結婚

 花嫁のヴェールよ、とふわりとかけられたそれに、ネアダネルは息を飲んだ。
 繊細な刺繍を隙間なく編むように綴ったヴェールは、白い。――白いがそれだけではなかった。凍りついたように透きとおりきらめく青みの輝きで、とすればその白は確かに禁色であるように思えた。
「あら、フィンウェさまのむすめにどんな色を禁じるわけがあるかしら」
 輝く金髪の王妃は軽やかに笑ってそう答えた。
「そうね、確かに禁色ね、正装の色よ。……フィンウェさまの青」
 フィンウェブルーと、呼ばれるのだったその色、白にしか見えない…けれど確かに永遠の青の輝きを秘めた色で綴られたヴェールを、王妃が身につけているのをネアダネルは見た記憶がない。
 ノルドールの結婚の際、披露目の式をするならば、花嫁は全身を覆うヴェールを身に着けるのが通常だ。頭から覆い、式を済ませて正しく披露となる。
 インディスの結婚式をネアダネルは見ている。
 ヴァンヤールの姫君はその長い、光を編みあげたようなきらめく金の髪に、見事な白薔薇を飾って現れた。
 ヴェールは無く、けれどその金髪がまるでヴェールのようだと、囁きの広がったのを覚えている。
 白い薔薇について問えば、インディスは目を少しみはり、それから微笑んだ。
 あなたには、誤解もないでしょうから言うけれど。
 そう前置いて、王妃は――ネアダネルの義母となるひとは、やわらかな声音で言った。
「薔薇はね、フェアナーロに貰ったの」

 やっとあえたわ、というのが口から出たただひとつの言葉だった。
 愛しいひとたちの息子は、震えるほどの激情に駆られて立ちつくしていて、相対するインディスは、本当は恐怖を感じても良いくらいだった。けれどその時に感じたのは喜びだけで、また別の歌になって唇からこぼれ出しそうだった。
 フェアノールは嵐のようにうつくしくて、悲しげだった。盗人だと罵ったその言葉が、彼の心を傷つけたのが分かった。
「わたくしはあなたから何も盗ったりしないわ。フィンウェさまからも、同じこと」
 だからインディスは、静かに言葉を贈った。
「わたくしを差し上げるの。あなたはわたしを受け取ることができる。…考えたこともなかったものでしょうけど」
 フェアノールの手を握った。つめたくて、震えていた。インディスはまっすぐに彼の目を見た。
「ヴァンヤールの愛を甘く見てはいけないわ、フェアナーロ。わたし、とっても執念深いんだから」
 フェアノールの鋼色の目が、波打ったように思えた。
「――なぜ、その名で呼ぶ」
 絞りだしたような声に、インディスは微笑んだ。
「わたしがミーリエルから教えてもらったのはこの名しかないもの」

 そういった遅い出会いがあって、何度かのやりとりを経て、フェアノールはインディスへの接し方をゆっくりと量っていったように思う。いつだってインディスはフェアノールのことはただ愛しくてたまらなかった。
 彼が奥底に抱えているものは、怒りよりも困惑と悲しみで、それを癒せるすべを自分が持っていないのをインディスは知っていた。どう思われようともインディスから彼に返せるのは愛しかなかった。
 傲慢なまでに愛することしかできない。
 インディスのその性質を、おそらく実感としてフェアノールは理解したのだろう。
 結婚式の時に薔薇の花を抱えてやって来て、たいそう不躾に花嫁の姿をじろじろと眺め、深い息をついて見せた。
「フィンウェの息子から執念く傲慢なヴァンヤールの姫君へ贈り物だ」
 真白の薔薇を一輪、彼はその器用な指先でインディスの髪に挿した。
「ヴェールよりもそれがお似合いだろう」
 最後に被るべき美しいヴェールを横に置いてそんなことを言う。
 インディスはフェアノールの目を見つめた。鋼色は激情を秘めてはいたが、いつもよりは悲しみの色は薄いようだった。
「あなたからの花なら、きっとミーリエルも許してくれるわね」
 母の名を聞いて、息子は困惑した表情をし、ややあって苦い声音で返した。
「許すのは、あなただからだな」
「そうかしら」
「そうだ」
 きっぱりと言い、フェアノールは踵を返す。
 その後ろ姿にインディスは華やかに笑う。
「ありがとう、フェアナーロ」

「それで結局ヴェールは使わずじまいだったの。だからね、これはあなたに。――むすめたちに」
 やわらかに語る王妃の声を聞きながら、ネアダネルはひとつの詩を思い出していた。
 低い声で呟くように、戯れるように歌っていた。
 夫となるひとの困惑も悲しみも、それ以外のこともネアダネルは良く知っている。

“フィンウェはヴァンヤールに花を贈った
 紅に色づく純白の蓮

 ヴァンヤールの花を私は貰う
 ヴァンヤールに花を捧げよう

 花嫁インディスは髪に白薔薇を飾り
 ヴェールを被らずに微笑んだ

 ノルドールの花の贈り物を頂いたの
 ノルドールにわたしを差し上げるわ”

 捧げるような愛し方はできないと、ネアダネルは分かっている。
 それでもフェアノールの傍らにいることはできる。寄り添うことはできる。
 ヴェールの陰で、なぜだか涙があふれるのを感じた。
 王妃はそっとネアダネルの髪を撫ぜた。窓辺から外を見て、静かに歌い出す。
 今、とてもあのひとにあいたい。
 優しい歌に包まれてネアダネルはそればかり思っていた。