うつくしい夜

 白い都で青い空を見たことがある。
 それから炎、焔、火の色の記憶。
 岸を離れて波の上、めぐる日を数えて風に遊ばれ、すべてが眩しい地に踏み入った。
 輝きは純たる真直、黒き龍を突く槍となり。
 誰も行かぬところへ行っただろう。
 誰も見たことのないものを見ただろう。

 極彩色の夢を見てからというもの僕の目は色を映さず、夜の色など何も、知らない。

 太陽のマイアはそんな僕の目にも驚くような白い髪を翻して、ご機嫌ななめね、と言った。
「いろいろ考えるでしょう」
 くすりと笑ってアリエンは、しゃんと音を鳴らして太陽の船を撫でる。光の粒子が翼か炎のように空にかたちを描いた。
「……いろいろ考えるね」
「悩み深くなるものなのよ。私もそうよ。今でもね」
 海の時はそんなことなかったの? 聞かれ、僕はヴィンギロトがまだ水と波と戯れていた頃のことを思い返す。
 あの頃、僕の視界は彩りで溢れていて、世界は未知のもので満たされていて。
 そして僕の求めるものは強い憧れのようにはっきりと示されていた。
 迷うことなどひとつもなかった。
「あなたが夜の美しさを知る日が来ますように」
 私だって知らないけれど。アリエンは微笑んでヴェールを被る。眩しさと光と熱を、かたちに封じるのだという。
 僕の目にはそうやってかたちを取ったマイアがどう「変わった」のか少しもわからない。

 月のマイアは「ぼく銀が見えてるならなんでもいいや」とずいぶんと投げやりなようなことを言って僕の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。
「夜が見たいの?何色なの?」
「黒かった」
「うん、黒だよ」
「黒から白とその中間。ぜんぶ」
 うーん、とティリオンは唸った。
「間違ってはいないけど」
「でも違う色だろ。僕はもう一度見たいんだ」
 僕がそう言うと、濃淡の違う黒白の入り混じったかたちに見えるティリオンは、確かとても鮮やかな色をしていたはずの目を大きく瞬いた。
「なんだ、夜が美しいってこと、もう知ってるんだ」

 僕は美しい夜の色をいつどこで知ったのだろう?

 そういったことに近いおかしな眼を持つ友人に色が見えないと打ち明けたが、彼は非常に深刻そうな表情でしばし黙り込んだ末に「よく考えたら私は生まれつきだからそもそも『普通に見える』がわからない」と役に立たない答えを返してきた。
「きっかけは覚えているんだろう?」
「ああ」
「たぶん自分で納得しないと何も変わらないことだと思う」
「至極まっとうな助言をありがとう」
 むっつりと返事をした僕に彼は希有な色をしていたはずの瞳をゆるりと細めた。
「そなたは考えてみると良い。自分のことを」
「あんたに言われたくないな」
「私だって前よりは自分のことを考えてみた」
「お人好しは考えたって治らないことらしいな」
「治すようなことかな」
 僕が嫌みを言っても堪える様子もない。彼の人の好さは死んでも治らなかった類のものだから当然と言えばそうだった。
「……思いだしたらいけないような気がしている」
 言い捨てて、僕はヴィンギロトに飛び乗る。僕の踏む端から船にはまばゆく火が満ちる。
「ギル=ガラド」
 振り返って呼ぶと、輝く星の名の友人は、眩しそうに目を眇めて、ん、と応える。
「夜を見てくる。そこで待ってて」
 彼は僕を甘やかしているから、もちろん断らなかった。

 極彩色の夢を見てからというもの僕の目は色を映さず、夜の色など何も、知らない。
 記憶に依ってこうだろうと思い描ける。青も赤も、海も炎も。
 ただ目の前に広がるこの黒は、夜というものの色は、こうではないと心が軋む。
 黒白で彩られた視界で、遠く走る白いひとすじの光を眺める。
 誰も行かぬところへ行きたかったのは僕じゃない。
 誰も見たことのないものを見たかったのも――

 天つ海から戻るや否や、僕は船を飛び降りて愛しい海へと飛び込んだ。
 波は黒い光、白い闇。
 そして血に似た味を飲む。極彩色の記憶を辿る。滾らせた希いの色がそう、求めていた夜の色だ。
 僕は水面から白い空を仰ぎ見る。ギル=ガラドが岸辺に佇んでいる。
「あいたいひとがいた!」
 怒鳴るように叫べば、彼は苦笑して頷いた。
 彼には迷惑をかけるかもしれないな。そうちらりと思った。だけど僕は求めるものを思い出した。
 迷うことなどひとつもなかった。
 岸辺へ向かって泳ぎ出す。太陽の船が輝くような音で光を降らせ始めていた。