君を離れて

 ティリオンの王宮は、ミーリエルにとって、居心地の良い場所ではない。
 そして、同時にそこの主にとっても最も居心地の良い場所とは言い難い。それをミーリエルは知っていた。王宮が、――王という位の示すものが、その役目が、フィンウェを疲れさせるのをミーリエルは知っていた。だから千度、求婚を拒み、……最後の一度に根負けして頷いた。
 どうしてこうなってしまったの?
 短い眠りの時間に、ふと夫の寝顔を盗み見て、ミーリエルは考える。フィンウェの眠りはとても浅いから、ミーリエルは心臓の鼓動ですらうるさくはないか不安になる。
 愛している。
 愛されている。
 一緒にいたい。
 それらの望みが全部、ミーリエルとフィンウェはぴったり添っている。
 どうしてこうなってしまったの?
 泣き出したい気持ちでミーリエルはフィンウェの鼓動に、息に、耳をすます。――朝が、来なければいい。

「ノルドールは、いつまで赤子でいるつもりなのでしょう?」

+++   +++   +++   +++

「褒めて」
「え、……っと」
 突然に里帰り、とでもいうのだろうか、マハタンが妻と共に住む家にやって来たミーリエルは開口一番そう言った。
マハタンは茫然と立ち尽くした。
そのうち手元のフライパンが火を噴いた。
同時に背負っていたネアダネルまで泣き出した。
 ひゃあ、と間抜けな叫び声をあげて、マハタンが火を消している間に、背中のぬくもりがふと消えた。
「ほ~ら、泣かないのよネアダネルー?ミーリエルおばちゃんですよ~?」
 ほんの一瞬沈黙があって、それからきゃっきゃと笑う娘の声が聞こえた。マハタンは見事な炭になったパンを始末すると、手を拭いて振り返った。いい、もう、食事は後だ。
「エレマールは?」
「今日は仕事だけど――その、ミーリエル?」
 娘をあやしてくれながら聞いてくる“姉”は目だけがどんよりと暗かった。完璧な笑顔が物凄く、怖かった。思わず娘をひったくるように取り返してしまったマハタンを誰も責められないであろう、多分。
「……何するのよ」
「あ、え、その、」
 がっちりしっかりネアダネルを抱っこして、しどろもどろになるマハタンを見て、ミーリエルはふぅっと息をついた。しばらく沈黙した後、椅子に腰をかけて、彼女は額に手を当てる。
「あたし、そんな怖い顔でもしてる…?」
「う、」
「うーうーん!」
 マハタンの詰まった言葉を吹き飛ばすようにネアダネルが叫んだ。ミーリエルはきょとんとして、それからやっと、今日初めて、笑った。

+++   +++   +++   +++

 昼日中に、昏倒するように寝入ってしまった夫の頭を膝に抱いて、ミーリエルは至って無邪気に「相談」をまくしたてる相手の顔をじっと見つめた。……おかしい、と思っていた。
 ミーリエルは一度視線を伏せ、夫のかすかな寝息を見る。
 この時間を壊したくないと思っていたのだ。――だから。
「……それは本当にフィンウェさまに言わなくては解決できないことなのですか」
 舌が凍るかと思うような声が出た。あたし、今どんな顔してる?
「ご自分で考えてみましたか?この方は優しいから“何でも”と仰るでしょう。けれどそれでこの方の負担ばかり増えていって――もし、お倒れになったら、どう、なさるのです」
 言いながらミーリエルは思う。もう、倒れてるも同然よ。表情には決して出さないけれど。
「失ってからでは遅いのです。かけがえのない方なのですから」
 寝息の音が変わる。ほんの微かな違いだけど、ミーリエルは気づく。
 微笑み、すこし困ったような表情をする。どう見えるか、ミーリエルはわかっている。夫が起き上がる前に言ってしまわなくては。
「問いなら考えてまとめてからおいでなさい。許可ならばそれもすぐに説明できるようになさい。……それに、拒みはいたしませんけれど、」
 夫が冴え渡る眸を開く。ミーリエルは真っ直ぐに声を放つ。
「……もう少し、時を考えていただくことはできないのですか」
 お願い、恨むならあたしにして。

