貌のない王

  1

 エリエン・ルスコがその年、ヴァリノール・キャンパスを選んだのにはさしたる深い意味はなかった。
 彼女は元々王都の出身であって、エレスセア・キャンパスもすっかり見つくした以上、あの七不思議のあるヴァリノール・キャンパスの方が面白いだろうと思っただけだ。
 そして蓋を開けてみたら、友達連中はみんなエレスセア・キャンパスだった。
 (………1週間、誰とも口きいてない…)
 勉強は面白い。エリエンの目指すところを考えれば、エレスセアよりもヴァリノールにいた方が断然はかどる。
 ヴァリノールの図書館、データベースは特別だ。エレスセアからでは覗けない貴重な情報がぽいと置いてある。
 だから卒業論文の時期にはどうせ、皆ヴァリノールを訪れるのだが――
 (………………これって、ヤバい…)
 厳密に言えば喋ってはいる。図書館、買い物、一言も口をきかないで過ごすのは、意識しなければできるものではない。だが。
 なんだかささくれだった気分で貸出手続きを済ませる。
 階へ出れば、平原を吹き渡る風がエリエンの髪を巻きあげる。
 陽を弾いて、その色は、鮮やかな赤。
 ヴァリノール・キャンパスの学生たち。君たち何のために歴史絡めて学んでるんだ。エリエンはそう思い、心の中で絶叫した。
 (赤毛で悪いか、こんちくしょー!)
 ………エリエン・ルスコは名の通り、非常に特徴的な赤毛の一族の末裔だった。

  2

 ある意味これは職業病と言えるのかもしれない。とルーエル・キーンは思った。
 彼はコール大学の院生である。
 コール大学にある七不思議に次いで囁かれる三大ジンクスのひとつ、「卒論の題材にフィンウェ王を選ぶと、卒業できない」を地で行った――留学生だ。院生になってようやっとヴァリノール・キャンパスに来ることが出来た。
 ルーエルの卒論の題材は、ジンクス通りのフィンウェ王である。
 いや、厳密に言えば卒論自体は「フィンウェ王家」が題材であった。
 院生になって3年、今まで電子資料でしかお目にかかれなかったものを直に目で見(さすがに触れることはできなかったが)、その質感も色味も確かめ、―――謎は深まってしまった。と言うよりも、本当に資料がてんでない、というのがルーエルの偽らざる本音である。
 ルーエルの今の題材は「フィンウェ王」そのもの――つまり、「フィンウェ王の顔」であった。
 フィンウェ王の姿についての資料は…画像資料は残されていない。何一つ、と言っても過言ではない。記述すらない。
 髪が黒、眸は輝く青灰色。八割方のノルドールに当てはまってしまうそんな描写のみがある。

 ルーエルは遺伝系統から逆に辿ってみることを思いついた。
 それからずっと、フィンウェ王家とその周囲の、ありとあらゆる画像資料を漁り、集め、分析にかまけてきた。ついたあだ名が「面食いルーエル」。王家が美形揃いなのが悪い、と彼は鼻を鳴らす。
 その、「面食い」の本領発揮がこの結果だ。
 コール大学ヴァリノール・キャンパスの図書館で、司書と揉めている赤毛の少女は――その少女の顔を見た瞬間、ルーエルは慣れ親しんだ遺伝系統の分析をしている自分を自覚した。
 (……父親は「丈高きマエズロス」、兄はエレイニオン・ギル=ガラド)
 あり得ないそんな分析を出したことに、ルーエルはひそかに苦笑した。さてこの、貴種の顔を持つ少女は一体「誰」だろう。疑問を解くために、彼は図書館へ足を踏み入れた。

