故郷

 海が見たかったのです。
 そう言ったエレイニオンに、白鳥港の王はいともたおやかに手を伸べた。
「風も収まった。ひとめぐりしようか」
 エレイニオンは照れたように笑んで、オルウェの手を取った。
 乗り込んだ船を波が揺らす。
 星のしたたるような夜のことである。

 船は進む。波を分けて。
「知らない地へ、誰かを導くのはどういった心持でしょうか」
「憧れ――だろうな」
 オルウェの瞳が遠い記憶を辿るように細まる。
「郷愁だったと、言えば奇妙に聞こえるだろうか」
「……郷愁?」
「湖を、」
 オルウェは言葉を切った。こんな星空を見ると胸が騒ぐ。そう続けた。
「世の果てまで眠るならあの岸辺が良い」
 エレイニオンは息をのむ。
 沈黙の、銀の水面。波紋の寄せる暗い岸辺。
 目覚めて仰ぎ見た空は、どんな輝きの星で彩られていただろうか。
「抱かれて安らぐのなら、やはりあの岸辺だと、クウェンディの故郷はそうなのだと――思うのだ。時の終わりまで眠るとしたら、私は湖を選ぶ」
 西を指し、オルウェは続けた。湖に、かえりたいだろうか?かえれないところであろうか?
「ここから西を見つめた時に、私の心はどちらにも同じ思いを抱いていた。それを郷愁と呼ぶのは間違っているかもしれないが……もし思いを歌にしたならば、同じ旋律を紡ぐだろう」
 風がふわりと行き過ぎた。船はすべるように岸へ着く。
「だが」
 オルウェはエレイニオンに手を伸べた。その手を取って立ち上がり、エレイニオンは告げた。
「生きていくならこの地が良い」
「……そうだ」
 すこし切なげに目を細めると、やわらかな声でオルウェは続けた。
「この東の地の岸辺と、海を越えて西の岸辺と。私たちの生きていく故郷はここだから」
「――はい」
 とろけるような星明かりの岸辺で、ふたりの王は、静かに微笑みあう。

 穏やかな風が波の音を立ち上らせる。
 岸辺にあればその波は、歌のように胸ふるわせる。
 星明かりの下でオルウェの髪は青くひかるような銀で、その色が沈黙する銀の水面を思い出させた。
 エレイニオンは古い言葉で歌を紡ぐ。波の音に合わせたそれに、オルウェが少し目を瞠る。やがて重ねられた声は同じ言葉で歌を支え、星まで届けと風に乗せる。
「湖の歌をご存知とは」
 オルウェのふかい碧色の瞳が、エレイニオンの菫の瞳をひたと覗き込む。
 エレイニオンはいたってしとやかに笑むと、その秘密を告げた。
「私は目覚めの湖を、きっと知っているのです」
 碧の瞳によぎったのは、それこそ郷愁と呼ぶに足りるだろう。エレイニオンの心に抱く揺籃も、同じくあの岸辺なのだから。