+++   +++   +++   +++

「妻として言うならこうよ。“夫婦の時間を邪魔するんじゃないわよ!”」
 王妃なのよ。わかってるわよ。呟きに、マハタンは曖昧に笑う。ミーリエルがそれを厭って、最も愛するひとの求婚を拒み続けたのを知っているからだ。
「あの方も悪いのかも知れないわ。起きて、すぐ対応しちゃうもの。だけど――だけど、そうよ、でも――でも夫婦なんだから一緒にいる時間くらいそっとしておいて欲しいの」
 ミーリエルは虚空を睨んだ。
「わたくしとあの方が一緒にゆっくり過ごせた時なんかあったかしら」
 思いつく限りじゃ見当たらないわね。震えるような声で言ったミーリエルに、そんなことはないだろうとはマハタンは言えなかった。フィンウェがもともと忙しいのも知っていたし、求婚中も結婚してからも、その忙しさは変わらないようだったから。
 フィンウェにとっては“ゆっくり過ごせた”時間も少しはあったかもしれない。だがそれは、この“姉”には……赤銅家の家風で共に育てられたミーリエルには、とうていそうは思えない時間だったに違いない。マハタン自身もそうだが、時間の感覚が違うのだ。
 遠くからヴァルマールの鐘の旋律が微かに聞こえた。次いで、トゥーナの丘を包む豊かな鐘の響きも。紛れるような小さな声で、ミーリエルが呟いた。
「……大っぴらには言えないけど、初夜も、その、…まだなんだから」
 空気がビシリと固まった。
「――まだ?」
 マハタンは、何か固いものを飲んでしまったように聞き返した。ミーリエルは瞳を逸らした。
「………聞き返さないで…」
「だ、え、だって…ええ?……もう結婚して4期は経ったよ、…ね?」
「だから聞き返さないでよ…」
「あ……う」
「わかってる。5期目に入ってればもう新婚とも蜜月期とも言えないのはよーくわかってるの。だけど事実よ。新婚期も蜜月期もないわ。なーんにもないわ。そうよ、わたくしがあの方をフリ続けてた時と何も変わらないわ!」
 声量こそ控えめだったが歯切れ良く真っ向から叫んで、ミーリエルは机を引っ叩く。また少しびくっとしてマハタンはネアダネルをきゅっと抱いた。
「時間が、ないのよ」
 机を叩いたままの手がゆっくり握り締められたかと思うと、静かすぎる声が聞こえた。
「倒れるみたいに眠っちゃうわ…」
 だんだん俯きがちになって、ミーリエルは続ける。
「おかしいでしょう?おかしいわよ…忙しすぎるわ――ええ、このままじゃそのうち忙しさに殺されちゃうわ…」
 呟く言葉に果てしなく重いものを感じて、マハタンはごくりと唾を呑む。
 緩んだ腕からネアダネルが這いだして、机の上をちいさな手でぺちぺちと叩いた。と、ミーリエルはしゃきっと顔を上げると、真剣に幼児に向かって言った。
「いーい、ネアダネル。責任背負ってる男は確かに魅力的だけど、まともな新婚生活じゃないわよ。考えて選びなさい」
「あーい!」
「あら返事したわ。賢いわね」
「……ミーリエル…幼児教育にもほどがあるから」
 マハタンはとりあえず突っ込んでおいた。
 “姉”は器用な指でネアダネルの頭を撫でると、独り言めいた声で言う。
「あの方の男性としての名誉の問題でしょうから言うけれど――それにわたくしの女性としての名誉の問題もあるわね――手を出したくないとか出せないわけじゃないの。身体的にも精神的にも、問題はないのよ」
「…………」
 “弟”は何も言えなかった。 
「ただ、忙しいのよ」
 ミーリエルは唇をゆがめるように笑った。
「言うなら、それだけよ。忙しいのよ。あの方、取り繕うのが上手いから皆甘えすぎるんだわ」
 

+++   +++   +++   +++

 王宮で、ミーリエルは何をしたらいいのか分からない。
 何をしてもいいよ、とフィンウェは言った。好きなことをしたらいいよ。ミーリエルは何か妙な気分になった。胸のあたりに重い塊でも入ってしまったような。
 針を持つのはいつだってやめたりはしなかったが、この王宮では何か浮いてしまうような、落ち着かない気分になる。かといって草原へ出かけてしまう?……そんなことはミーリエルにはできなかった。出かけてしまえば、どこでフィンウェと会えるだろう。
 あまりにフィンウェは忙しい。どこにいても何をしていても、相談を持ちかける者はやって来る。
 短い時間だけれど、食事は必ず共にした。他愛ないことを言って、笑って、最後にはそっと触れ合う口づけをして、そしてフィンウェが去って行くとミーリエルはとたんに親の姿を見失った赤子のように不安になる。
 怖かった。
 すぐに眠ってしまうのに、眠りの浅いのが恐ろしかった。ちゃんと眠れているのか、休まっているのか、そんなことをこっそり確かめて、しばらくして、今度はミーリエルは息を確かめ始める。生きている?息をしている?
 あたしを突然置いていきはしない?

