獲物の逃げる方へ追って駆ければ、ふと森の色が変わる。光をゆるやかに広げ落とす淡い葉から、光をつるりと針のように降らす細かい葉へ。
針の光の森の匂いはねっとりと暗い。
甘くも感じられるそこでケレゴルムは足を止める。ごうと森を揺らした風は、梢を抜けて枝と葉を重く奏でた。
ざざ…ん…
ざざ……ん…
打ち寄せる轟きが。
ケレゴルムはひとつ身を震わせる。踵を返し、淡い森の方へ足早に歩み去る。
「幻を聴いた」
不思議な顔つきで戻ってきた公子にオロメの館のマイアールは口々に何があったのか問うたが、ケレゴルムは自分の白い犬の毛並みを梳きながら、ひとこと返しただけだった。
幻とはあまり穏やかではない。どんなものかと詰め寄られ、公子はますます困惑した顔をした。
「潮騒の…」
呟き、不意にケレゴルムの唇に笑みが乗る。
「何も悪い幻ではないさ」
憂いの晴れた明るさで答えられたなら、マイアールはもう口を出せない。
口出しどころか手出しをしながら尋問するのは主である。
「海を知っているのか」
オロメは帰って来るなり嫉妬深い男の顔でノルドの公子を追い詰める。
ケレゴルムは慣れたもので、抱きかかえられたままヴァラと額を合わせ、月草と紫菫をつないだ瞳を覗き込む。
「知りませんよ。あなたが教えなかったくせに」
「いや、これは海を知った顔だな」
耳に口づけて、オロメはなおも詰問する。
「誰だ? そなたに海の歌を聞かせたのは」
「聞いたのは松籟です、松の歌…」
言いかけて、公子は耐えられないというふうに笑い出した。ヴァラは拗ねたこどもの顔をして、くすぐる指先で公子の声を躍らせる。
「今度はウルモに会いに行くか?」
「森で充分です!森が良い!」
悲鳴のように声があがり、暫し沈黙が訪れる。
吐息と共に唇を離して、ケレゴルムは大事なものを差し出すようにそっと言った。
「松の梢が鳴る音でしたとも」
* * *
「海が恋しくなったら目を閉じると良い」
そう微笑んで告げたのは二番目の兄で、つい先頃妻を娶った彼は、以来うたうように時折ふかい声を出す。
オロドレスは元々とても穏やかでひっそりとしたひとだが、妻を得るのには後々までも語り草になるような情熱を以てしたらしい。それは今、会って感じる彩りのようなもののことだろうか。
戦の気配は遠いけれど無くなったわけではない。日々感じるからこそ、兄の内側からの光と彩りを見ると、あの時ここを引き受けて良かったな、と思う。
ドルソニオンは名の通りの松の多く生い茂る場所で、海からは遠い。波の音を聞いて育った身には、北の山が唸る夜にはどうにも心が騒いで仕方ない。
寄せては返す波の歌が聞きたい。唸るのならば潮騒が良い。
そう訴えると兄は、ふかい声で言ったのだ。目を閉じて聞くのだと。
「風が吹くだろう。松を揺らす。ざざんざ、ざざんざ。その風が潮騒を呼ぶ」
兄の浮かべた笑みがあまりに艶やかで、いっそ狂おしい何かを感じたのを覚えている。
それから何度か目を閉じて聞いてはみたが、兄のようにはどうもいかない。
松の音は松でしかなく、とりわけ北風の響きは唸りを含んで恐ろしく、聞こえない潮騒を聞こうとするよりも兄たちの笑顔を思い出す方がよほど落ち着いた。
そんな折りに兄と同じことを言うひとに会った。
知らぬひとではない。ただあまり付き合いのない、……従兄だった。
用があって通り抜けたのはつい先頃のことで、今寄ったのはその用の帰途だと言う。
「何か気になることでもありましたか」
「大したことじゃない。ここなら松籟が聴けると思ったからな」
「松籟?」
「聞こえるだろう?ざざんざ、ざざんざ」
軽やかにケレゴルムは言ったが、同じ擬音で松に吹く風を語ったひとを思い出して息を飲む。
「潮騒みたいに」
金髪の従兄の微笑みは、すこし危ういように匂い立つものだった。
ふと、兄の声音はどこか蕩けるようではなかったかとよぎった。
松籟に潮騒を聞く狂おしさ。それが兄を浸しているのかもしれない。
オロドレスの心を思えば、白昼に聞く松を揺らす風はどことなく甘く感じられるようだった。
ざざ…ん…
ざざ……ん…
潮騒のように聞こえるとは夢にも思えなかったのだが。