リリカルモンスター

 わたしが良く過ごしていた松の林があったでしょう。
 トゥーナへの影なす道よりもっと南、エレスセアの花が光にきらめくのが、まあ見えるくらいのところ。
 わたしはあそこで潮騒を聞くのが好きだった。
 いつからだったか、ひとりの時間にはそこにいた。別に何をしていたわけじゃないのだけれど、なんとなく物思いに耽って、カラキリアから溢れた光が花と波の面をすべるのを見て。
 潮騒を聞いていた。ざざんざ、ざざんざ、打ち寄せる音を聞いていた。

 それで、ある時、わたしは眠っていたらしい。
 何かの気配に覚めて、目を開いたら、深い深い漆黒と視線が合った。
 びっくりして一度目を閉じて、も一度目を開いたら今度は白い塊に飛びつかれた。
 うん。フアンだったよ。
 なんというか物凄く親愛の情を示されてたら、横から押し殺した笑い声が聞こえてきて、そのうち低い声がフアンをたしなめてどかしてくれた。
 身を起こしたらフアンは波打ち際に向かって駆けていくところで、わたしは適当に顔を拭かれて頭を撫でられた。
 悪かったな、ってそれだけ言って、ケレゴルムもフアンを追って海の方へ行ってしまった。それが、最初。

 思い返すと、彼が来る時わたしは大体眠ってるんだ。
 何度かそんなことがあって、わたしがその松林で眠っていると、いつの間にか彼が来て傍にいる。
 フアンが一緒だったからそういうことにしたのかな、って思っていた。ほとんど会話なんかしなかった。わたしが起きると彼は行ってしまうから。

 変わったのは、わたしが起きている時に彼が来た、ひとりで来たその一度から。
 とはいえほとんど眠りかかってた。
 その日は風が強くて、潮騒も轟くようで、何のことを考えていたのかは覚えていないけど、彼の足音を聞いたと思ったのはよく覚えてる。
 眠ってるふりをしようとしたんだ。わたしが目覚めるまで彼が何をしてるのか知らなかったから。
 だけど彼はわたしの傍らに腰を下ろすと、ほんの少しだけ海を眺めて、それから、なあ、と声を出した。
「何をしてる?」
 わたしはちょっと頭を起こして、彼の横顔を見つめてしまった。
「潮騒を、聞いてる」
 答えたら、彼は2、3度軽く頷いた。わたしは彼がひとりなのに気づいた。
 わたしが起き上がっても彼は海を見つめたままでいたけれど、少しして、突然言った。
「海は好かんな」
 わたしは素直に頷いた。
「そう」
 だって彼には本当に海が似合わなかったからだ。
 彼の金髪はわたしたちとは違うだろう。実りの季節の森みたいな、もっと強くて鮮やかで、大地と炎を抱いたような色をしてる。そんな彼に、暗い海の打ち寄せる光景はとてもそぐわなかった。
 彼はまた黙って海を見て、ちょっと目を眇めて、それから目を閉じた。小さく長い息をついた。
 ざざんざ、ざざんざ。わたしは潮騒を聞いていた。彼も何かを聞いているようだった。
「何を聞いてるの」
 彼は目を開いて、わたしをちらりと見た。
「松籟を」
 そこは松林なんだ。彼にそう言われて、わたしは初めてそこにあるのが松の木だって認識した。松を見て、ああ、って声を上げたわたしに、彼は笑いを含んだ声で言った。
「いいところだな」

 それから彼はひとりで来ることが増えた。彼ひとりで来ると時々何か話したこともあった。
 酔っ払って来ることもあったかな。酔うとなんだか甘えてくることが多くて、そんな姿は宴席でも見たことがなかったから、最初はびっくりしたよ。
 わたしは彼を見ながら潮騒を聞いていた。
 海には本当にそぐわない彼だけれども、言うように、松籟を聞いているのだと思ったら、暗い岸辺も少しは似合うような気がした。

 良く覚えてることがある。でも、いつだったかは覚えていない。
 話をしていたのかな、どうだったか…。わたしは彼の瞳を見つめていた。漆黒の目。光の届かない夜よりもなお深い、強い目だ。
 彼もわたしの目を見ていた。いつだったか、海みたいだなって言われた。色が変わるのが、光を受けた波みたいだって。
 ずっと見ていると、彼の目にわたしが映っているのが見えてきた。何だか自分でも驚くくらいゆったりした顔をしていた。そんなことを思っていたら、なあ、彼がわたしを呼んだ。
「誰にも言わなかったことがある。二度と言わない。聞いて、忘れてくれないか」
 わたしは頷いた。彼がその秘密を言うのを見ていた。彼の瞳の中のわたしは微笑んでいた。
 低い声が囁くように、燃えるように秘密を告げた。漆黒の瞳が憧れを凝らせたように思った。
 わたしは聞いて、そして忘れた。
 彼が息をついた。黒い瞳から涙が流れたと思った。それから、彼が笑って言った。
「潮騒が聞こえる」
 ああ、わたしには松籟が聞こえる。

  * 

「それで?」
 フィンロドは沈黙を破るように声をあげた。
「それだけ」
 オロドレスは柔らかく微笑んで答えた。
「その後は?」
「何回か遭遇したよ」
 言う声があまりに穏やかだったので、フィンロドは何か胸苦しいような気持ちになった。
「逢引って言うんじゃないの」
 そっと尋ねると、弟はどうだろう、と笑みを深くした。
「わたしたちは同じ岸辺にいて、同じ時間にいて、わたしは潮騒を聞いていて、彼は松籟を聞いていた」
 すこし硬い声で言ったオロドレスの目を、フィンロドは見ていた。ケレゴルムが海のようだと評したという目。
「……彼が潮騒を聞いている時、わたしは松籟を聞いていた。そういう、ことなんだ。そういう関係だと、思ってる」
 続けたオロドレスの目は今たしかに、常の薄青を沸き返るような波の碧に染めていた。
「仲が悪くはない従兄だと思うよ。その時も、今も」

  *  

 ……………ナルゴスロンドにおけるオロドレスとクルフィンの不仲は衆目の一致するところであるが、一方オロドレスとケレゴルムの中については特に言及がないか、良好であったとする記録が残されている。良好説は主にフェラグンドの近侍達の証言によるもので、少なくともフェラグンドがいた時期、そして翻ってヴァリノールでの日々には2人の仲は悪いと判断する材料を持たないようである。良好説の記録の最たるものはフェラグンドの手記が挙げられる。
 手記によれば、オロドレスとケレゴルムはヴァリノールの日々に度々2人きりで会うことがあり、短くはない時間を共に過ごしたようである。またそこでケレゴルムはオロドレスにあるひとつの秘密を打ち明けたというが、秘密の内容については何一つ語られていない。手記の内容はオロドレスが兄フェラグンドに語ったものであり、ヴァリノールでのオロドレスとケレゴルムの様子について目撃した者は誰ひとりいないという。
 言及されている「秘密の共有」をもって2人の仲を良好である、と判断するには決め手に欠ける。フェラグンド亡き後の行動の数々が説明できないのではないか、という問題もある。
 しかしながら手記の内容をフェラグンドを驚かせるような柔らかな微笑みで語ったということは、オロドレスにとってケレゴルムとの日々は、おそらくは悪い思い出に分類されるようなことではなかったのであろう。………………