 不安が現実となった時、悲鳴は掠れて喉に絡まり、ろくろく出はしなかった。
 けれどおそらく、悲鳴を上げて、駆け寄って、ミーリエルは確かにフィンウェに触れたのだと思う。熱のある身体に逆に奇妙な安堵をしたのだけをいやに覚えている。
 王宮前の広場へ続く階の上で、ミーリエルは茫然と座り込んでいる。
 広場はざわめきで満たされている。
 どうして?どうして?どうして?
 何を疑問に思っているのかは良く分からない。もしかしたら、すべてがおかしいと思うことだらけなのかもしれない。
 ふつふつと、何かが息づき、胸のあたりにこみ上げてきたような気がした。ずっと、思っていたことがあった。
「静まりなさい」
 ミーリエルは立ち上がった。ざわめく群集に、言葉を投げる。
「ノルドールは、いつまで赤子でいるつもりなのでしょう?」
 さほど大きい声ではなかったが、それは波紋のように群集に広がった。
 ミーリエルは群集を見た。群衆もミーリエルを見た。……ほとんど姿を見たこともない、王妃の姿を。
 小柄な女性は、ノルドールには珍しい銀に近い黒髪の持ち主だった。折りしも強さを増し始めた銀の光が、彼女の全身を輝く銀で覆った。その中で、さらに強い輝きを持つ瞳は、何もかもを呑み込みそうな深い黒をしている。
「フィンウェさまの最も傍に仕える者として申しあげましょう」
 言葉は静かだったが、ミーリエルはその時、燃え盛る銀の炎のようだった。
「わたくしたちは――そう、わたくし自身も含めて――フィンウェさまに、頼りすぎなのです」
 たぶん、ずっと飛び出したかった言葉が解き放たれた。
「わたくしたちの手足は縛られていますか?わたくしたちの頭は眠っているのでしょうか?言葉を忘れてしまったのでしょうか?わたくしたちは、いつまで、赤子でいたいのでしょう」
 光は世界を開くはずだった。
 否、世界は開けたのに、その世界の広さに怯えてしまっている。
「わたくしたちは、自分で考えなくては。自分のことを自分で決め、誰かとうまくいかないことがあれば、まずその相手と語り合わなくてはなりません」
 千度の求婚を拒んだ時間を、ミーリエルが心苦しくも嬉しく思ったのはそれが理由だ。少なくともあの時は、フィンウェはミーリエルだけを見ていた。
「難しいことではないはずです。わたくしたちには時があるのです。限りのない時が――」
 あたしたちには無い。
 ふとそんな思いが過ぎり、ミーリエルの心はすうと冷えた。滾るような激情が引いて、視界が、思考が、とたんに一瞬ぼうっと溶けた。
「―――ッ」
 身体がかっと熱くなった。けれど頭は妙に冷えている。眩暈がする。何を言っただろう。こんなに大勢の前で。逃げ出したい気持ちで一歩後ずさる。途端に世界が遠ざかり、誰かに抱きとめられる。
 豊かな黄金の髪が目に入った。彼は静まり返る群集に、静かに言った。
「王妃の言葉は聴かれたな。賢明なノルドールの民よ」
 ミーリエルは疼き始めた頭で必死に考えた。あたしは何をすればいいの?その間にも声は続ける。
「そして我がヴァンヤール、ノルドールの友たるそなたらも、すべきことを聞いただろう――さあ」
 彼は言葉を切り、群衆へ手を伸べた。
「今度は我々が考える番だ。フィンウェは今まで、私達の代わりにたったひとりで考えていたのだから」
 群集が、呆けていたのに気づいたようにざわめきだした。彼が微笑むのを、ミーリエルは感じ取った。
「フィンウェはローリエンへ行った。休まれば帰って来よう。その時こそ我々は、考えの結果を行動として、彼に見せることになるだろう」
 ミーリエルはしゃんと立ち直した。そして、支え手となっていた彼を振り仰いだ。
「……その日が早いことを祈っている」
「イングウェさま…」
 イングウェは言葉を終えると、ミーリエルを促して王宮へと入った。
 群集から見えないところにくるとすぐに、イングウェはミーリエルを抱え上げた。
「あ、……」
「失礼を許してくれ。あなたまで倒れそうな顔色をしている。あなたが倒れたら私はフィンウェにこっぴどく怒られる」
 こどもを抱くようなその抱え方が、ミーリエルは嫌ではなかった。ただ、イングウェの言葉にもフィンウェの限りない愛情が染みとおるようで、泣きたくなったのだった。

+++   +++   +++   +++

 銀の弓を持つマイアが、彼の習慣であるローリエンでの午睡に趣こうとその日もローリエンを訪れた。夢幻の園を貫く小川のほとり、木犀の茂みへ向かって――
 歩みは、園の主によって妨げられた。
「今日は定位置は使用禁止だ、ティリオン」
「イルモさま?」
「でも、エステがローレルリンに招いてくれた。だからそれで我慢してはくれまいか?」
「どうしたんです?」
 イルモは少しだけ曖昧な微笑みで答えた。
「ノルドの王に特効薬をあげたんだ」

