楽園の東側

彼は氏族の王フィンウェを愛してやまなかった。
およそノルドールとして生を受けた者なら皆そうであるように。
彼は、王に気安く傍に寄ることなど出来ない、
高い地位も身分も持たぬ民のひとりに過ぎなかったが、
思うだけならば自由であろう。

彼が王に会えるとしたら、最も早い手段は悩み事を抱えることであった。
他の誰にも解き明かせぬ悩みを持つこと。
氏族一の賢者に訴えろ、と周囲が勧めるような深い悩みだ。
彼はその手段を選ぼうとは思わなかった。
煩悶するような悩みは、彼にとっては他ならぬ王に対する思慕の情以外になく、
それはまた訴えても解消されるとは思わない――
解消されては逆に困るかもしれない悩みなのだ。

彼はフィンウェと話したいのではなかった。
フィンウェの心に留まりたいのだった。

彼は職人であった。
巧みな手の技と、激しい心の熱を持つ職人であった。
凡庸な両親を持つ身としては恐ろしいほどの才能を持ち生まれた子だった。

ヴァラにも過ぎるほどにその才を愛でられ、
師匠の工房も早くに出て、新たなものを捜し求めて大地中を彷徨った少年時代。
求めるものが分からず、
狂おしい思いだけを抱えて満たされずにいた彼を、妻が迎え入れた青年時代。
そのどちらの時代にも、
そして今――愛する妻と愛しい子どもたちを得た今もなお、
彼の心の至上の位置を占める者、恋しく崇め身を捧げて焦がれる者はたったひとりだけなのだった。

妻も子もそれを知っていて、理解していて、
だがわかってはもらえなかった。
彼自身もわかっているのではないのかもしれない。

彼にひとりめの子が出来た頃、彼は文字を造りあげ王に捧げた。
フィンウェは文字を嘉納し、文字を使い、教育機関というものをつくりあげた。
が、文字を造った彼のことは忘れた。
忘れたというのが正しい表現なのかは分からない。
フィンウェは記憶しない。
少なくとも、日々めぐる時間の中で自ら興味を示すことはない。
フィンウェはノルドール全体には心をくだく。
相談事には個々にあった答を導く。
けれど、フィンウェから働きかけることは決してない。

そうして、ただ遠くを見ているかのような眸で笑う。

彼が生まれた頃にちょうどはじめの妻を喪ったフィンウェは、
時の過ぎた後、子を望み二度めの結婚をした。
そしてふたりの王子とふたりの姫を得た。

それでもフィンウェは変わらなかった。
相変わらず自ら働きかけることはなかった。

――噂は言う。
特別だったのはただひとりだと。
今や二度と現世へは戻ってくることのない女が、
フィンウェ自らそう仕向けることになった女が、唯一の例外だと。
はじめの妻、フィンウェに恋をさせた女。
……彼は王妃を思って胸が締まっていくのを感じる。

彼の子が四人を数えた頃、
彼は名を知らぬもののいないほど偉大な匠であった。

少年時代からの技量は褪せることなくさらに輝きを増し、
心の方も相変わらず激しい熱をあげて新たなものを希求していた。
恋情も余計に増したようだった。
彼は光る石に取り組んでいた。
光を石の中に閉じ込めておく術を模索していた。

彼がエルダール一の子沢山な父親になった頃、
彼は炎でなしに光るランプを完成させた。

光る石の完成だった。
彼はやはりそれをも王に捧げ、フィンウェは変わらぬすきとおった笑みでそれを嘉納した。
そしてやはり、彼のことを記憶しなかった。

それでも彼は薄らと満足らしきものを覚え始めた。
――フィンウェがランプを掲げてティリオンの裏を、影成す道のその先へ、
暗い影の直中を歩むのを見たからだった。
少しずつ、彼の手になるものがフィンウェの周りには増えていく。

彼の五人目の子が彼の工房に出入りするようになった頃、
彼はパランティアを造りあげた。

見る石、それとも意志のある石とでも言えば良いか。
石は造り手に従うかと思われたが、そうではなかった。
最も良く従うのはやはり王だった。
彼は笑った。ああ勿論、そういうふうに造ったのだ。
彼は何も言わずに王にそれを捧げ、フィンウェは蕩けるような笑みでそれを嘉納した。
彼はフィンウェの眸が何も見ていないのに気づいた。

見る石を捧げたのに。
望みさえすれば、おそらくあの綴れの館の奥までも見通せように。

やがてフィンウェは戸惑ったように眸を伏せた。そうか。
風のそよぎすらない場所で、それでも大気に溶けてしまう密かな声で、王は言った。
そうか。…………

彼には答の出せない問いがひとつあった。
フィンウェへの恋情ではない――
はるか昔に、工房へと行き始めた時に師匠に問われたものだった。

世界で最も美しいものは何か?

