フィナルフィン

 砂浜から海に踏み込んでみるが、そういえば、泳いだことなどなかったのだった。
 波が打ち寄せ引くたびに、足元の砂がずるずると動き、心もとない感触に気づかせる。
 立ち尽くして、動けずに、フィナルフィンは岩の方を、またその下の海面を見た。落ちたひとの姿は見えない。

 とても綺麗な少年が海を見ている、と思った。
 ぼんやりそのひとを見ていると、そのひとはさっさと岩の上から足を踏み出して、そのままぼちゃんと海に落ちた。飛び込んだのだとはとても見えなかった。
 綺麗な子だったなぁ。考えて、で、その子はどこだろうとまた視線をめぐらす。
 溺れたエルフの――ましてやここに住むファルマリの――話は聞いたことがないが、もう少し慌てた方がいいのだろうか。誰か落ちましたよと言いに行くとか。
 実際問題として大変なのは、おそらくフィナルフィンの方だった。動けない。気がついたら足が海の中で砂に埋もれていたので。
「ああ、困った」
 海に呟いてみる。すると目の前の海からざっ、と誰かが顔を出す。
 水に濡れてくるくると渦巻く銀の髪、マンウェの錫に嵌めこまれたサファイアのような青い瞳。
「…姫君」
 フィナルフィンは驚いて言った。先ほど岩の上から海へ入ったひとは、オルウェ王の娘だった。
 してみると、あれはやはり落ちたのではなく飛び込んだのだろう。姫君の泳ぎの上手さは有名だ。
 彼女はゆっくりとまばたきをすると言った。
「お困りのようね」
 そんな仕草は父君のオルウェにそっくりだった。

 姫君の助言と手助けでようよう海から上がると、フィナルフィンは気になっていたことを訊いた。
「どうして男装していらっしゃるのです?」
 何とはなしに髪をぎゅ、と手巻いて――姫君は尋ね返した。
「いけないかしら?」
「お似合いですが」
「なら良いでしょう」
「でも、――少年に見えますよ」
 姫君は、ふふと笑った。
「望むところよ」
 フィナルフィンは曖昧に微笑むと、海に眼を向けた。何を言いたかったのか自分でもわからなくなった。
 砕ける波の頭は見事な銀色で、そのわずかに碧をにじませる輝く白が、姫君の髪と同じ色だとフィナルフィンは思う。
 波のざわめきとは違う音を聞いた気がして隣に眼をやると、姫君はまた海へ入って行くところだった。
 ――あ。フィナルフィンは彼女に向けて言った。
「姫君」
 彼女が振り返る。
「私は、フィナルフィンと申します」
 波の音が強くなった。
「わたくしは、エアルウェンというの」
 フィナルフィンは、ほう、と息をついた。
「良いお名前ですね」
 姫君はくすぐったそうに笑うと、では次は名前で呼んで――と言った。そして姿が見えなくなった。

 フィナルフィンは砂浜に立っていた。波に紛れて、エアルウェンの姿はわからない。
「……ああ、困った」
 呟く。
 海の都に来る理由が増えた。と同時に――早急に泳ぎを覚える必要がありそうだった。海の娘のために。