ヴァリノールの光満ちる平原のただ中に、歌と言葉の館コールがある。
やわらかな茶と灰の石で築かれた館は、大小様々の段々を成し、“階の館”とも呼ばれる。館の主はヴァンヤールの伶人エレンミーレである。だがコール自体は、ノルドールのルーミル――初めの文字サラティを造りしルーミルが建てたものである。
ヴァンヤール族がトゥーナの丘なるティリオンからヴァリノールの各地へ戻って行ったことはすでに語った。エレンミーレは上級王イングウェに近しいヴァンヤのひとりで、当然かれに従ってタニクウェティルに赴くかと思われた。
これを引き止めたのがルーミルであった。ルーミルとエレンミーレは、ティリオンでの幾久しい日々に固い友情を築くに至った。ヴァンヤールの移住の際、エレンミーレと離れ難く思ったルーミルは、ヴァリノールの平原に一つの館を建て、エレンミーレに住んでくれるよう請うた。この館がコールである。
ヴァリノールの平原には、エゼルロハールからコールまでに光を遮るものは何ひとつ無く、エレンミーレは愛する二つの木の光を存分に受けることができた。二つの木の光の混じりあう時、かれは館の階に腰かけて、平原を、その上の空を、星空を背にしたエレアリーナを仰ぎながら詩句を思いめぐらすのである。また時折は、光を浴びる階に、ヴァンヤとノルドがふたり並んで腰をおろし語り合うのを見かけることもあった。ちょうど、ティリオンの都の噴水の傍らでよく見かけられたように。
コールは単にエレンミーレの居住の名であるだけではない。
歌と言葉の館の示す通り、コールには伶人、学者、言語や伝承に興味を抱くもの、歴史や出来事を記録するものが集まるようになった。そもそも館主エレンミーレは客人をよく招いた。非常にしばしばコールを訪れたのはエイセルロスである。エイセルロスはその折ルーミルのサラティをすでに見知っていたが、使いこなすまでには至らなかった。サラティは法則の有無がいささか曖昧で、造った本人であるルーミルも使う内に変更を繰り返した箇所があるからである。
ある時、エレンミーレは平原を歩いてくるエイセルロスを階の上からみとめた。かれは駆けてくるのが常であったから、これは奇妙なことに思われた。エレンミーレは階を降り、エイセルロスと小さな客人を迎えた。フェアノールである。その頃フェアノールはごく幼く、エイセルロスに連れられてヴァリノールの方々を見て回っていたのだった。幾日と経たぬうちに今度は父フィンウェに連れられてフェアノールはやって来た。そしてそれからは繁々と、ほとんどひとりでやって来るようになった。ルーミルは師としてサラティを教え、エレンミーレは徒然に歌や語りを披露した。弟子が師を越えるのにさほど時間はかからなかった。フェアノールはコールにてフェアノール文字――テングワールを完成させたのである。
ところでエイセルロスは、ヴァラやマイアから聞いた世のことや、湖でのことなどを子どもたちに語り聞かせるということを続けてきていたのであるが、この時期、暫くそれを止めていた。エイセルロスはルーミルと連れ立って、ヴァラやマイアに世の始まり、時の初めのことを聞きに行っていたのである。
テングワールが完成し、ティリオンでは教育機関が造られ、文字がエルダール全体に浸透していく頃、エイセルロスは聞き覚えた伝承を書き記し、ルーミルはそれらを編纂し改めて、アイヌリンダレを著した。
この時エルダールは言葉で語ること、音楽を奏で歌うことの他に、文字で出来事を書き記す喜びというものを知った。ヴァラクウェンタをはじめ、数多くの歌や物語が書き記された。言葉を示す文字は、失われていく音や出来事を長く留めるよすがになる。しかしそれらはやはり言葉の持つ響きや奏でられた音の名残、影を目に見える形に辛うじて留めたに過ぎず、どの歌であれどの物語であれ、音と声で表される時の素晴らしさには敵うべくもないのであった。
さて、伶人や学者は師弟となり、また互いに教え合い、その知識や発想や歴史を表し高めあっていったのであるが、館主エレンミーレは優れた伶人であるにも関わらず、弟子といえる弟子を取ったことがなかった。ヴァンヤールの歌は風の歌である。かれらは言葉の響きと音楽の調和を尊ぶ。エレンミーレの歌はヴァンヤの基準からすれば多分にノルド的なものであった。果たせるかな、エレンミーレの唯一の弟子はノルドであった。フェアノールの息子マグロールである。エレンミーレはかれに一つだけ課題を与えた。誰かの生き方を歌に表すということである。
「話を聞くことです」エレンミーレは言った。
「本人だけで足りるとは限りません。関わりのある方、当時の状況、何が起きていたのか、何を感じたのか。話を聞くことで感じることがあるでしょう。貴方自身の経験から思うこともあるでしょう。思うことは歌うことです。考えることは言葉に表すことです。事実を知り、貴方にとっての真実を歌いなさい。私に教えられることはそれだけです」
エレンミーレとマグロールは連れ立ってコールを出た。階を降りながら二つの木の方を見やって、エレンミーレは呟いた。
「とはいえ、歌を表すには長い時がかかるでしょう!けれどもその歌は、たとえ貴方が歌うことが出来ずとも、誰かの声に乗り私の耳に届くことでしょう」
その言葉は一つの予言であり、その通りになったのであった。マグロールはエイセルロスから話を聞き、メルリンダレを表した。だが、師の前でその歌を奏でたかどうかは今に至るまで知られていない。
エレンミーレは変わらずコールに在り、今は移り変わりめぐる月と陽の光を浴びて、階に佇んでいるのであるが。
そしてエイセルロスは数奇な運命を得てアマンを駆けている。