やばい、死んだ。
 と思って視界が暗くなったので、次に開いた時、小暗い――仄暗いの方が良いかもしれない――岸辺が眼前にあったのは、エルロスにとって驚くべきことではなかった。
 かつて幾度となく訪れ、よく知っていると言えるその岸辺は、最期に訪れることになると思っていた場所だ。
 水面を覗いたこともない暗さが覆う、波の音がするようでしない、光などないように思えるのに何もかもが見える――あまりに露わな岸辺なのだ。
 岸辺には、苛々する思い出がひとつある。
 だが「彼」に――会わずに済ますことはできないだろう。最期にと、そう言われた。「彼」がそう言ったからには覆ることはない。だから会ったなら、エルロスは文句のひとつも言ってやろうとそう思ってきた。
 だからその時不意に、呼ばれたと、そう感じたのでさあ言ってやろうと振り返り、
「はあ!? あんた誰だ」
「ええ!?」
 全く見知らぬ相手に酷く失礼な暴言を吐いた。
 この小暗い岸辺で見るにはあまり眩しい気がする色と光を纏った美男子は、エルロスを呆然と見ていたが、あの、と声を上げた。
「その、俺は、」
「待った!」
 エルロスは慌てて言った。
「多分あんたは私の長上の誰かなんだろうが、どうか名乗らないで欲しい。知りたくないんだ」
「……はあ」
 美男子はごく真面目に頷いた。エルロスは、ええと、と言葉を継いだ。
「あんたはなんでこの岸辺に?」
 美男子も同じく、ええと、と言った。
「ここの番人のようなものなので?」
「…番人?エルフが?」
「そこの扉からこの岸辺を開いたのは俺なので」
 見れば確かに、エルロスが見たこともない扉がそこにはあった。
「俺は『夜の岸辺』と呼んでいますが、」
「……ぅん」
「外なる海を臨むここは、マンドスの館と繋がっていて――」
 指された先には暗い海が、波もわからずひっそりと、ある。エルロスは、そう遠いとも言い難い祖の「蘇った」話を思い出す。
「この世界と別れゆく人の子が、最後の船を出す前に、縁が深ければ、……強く、望むなら、話すことも出来る」
 美男子がとても強い希いを秘めたような目をするので、エルロスはなんだか申し訳ないような気になった。
「私なんかと話してすまなかった…?」
「いえ、あなたが死んでいなくて何よりです」
「は」
 エルロスはまじまじと美男子を見た。今こいつ何て言った。
「てっきり最期だって」
「俺と話している以上それは無いですね」
「ええ…?」
「あなたがこの岸辺を良く知っていようとも、全く見知らぬ相手と話すなんてことはそうそう無いんですよ、ペレゼル」
 とん、と額を突かれて、思ったよりも身体が揺れた。
「ああほら、呼んでる」
 繋いだ手を離さぬように――と、言われた気がして、美男子の祈るような微笑みを見て、そして、
 そして――

 目を開けば、よくよく見慣れた自室で、縋りついて泣いていた妻が、悲鳴のような歓声を上げた。
 おお、確かに生きているな、とその温かさを感じて思う。
 宥めて、話して、口づけて、するとはっと息を飲んだ妻はこどものような頼りなげなぐしゃぐしゃした泣き顔で、どうしようあたし兄様方を呼んじゃった、と言った。エルロスは吹き出した。兄様方――エルロンドとギル=ガラドは、恐ろしい速さで来てしまうだろう。伝令なんか間に合いやしない。出迎えて驚かせて、たぶん怒られて、それから笑い話になればいい。
「船が見えるまで一緒に待とうか。海が見たかったんだ」
 そう、外なるかの海と岸辺ではなくこの輝ける此岸の海を。
 死んでいる場合じゃない。小さな妻の手を選んで以降、今さら離すはずもない。
 それでもいつか来るだろう最期には、あの美男子に、堂々生きたと見せたいものだなと思った。