 そう、ヴァラとマイアが静かな会話をしている頃、木犀の茂みの陰で、ミーリエルは夫を見つけた。茂みの隣の細い木に寄りかかって目を閉じていた。眠っているのでないことは知っていた。
 ミーリエルが傍らに膝をつくと、緩々と睫毛が上げられて、とても好きな色の眸が覗いた。
「フィンウェさま」
 呼びかけると、珍しく茫洋とした眸のままフィンウェは微笑み、微かに頷いた。
「あたし、とても愚か者だったと思うわ」
 フィンウェの手をとって膝に引き寄せて、ミーリエルはぽつりと呟いた。
「もっと早く、あなたの妻になってあげれば良かった」
 フィンウェはぱちりと瞬きをした。手がぎくりと震えた。
「どうして」
 急くような声音で、フィンウェは続けた。
「時間なんか関係ない。あなたは今私の妻になってくれたんだから」
 いつもの宥めるような調子ではなく、拗ねる響きを感じ取って、ミーリエルは微笑んだ。同時に泣きたくなった。けれど涙を見せたらまた間違ってしまいそうな気がした。
 ミーリエルはそっとフィンウェに抱きついた。
「もっと早く変えて差し上げられたのに」
 どうか、声が震えていないと良い。
「フィンウェさま。あたしの普通とあなたの普通は違うでしょう?」
 少しだけ、笑った。フィンウェが微笑んでいると分かった。
「うん。そうみたいだね」
「あたしの普通にあなたを引きずり込むわけにはいかないけど、ふたつを合わせて、変えていくことは出来るはずよ」
 ミーリエルの中で息づき始めたのは、つまりそういう考えだった。今の王宮の仕組みはおかしい。おかしいと思うなら、それを誰かが言わなくては。その誰かは自分であるはずだった。ミーリエルはフィンウェの妻で、王の妻で、自分で考えることができるはずだ。
 変えていくことができるはずだ。ただ我儘に願っているだけでなく、伝えて、分かってもらって、変えることが。
 そうしたら、ミーリエルは初めてフィンウェを対等に愛せる気がする。
「親と離れたらこどもが死ぬわけじゃないわ。王から離れたら民が死ぬわけじゃないわ。君を離れて――」
 考えるの。言いかけた時、ぎゅっと抱きしめられる。
「でも君と離れたら僕は恋しくて焦がれ死ぬ」
 いっそ冷徹な声で睦言が囁かれた。ミーリエルは震えるように笑った。
「あたしもよ」
 そして、身を離して、しっかりとその眸を見つめて、彼女は言った。
「あたしは、あなたといきたい」

 合わせた下唇を甘く、きつく噛まれる。混ざる吐息に、目の前が虹のようにきらめく。髪を絡めて、項を引き寄せて、抱きあって溶けてしまいたくて、息を止めるように長い口づけを続けた。
 指先に疼くように熱が広がっていくのがわかった。そこにも口づけてミーリエルが笑った。もっと早くこうしてさしあげれば良かった。
 空が光の渦になる。めまう。弾むような酩酊が腕の中で、なずむ肌のそこここで躍っている。
 口づけの合間に囁く声。―――ああ。
 幸せだ。

+++   +++   +++   +++

 “謁見”の時間になって、フィンウェはその部屋へ向かう。“謁見”はミーリエルが唱えた。時間を区切ったって、悪いことはないと思うわ、とミーリエルは生真面目な声で言った。本当にどうにもならないことなら、どんなに時間を区切ってたって向こうから飛び込んで来てしまうものよ。だからフィンウェさまは、もっと自分の時間を作ったっていいと思うの。
 彼のいない間に、民にどんな変化があったのか、フィンウェはよくわかっていない。実のところはどうでもいいのかもしれない。彼は周りに自分を馴染ませることに長けすぎている。けれど、相談事を聞く時間を区切ってしまうと民に告げて、受け入れられたことは純粋に嬉しかった。それはごく単純な理由でのことだ。
 “謁見”の間中、ミーリエルは奥の部屋にいてくれる。どうしようもなく疲れたら、フィンウェは彼女の顔を見にいくことだってできる。

「じゃあ、あなたの幸せはどうなるの?」
 ある時ふいにミーリエルが聞いた。
「あなたがいてくれるだけでいい」
 フィンウェは答えた。それから少しだけ躊躇って、おそるおそる言った。
「でも、ひとつだけ、望んでいいのだったら…」
「なぁに?」
「あなたのこどもが欲しい。あなたと僕の、こどもがほしい」
 ミーリエルは何も言わなかった。何も言わずに、静かに、口づけを贈ったのだった。
 抱きしめて、ただ、ひたすらに。