フュイとローメンディルのこと

 不可思議な夢から目覚めると、エイセルロスは黙りこくったまま、重い身体を引きずってさらに奥地へと歩んだ。二つの木の光はアマンのすみずみまで溢れていたが、こうも奥地ではさすがに朧気になるようだった。エイセルロスは歩みを止めず、奥へと進み続けた。涙は止まっていたが、かれの心はひどく軋んでいた。

 やがて暗い深い海を臨む遠い岸辺に立って、かれは歩みを止めることになった。光は遠く、海はただ静かだった。
 何かに呼ばれたような気がして、かれは振り返った。するとそこには、ひとりの力あるアイヌアが立っていた。
「何を嘆くのです。ヴァンヤールの王の愛し子よ」
 エイセルロスは茫とそのアイヌアを見返した。言葉は自然に滑り出た。
「ひとりなのです。あまりに、ひとりなのです」
 アイヌアは時の止まったような灰色の双眸でエイセルロスを見た。
「その孤独の名を知っていますか」
 エイセルロスは答えた。「いいえ」
「ではおいでなさい。貴方には時が必要です。クウェンディに与えられた恩寵が」

 アイヌアが手を差し伸べると、エイセルロスは濃い霧に包まれたような感覚を覚えた。それは銀の雨の中にいるようであり、彼方の星の輝きのようであり、遠い記憶の果てのようだった。
 エイセルロスは瞬いた。気づけばそこは灰色の館の中であった。霞むように柱の並ぶ先には、暗い外なる海が臨めた。かれは先をゆくアイヌアを見た。答えをふと了解したのである。
「孤独の名がわかりました。これは悲しみ。――貴方の司るものですね。ニエンナさま」
 ニエンナは振り返ると、灰色の双眸を和らげた。
「その悲しみに名前をおつけなさい」

 それからしばらくの間、エイセルロスはニエンナの館フュイに留まった。フュイにはさまざまなマイアールが訪れては去っていったが、エイセルロスは最初の時以来、ニエンナの姿を見ることはなかった。
 ニエンナの告げた通り、かれには時が必要だった。焦がれる心は痛み軋み、時には狂おしく叫び出したいほどであった。けれどかれは今、奇妙な安らぎをも感じていた。かれ自身は分かってはいなかったが、かれは今、生まれて初めて真に孤独であったのだった。

 そうした孤独に身を置いて、エイセルロスはつくづくと思いをめぐらせた。
 この孤独は悲しみであるが、悲しみとは何だろうか?かれにとってそれは、フィリエルに因るものだった。かの女がいないということが淋しかった。悲しかった。
 けれどそれは、かの女だけに思うことだろうか?

 「フィリエル」エイセルロスは呟くと、館の奥へ進んだ。
 灰色の館は霧に包まれ、光は霞んで広がっていた。それはアマンに満ちる光とは少し趣きを違えていた。その光はむしろ、エイセルロスにあの焦がれる薄明を思わせた。
 その光を最も強く抱え込む霧が、館の奥にあった。かれはその前で立ち止まった。

 ニエンナを呼び、エイセルロスは黙った。悲しみの名、その答えをしかと思い、かれは目を閉じ、そして開いた。
 沈黙は耳を突くように厳しかったが、それを言葉が貫いた。
「悲しみの名を愛と呼びます。ひとりで、誰かをおもって悲しいのですから」

 輝く霧の沈黙の中から、深い声が響いてきた。
「そなたは悲しいのだね」
 エイセルロスは答えた。「はい」
 すると霧はほどけて3人のアイヌアとなった。灰色の館は、今は二つの木の光に包まれていた。エイセルロスは海を渡りこの地へ着いた時のことを思い出した。

「この光の下にあってもか」
「この光にあってもです」
 エイセルロスは真っ直ぐに、かれらを見返した。
「運命と夢幻の司方、憐憫と希望を教える方、この光溢れる地にあって、それでもやはり私の愛は薄明の地へと向けられるのでございます」

 すると、イルモは言った。
「されど薄明を愛する者よ、ローリエンの夢幻は、そなたの裂かれた心の慰めとなろう。そなたには至福の影でしかないが、喜びと幸いがこの地には満ちるのだから」

 ナーモが重々しく続けた。
「そしてマンドスの深きを、世界の変わる時を待つ湖を思うことが、そなたの支えとなるであろう。清められた闇を望む者がこの至福の地にはいる。だがローメンディル、その初めはそなたではない。その時は今ではない」

 エイセルロスは微笑んだ。かれの耳には、ニエンナの声が聞こえてきた。
「エルの恩寵を恐れることはありません。そう、確かに今は時の長さが傷を癒す手立てであるとは思えないでしょう。時の長さにも忘れえぬ記憶が、傷をいっそう深く広げると思うでしょう。けれど貴方は孤独の名を知っています。悲しみを名づけたのです。エイセルロス、強くありなさい。長きを待ち、迎える強さを知りなさい」

 やがてエイセルロスは、アマンの西の果てに位置するフュイを出た。
 かれはイングウェの下へ帰り、自らの体験の一部を語った。
 以来、かれはローメンディル、すなわち「薄明を愛する者」と呼ばれるようになる。

 かれ以上に多くのヴァラール、マイアール、エルダールと言葉を交わした者はアルダの果ての日までを数えても、他にいない。