答えられなかった彼に師は安堵したように笑った。
その答が見つかる時が楽しみでもあり恐ろしくもある。
そう言って、師は彼を自らの工房へ受け入れた。

彼の妻も同じことを聞いた。
あなたは何を世界で最も美しいと思うの。
答えられなかった彼に、微笑んで、妻は彼を迎え入れた。
妻の中、妻のすべて、妻の在りかに。
彼は自分が愛されているということを知った。

彼には彼のすべてをもって造りあげた宝玉があった。
光の源、二つの木の光を棲まわせた三つの宝玉。

シルマリルと後世に呼ばれるその宝玉を、彼はこの上ない緊張と共に王に捧げた。
フィンウェは驚嘆し、感動し、
しかし喜びをもって納めてはくれなかった。
憂いと悲しみと、彼に対する哀れみをもって宝玉を受け取った。
彼は笑った。
――ああ、そうなると思っていた。

その宝玉は世界で最も美しいと、誰もが言ったのだけれど。

彼は今や心から熱という熱が、思いという思いが去ってしまったように感じていた。
ただ目だけをぽかりと開けたまま幾日も臥せり、
妻の声にも子らの声にも動かされず、
師の訪ないにもヴァラの呼びかけにも応えを返そうとはしなかった。

まだこたえがわからない、
彼はそればかりを繰り返した。
王のはじめの妻が去った理由を知ったと言えば、あの方はここへやってくるだろうか。
いやそれでも私を見てはいない。

彼は敗北者だった。
すべてを手に入れたと周囲は言った。
一番の望みが叶わないことを彼自身は知っていた。
彼に差し出せるすべてを差し出して、失敗したのだと彼は思っていた。

取り返しがつかないのだ。
二度と、彼は、あの宝玉を作り出すことは出来ず、
彼のすべてを篭めることは出来ず、
そしてどれほど時が経とうともフィンウェはそれを嘉納しないだろうと思われた。

彼の愛は深く真摯で純粋だった。
同時にたったひとつ求めた見返りは彼にだけは与えられなかった。
彼の心をほんの少しだけ慰めたのは、
――噂によらず自分の目で確かめたことには、
フィンウェの私的な関心を得る者は亡くなった王妃以外にはありえず、
その王妃は決して帰ってこないということだった。

彼は問いたい。
せかいでもっともうつくしいものはなに?
彼は答を返されるだろう。
その答に深く頷くだろう。
彼の心は満たされるだろう。
そして飢えるだろう。

………彼に向かって、闇の中に響く声が重々しく告げる。
あの宝玉を開く術を語れと。
彼はむせび泣き告げる。

好きなようになさるとよろしかろう、
あれは王に捧げたのです、
王のものです、
砕くすべも開くすべも知りはしない、
いやとっくに砕けている、
あれは私の心、
私の愛、
私のすべて、
喜びそのものから生まれて喜びを持たずして納められたもの、

…ああ、フィンウェさま、フィンウェさま、フィンウェさま!
なぜ何も言ってくださらないのです、
なぜ、なぜ

『おまえはいつもそうだね?』

………世界で最も美しいものはあなたの心、
あなたの愛、あなたの命、あなたの生き様。

彼は呟く、血に濡れた亡骸の傍らに座り込み、同じ血に濡れた手から剣が重苦しく落ちる。
あなたのすべて、あなたの世界、
……彼は呟き続ける。
ざわざわと闇が蠢くのにも、宝玉の光が血で塗りつぶされていくのにも気づきはしない。

彼は少なくとも一度だけ哀れみを得ることは出来た。

またその眸が私を見なくなるのなら、世界がすべてあなたの眸から消えてしまえばいい。

そんな夢をみた。
フェアノールは息苦しく泣いた。
フィンウェは、笑った。