっきり見えたが、気配は明らかに圧倒的だった。
「なになになになに」
 エルロスが悲鳴みたいな声を出してギル=ガラドを抱きこんだ。
「……なんだろう?」
 首を傾げるギル=ガラドに、エルロンドも寄り添った。あのひとがヴァラールであることが分かったら、何故だか今さらぞっとしたのだ。
 エルロスは落ち着かなげにぎゅうぎゅうギル=ガラドにしがみついて、しばらくしてからぽつっと言った。
「ヴァラールこわ…」
 残念ながらエルロンドも同意だったので、無言で2人に腕を回した。ギル=ガラドは双子に挟まれたままちょっと黙って、それから控えめな声で言った。
「お優しい方々なんだけどね…」
 エルロスが思いっきり顰め面になった。エルロンドは抱きしめる力を少し強くした。