エオンウェにはだいぶ前からある疑問があった。
エルダールの妙な豪胆さというか…平たく言えば怖くないのかということである。
怖くないのか。何が。ヴァラールと付き合うことがだ。
そういうわけだから、ふわりとマンウェがその場を離れたので、さっきまでそこで撫で放題に構われていたイングウェにそのまま訊いてみた。
彼はくたりと傾いたままの体勢で、濃い紫の瞳を緩慢にまたたいて、こわい、とは、と呟いた。
「怖くないわけがないので怖いですね」
「……煙に巻かれた気分なんだけど」
「怖い筈だと分かっているということでは、怖くないのかもしれません」
「何か小難しい解釈してるのは分かった」
イングウェは深い溜息をつくと、あれはそういうものでしょうけど、と重い声で言った。
「見つめれば渦の中で、怖くないとどうして思えるんです」
あれ。そう呼べるくらいには怖がっていないじゃないかと思った。
怖い? どうして! と言ったのはふたりいて、どちらもノルドールだった。
あまりに純粋な目でどうしてと言われたので、こちらもどうしてと重ねてみたエオンウェである。
「………やさしい、から?」
結構な間をあけてマハタンは答えた。
「アウレ様……優しいの」
「蹴りを入れても怒られなかったのでおやさしいと…」
「蹴り入れたの!?」
「その、うっかり」
驚いて。赤毛の匠はつつましく目を伏せて続けた。
「ただその、ヴァラリンでお話しされてる時は、いつもよくわからないのにもっと何が何やらで、すこし、こわい時もあります」
エオンウェからすれば蹴りを入れてる時点でもう何も怖がっていない。
たぶん、わからないとこわいのだ。
エオンウェには、どうにも惹かれ、いつも寄っては逃げ帰るはめになる相手がいる。
灰の帳の織り手であるヴァイレ、時の遺骸を紡ぐヴァリエにも睦むエルダールがいた。
彼女にはついぞ尋ねる機会がなかったが、彼女の夫には件の質問をしたことがある。
怖い? どうして! フィンウェはとろけるように笑った。
そこまで含めて、エオンウェにはとてもおそろしかった。
「騙されました」
淡々と、表情も変えずに言ったのはマグロールである。
最近ようよう帰って来たノルドールの伶人は、帰って来たと思ったらウルモの奇妙な加護をひっつけていた。
「へえ。で?」
「訊いておいてその態度は何ですか」
「良いから水の王がどんな詐欺を働いたのか答えなよ」
黒歴史の遠因なのでつめたい対応だと言われたら反論できない。だが同時に、澄ました顔をしておいて、このいっそ不遜な態度を真っ向からとる気概を、エオンウェはかなり気に入っている。
「………水たまりが付いて来てたら、エオンウェ様、どうします」
「逃げるかな」
「逃げても付いて来ます。千年経っても」
「気持ち悪いな」
「つついたんです」
「…ん、ん」
真顔で続けるので、エオンウェは曖昧に相槌を打った。ウルモが不定形流動体になっているのは知っている。最近はよくヴァリノールに来ることがあって、その割には不定形流動体のままでいることも知っている。少し嫌な予感がした。
「そんなこんなで百世紀経って、私は相当心を許していたようで――水たまりに」
「ちょっと待てそのみずたまりってさ」
マグロールは少し潤んだ目をしていた。
「それがウルモさまだなんて、騙された」
だから違うお姿の時はちょっぴり怖いです――という声が終わらないうちにマグロールの背後に膨れ上がった綺麗なみずいろを見て、エオンウェは速やかにその場を逃げ出した。
ぎゃっとかいう声は聞こえない。聞こえないったら聞こえない。
あのみずたまり、こわい。
こわいと逃げ出したままでは何かおさまりがつかなかったので、エオンウェは少し走って森まで来た。
なぜか巨大なキノコの下で丸まって眠っていた金髪のノルドールを叩き起こす。
「ねえケレゴルム、オロメ様怖くないの?」
「こわ、……?」
ケレゴルムはぼんやりと漆黒の瞳を彷徨わせたが、ぶつけられた質問と同じくらい突然にエオンウェの肩を掴んだ。
「怖くないです!ぜんぜん!!」
「あ、うん?」
顔面蒼白必死の極み、と形容してやりたいような真剣さでケレゴルムは続けた。
「ちょっと最近お元気すぎるように見えるかもしれませんがそれは全然問題ないんです俺は困ってないし酷い目になんか遭ってないし怖い思いもしてません仲良くしてますとてもお優しいです!!」
「あ。うん」
「だから大丈夫です心配されるようなことは何一つ起きてません!!」
「うん。ごめん。怖がらせてごめん」
この質問、監査とかじゃないんだ単なる好奇心だったんだ…。納得させるまでにかなりかかったのでエオンウェはいつオロメが帰って来るか気が気じゃなかった。
とてもこわい思いをしたりなどしたが、エオンウェの疑問には一応の結論が出た。
「愛があれば種族の差なんて乗り越えるってことなんだよなあ」
怖くないのは愛の成せる業、と。
この答えでどうしてそうなる!と訊いた面々には抗議されそうだが、それは確かに普遍の真理であるように思えた。