ものみな褪せたような気がするほどの圧倒的な薄明の中を歩いている。
 陽は、月は、どこへいったのだろう。
 波の寄せる岸辺へ向かって、歩みは重く、手は冷たい。
 薄明はとろけたような金色を砂のように撒き散らし、髪を、睫毛のひとすじを、爪の先を濡らし、引く裾の襞に絡まってぼんやりと照らしている。
 ―――あれは何。
 耳に忍び入るあれは、紋を描く波のような音は何?
 遠い遠い、そう形容したくなる昔に、そんな音を聞いたような気がする。

 打ち寄せる岸辺も一様に薄明に包まれて、だから金色なのは当たり前なのだ。
 けれどゆるやかな光の中で、とても懐かしい姿を見る。
 そこにいるのに、なんて遠い。
 ―――あれは何。

 瞬き、ガラドリエルは胸の熱さを感じて立ち尽くす。
 溢れだしそうな何かはそのままに、見つめる先で、懐かしい姿が振り返る。
「一別以来だね、ネアウェン」
 微笑むのは甘やかな淡い紫の瞳。軽やかな金髪も良く知ったもので。
「お父様」
 そう、最後に見た時は誰もかれも厳しい顔をしていて。……こんな不思議な光などなく。闇と。燃え滾るばかりの気持ちが。
 ああ。
 遠いと言うには近すぎる記憶に、ガラドリエルはうまく笑うことができない。
 フィナルフィンはその場で優雅に一礼する。
 降るような薄明の中で、彼はガラドリエルを見つめると、静かに歌い出した。

 父は歌わないひとであった。ガラドリエルはそう記憶している。
 歌と言葉で出来たこの世界で、とりわけ歌に親しみ歌を愛するテレリの――リンダールの都にあって、その姫を娶っても、フィナルフィンは歌おうとはしなかった。いつも至って静かに微笑み、笛を奏でていた。
 今初めて聞く父の歌は、抱きしめるような力強さを持っている。
 薄明を浴びるその岸辺で、歌は広がる。昇る。遠い、遠い、遠くから…
 ―――わたしに向かって。

 輪郭を包むように触れる手はとても温かい。その指がやさしく瞼を辿り、金色の雫をはらう。
 フィナルフィンは立ち尽くすガラドリエルの手に額を押し当てる。
「ご機嫌よう、華冠の姫、ただひとり残った我が子よ!」
 はっと息を飲んだ娘の前で、父は顔を上げ、真摯な瞳で覗きこむ。
「正しいことも、間違ったことも、規範さえも君は自由に選びとれる」
 染みいるような言葉だった。かつてを思い起こさせる金色の光の中で、フィナルフィンは胸を突くように輝く声音で続けた。
「君の凱旋を待っているよ、アルタニス。西の遠くで」

「……おとうさま」
 呼んだ声はあまりに小さく、うつむいていて、けれど正しく父には届いただろう。フィナルフィンは娘を抱きしめて、その鼓動を聞き逃したくないというふうにじっとしていた。
 そうするうちに金色の光は忍び寄る夜の色に変わり、娘は抱き返さない腕のまま目を閉じる。
「幸せにおなり。――アラタリエル」
 夜に相応しい密やかな言葉と共に、額に優しいぬくみを感じた。震えているような気がした。
 ―――ごきげんよう。
 この歌と祝福を忘れることはないだろう。ガラドリエルは深く頭を垂れる。
 選んだ道に恐れはなかった。父が見守っているのだから。

(BGM “Caravan” Susumu Hirasawa )