弓使い

 ボロミアの長子ブレゴールは弓の名手としてつとに名を馳せ、彼の生まれた時を知っているアングロドもその噂は耳にしていた。
 とりわけ遠当ての飛距離と正確さはそれまでに見たこともないようなものだという。
 アングロドがそう言うと、ブレゴールは濃灰色の目をすこし見開いて、それからそっけなく呟いた。
「弓が良いんでしょう。わたしの腕じゃない」
 ブレゴールが職人たちを厚遇することもまた、良く知られたことの一つだ。
 成人を迎えてからも浮いた噂ひとつ無く、変わった発想の職人がいると聞けば出かけていってその技術を実らせようと援助する。若は手の技と結婚する気だぞ、というのはベオルの族ではもう常識になりつつある。
 弓もそうやってブレゴールが推奨して造らせているもののひとつだ。通常の木のみで造るものとは違う。獣の角や骨、腱を利用して造ったそれは、確かに今までの弓とは格段に飛距離も威力も伸びた。
 弾性の増した弓には強靭な弦が要る。
「良い弦が無い」
 陰気な質ではないが、どちらかといえば寡黙の域に入るブレゴールは、呟くように喋ることが多い。
 もちろんエルフの耳には聞き逃すようなものではないが、アングロドは、彼の真意を図りかねることの無いように、言葉を自分の口の中で転がしてみる。弦が無い。それは、今ブレゴールの手中にある、彼の目のような濃い灰色をした弓の弦のことだろう。
 先日張った弦を一射で切らし、頬を打たれたのをアングロドは知っている。今も傷跡は薄らと彼の頬に残っている。
「髪ならどうだ?」
 言うと、ブレゴールは驚いたようにアングロドを見返した。アングロドは微笑んだ。
「エルフの髪だ。これ以上に強い弦は無いだろう」
 ブレゴールはごく真面目に手の中の弓を見た。唇が、何かを決意するように引き結ばれ――彼はぱっと顔を上げてアングロドの目をまっすぐに覗きこんできた。
「貴方の御髪を頂けますか」
 アングロドはぼくの、と洩らした。それほど驚いた。
「……私の髪をか?」
 訊き返すと、ブレゴールはやはり真面目に頷いた。
「どうせなら私なんかのではなく兄上の――」
「貴方の髪が良い」
 アングロドの言い募るのをきっぱりと遮ってブレゴールは言った。その射るような視線がアングロドの白金の髪を見て、ふとゆるんだ。
「いえ、……弦などに使うのは勿体ないような気がします」
 

 ふたりで歩んで川へ行った。対岸へ遠当ての矢を放つのは、距離を見る上でもちょうど良い。
 ブレゴールの手の中の弓には、見事な輝きの白金の弦が張られている。
「あの実はどうだ?」
 アングロドは対岸に生える一本の木を指差した。赤い実が、午後の光に照らされてきらきらと光っている。
 ブレゴールは頷き、矢を番える。きり、と音が鳴る。彼の手の中で白金の弦もまたきらと輝く。
 一息、鋭く飛んだ矢は見事に実を捕らえた。あ、とアングロドは声を洩らす。輝く実は変わらず午後の光の中にある。ブレゴールが射ったのはそれよりも高く奥にある薄い色をした実であった。
「弓が完成したら、祖父様や父上を安心させようと思っていたんです」
 静かな声が耳を打った。ブレゴールは握った弓をじっと見つめていた。
「殿。感謝します。星をも射る弓を授けてくださった」
 そのがっしりした指先が、ひどく優しく弦をすべる。アングロドは胸が塞がるような心持ちになる。
 目をあげて、あわく微笑んだブレゴールは、何かを引き剥がすように言った。
「星を射たいと思っていた頃がありました。けれど、星を射て、あがめる方に捧げても、きっとあのひとは喜ばない。―――」
 ブレゴールは再び矢を番え、放つ。
 きらきら、輝く実は息をつくように枝から離れ、矢の方は茂る葉に紛れて見えるところからは消え失せた。

 果たしてボロミアの長子ブレゴールの結婚の報がアングロドに届いたのは、それからすぐのことであった。