未だ幼い孫の、最も目を引くのはその褪の季節の彩りのような華やかな髪だろうが、目の前のヴァラにはそうではないらしい。あの方にはきっと、こどもの為すこと全てが珍らかで、可愛くてたまらないのだ。
半身のようにして育つだろう白い獣に頬を舐められて、ヴァラからは鼻の頭に口づけをひとつ。ケレゴルムがきょとんと零れ落ちそうに眼を見開いているのに、オロメは愛しさが溢れ返った顔をしている。
「いつ、釘を刺すべきかな」
「え?」
ひどく温度の無い声でフィンウェがぼそっと言ったものだから、マハタンは驚いて横を向いた。
がり、と不吉な音を立ててフィンウェは自分の爪を噛んでいた。
「……泣かせたら許せない。許さないけど。ううん、やっぱり許せない」
「お知恵さん、落ち着いて」
「落ち着いてるよ」
「これっぽっちも落ち着いてないですよ」
「だって」
フィンウェはきりきりと眦を吊り上げると、大変なんだから、と言った。
「大丈夫ですよ」
「本当に!?」
「だ、い、じょうぶだと、思います」
移り気と、言えるかもしれない力ある方だが、どうやら幼い孫への思いは真摯なものであるらしい。それに。
「ほら、オロメさまちょっと天然ですから。気づかないかも」
曖昧に笑って言った。するとフィンウェは一瞬たいそう不審な顔をして、まあそうかもしれない、と溜息をついた。
マハタンはまた繰り返した。大丈夫ですよ。たぶん。大丈夫…
「大丈夫じゃなかった。あの頃の俺を絞めてやりたい」
そんな話を披露して物騒なことをマハタンが言うので、キアダンは口に含んだ酒を吹き出しそうになる。
「それで、あなたからもマグロールのことで、ウルモさまが。それで、まあ見てみたら、確かにそうで」
マハタンも少なからず酔っているのだろう。言いたいことは何となく分かるが、言葉がどことなく繋がらない。
「うっかりお知恵さんに手紙を書いてしまった」
「ほお。それで、返事は?」
「オトナだから大丈夫じゃない?みたいなことが…それは勿論そうなんだが…」
マハタンはふうっと溜息をつくと、止める暇もなく酒をあおった。
「………過ぎる、のが。心配で」
杯を握りしめて言う。キアダンは指を伸ばして力の籠った手を軽く叩く。一度。二度。三度目を打つ前にマハタンはふっと笑って、実は、と続けた。
「イングウェ様にも聞いてしまった」
「な。に?」
悪戯が成功したかのように笑みを浮かべたまま、マハタンはキアダンをじっと見た。
「だってヴァラと最初に付き合い始めたのはあの方なんだ」
「それは…そうなんだろうが。それで?」
「“弁えられていることを願いたいな”と――マンウェさまを張り倒されたので、何だかよく分からなくなって帰って来た」
「張り倒すのか」
「平手打ちで」
「平手打ちでか!」
「痛そうだった」
しごく真面目にマハタンが言うので、キアダンはうっかり想像して頬が痛いような気になった。
「あなたがウルモさまに聞いて、それでマグロールが見つかったのは良いんだ。感謝してる。とても。ケレゴルムのことはそれこそ昔からだし、むしろあの子の片思いなところはあったし、」
「ちょっと待ってくれどこがどうして片思いだ!?」
「いや。だから。天然なところがあるからオロメさまは…」
でもこうなるならあの頃気づかせてしまった方が良かったのかも。流れるように告げられるあれこれに眩暈がする。キアダンは困惑する。酒の席の繰り言と片付けるにはあまりに、ぶっちゃけすぎだ。
ええと。遮るように声を上げると、マハタンは少し小首を傾げて黙った。幼いようなその仕草に色々と思うところはあったが、こらえて続ける。
「つまり貴男は、反対、というわけではないんだな。仲に対して」
マハタンはゆっくりと一つ瞬くと、居住まいを正してキアダンを見据えた。
「ノォウェ殿」
「はい」
「ヴァラと2番目に付き合い始めたのはたぶん俺なのに何を言えと?」
「はい!?」
真剣な顔で言うことはそれだ。酔っている。酔っているがしかし、キアダンはこっそり唾を飲んだ。
「マハタン殿、つまり――つまりその、そういう仲なのか、貴男…、アウレと」
こんなに緊張したことはそれなりに長く生きているが今までないように思った。褪せた苔色の目に困惑の影がよぎり、マハタンはみるみるうちに顰め面になって、
「ない」
とただ一言告げた。
「ない!」
うっかり前のめりになったキアダンである。
「ないな。ない。これまでもないしこれからもない」
「な、な、ない、ないのか」
「そういうことになるのかなと昔は覚悟してみたりもしたんだが、ないな」
「ないんだな!」
何の話をしているのか分からなくなってきたが、キアダンは高揚した気分で頷いた。よし。ない。そこはない。
「蹴りを入れてしまったのが原因かもしれない。まずかったかな」
「ひっ」
淡々と言われたのでぞくっとした。蹴り。どこに、かは聞きたくなかったのでキアダンは丁重に発言自体を聞かなかったことにした。
「ええと――だから反対ではない。それこそオトナだし。ただ過ぎると……ううん、怖い、から、けど、」
マハタンは眠気を振り払うように頭を揺すり、続けた。
「アウレ様ならともかく、オロメ様とかウルモ様に何か言うのは緊張する」
と、言ったような言わないような、そこで記憶がふっつり途切れているので、翌朝マハタンはたいそう気まずくキアダンに声をかけた。
「すまない、だいぶ愚痴を言ったし…迷惑をかけたと…」
キアダンは微笑んで、いや迷惑などではない、と言い、ふと真顔になった。
「だがな、マハタン殿」
「ん」
「貴男を慕うとはっきり言った男の前でああいうことをするのは、いかん」
「…うん?」
「今度あったら、私は遠慮しないことにする」
「…………」
ぴきんと固まったマハタンの肩を、一度ぎゅっと掴んでキアダンは去って行った。ややあって、弾かれたようにマハタンは振り返ったが、船大工の姿はもうどこにも見えなかった。
「………酒、控えようか…」
覚えてないけど。問題はそこではないことに、赤毛の匠は残念ながら気づいていない。