  3

 あのね、フェアノオル・スケッチの中には公開されてない巻があるはずなのよ。
 エリエンはそう言って、レポート用紙に手早くフェアノオル・スケッチの構成を書き並べていった。
 フェアノールの作品についてなら、エリエンはかなりの専門家だ。スケッチの内容もほとんど覚えている。――おそらく、刊行されているのがスケッチのすべてではないことも、そして刊行されているにも関わらず、世に出回っていない巻があるだろうことも突きとめている。
 ルーエルはじっとエリエンの手蹟を眺めていたが、ふと、呟くように尋ねた。
「西3教室の窓際、水仙がよく見える席にメッセージを書いた?」
 エリエンはぎくりと手を留めた。
 2年前のこと、『ノルドールⅠ』の授業だ、西3教室を使っていたのは。
 エリエンは授業を聞いていて、思いついたことを誰かに言いたくなった。だけどその想像が、あまりにとんだ内容だったものだから、友人に言うには憚られた。
「………返事があったわ」
「“DV加害者みたいな性格の奴らが恋人だからだよ”?」
 エリエンはルーエルをまっすぐに見た。
「さすがは“面食い”ルーエルね。王家の事情にお詳しいわ」
「授業で教えないことを考えて気づくのが勉強だろう?」
 二人は真面目くさって目と目を見かわす。先に噴き出したのはエリエンだった。
「“フィンウェってDV被害者みたいな行動してない?”実際DVじゃないかと思うのよね。今も」
「あんまり大っぴらに言うと国家権力に消されるかもな」
「言いたいことを言えるのが学生の特権でしょうに」
「謎多きフィンウェ様を選んだばっかりに卒業できずにこのザマだ」
「本望でしょ」
 エリエンはレポート用紙に「フィンウェ」と書いた。すぐ横に「シルマリエン」と。そしてふたつを等号で結んだ。
「私のテーマはこれよ。……あなたと同じ道をまっしぐらに進みそうね」

  4

「ロウエルって呼んでくれないか」
 わりと真剣な顔でルーエル・キーンは言った。エリエン・ルスコは大きな紅い瞳を瞬いた。
「人間風ね」
「留学生なんだ。ある意味「人間」だろ、ルサンドル?」
 からかうような声音のルーエルに、エリエンはその見事な赤毛をかきあげて見せる。
「エリエン……は、人間風なら?」
 ルーエルは軽く首を傾げた。
「エリー」
 囁くと、エリエンは華やかに笑った。
「じゃあ私はロウって呼ぶわ」

 ルーエル・キーンは“エルフ”読みの自分の名前は嫌いではなかった。むしろ好いていた。歴史の中にある読みでもあるのだし。
 ノルドール王家に、というよりもフィンウェに仕えた料理人の名をルーエルと言う。かの「料理帖」を残した人物だ。
 自分はどうしたって“エルフ”にはなれないのだから。そう思っていたのも間違いではない。

 エリエン・ルスコはルサンドルと呼ばれるのも嫌いではなかった。
 天地がひっくり返っても、ルスコの名が示す通りに自分の血筋は変えられない。堂々とした赤毛も変えられない。
 歴史の中のことと片づけられないはっきりした記憶を呼び起こす存在である。
 それを忘れたい。そう思っていたのも間違いではない。
「エリー」
「ロウ」
 けれども、それよりも、なによりも。
 遠すぎず、近すぎず。
 初めて得た、謎に迫る同志の呼び名が“エルフ”ではないというのは、とても面白く思えたのだ。

  5

 「シルマリエン」というのは、フェアノールのミューズである。

 かのフェアノールの匠の技の源泉、形になる前のスケッチを集めた本がある。「フェアノオル・スケッチ」だ。
 建築物、道具、絵画、宝飾品…各分野ごとに分けられた膨大な数のスケッチからは、様々なことが読み取れる。
 どの分野の研究家であっても、フェアノール、そしてフィンウェ王家絡みの研究をするものにとっては、常に第一級資料である。

 そのスケッチ集の中に、頻繁に登場するある人物がいる。
 おそらくは女性であろうとされている。顔もはっきりとは描かれない。手や足や身体のラインは繰り返し現れる。柔らかにまっすぐな長い黒髪はスケッチの中では結われ編まれ、飾り付けられている。――「彼女」はスケッチの中で様々に装っている。
 「彼女」を名付けて曰く、「シルマリエン」と言う。

 フェアノールの創作物にはどうやら、シルマリエンの存在は欠かせないものであるらしい。
 「フェアノオル・スケッチ」を読んだものなら誰もがそう納得する。
 身体の一部分しか登場しないことも多いのだが、シルマリエンはたったひとりの誰かなのだ。指や爪の形、少しだけ下がった左の肩。注意してみれば、フェアノールのスケッチはすべてシルマリエンを装わせて描かれている。
 もちろん、誰かの為に作ったものはその者の姿に装わせて描いているのだが。(最も登場回数の多いのは、丈高きマエズロスである)
 ――けれどもシルマリエンの正体は、いまだかつて解き明かされたことはない。

 フェアノールのミューズ。それはきっと実在しない、美の極致のようなひとがたなのだろう。大半の研究者はそこでシルマリエンの正体を考えるのをやめる。
 だが、エリエン・ルスコはある日、とあることに気づいた。そして彼女はひとつの大いなる仮説をたてる。
 すなわち、シルマリエンこそが、フィンウェ王であると――。