「アウレがずるいのよ」
眼の前の女性はそう言った。
「はあ」
私は間の抜けた声で返事をした。
「ずるいのよ、あのひと。いつもそうよ。熱中したら帰って来ないの。始めたら何も聞こえないの。なのにあたしが集中してても気にしないで歩いてくるの」
そうですか、と私は今度は頷いた。
マンドスの扉を出たら、荒野だった。
少し変わった経緯でヴァリノールに出ることになったから、奇妙でもそんなものだろうと思ってはいる。
荒野とはいえ、扉のすぐ傍らにはまばらな低木の丘があり、その中腹からかろうじて地を湿す水が流れていた。流れ落ちた先では土を巻き込んで泥泉になっていて、それも広がるわけではないのだからそのまま地の奥底に少しずつ染みこんでいるのだろうと思われた。
その泥泉の横に大きな石があり、私はそこに腰かけている。
なにぶんあまりに突然に扉を出たものだから、落ち着かなくてはと思ったのだ。
丘を背にして荒野を見れば、なかなか遠くと思える場所には濃い緑の森があるようだ。
ならあの森を目指すべきだな、と考えた時に眼の前に現れたのがこの女性だ。
たった今まで見ていた森よりは、光に透けたような緑の髪。
木肌のとりどりを合わせたような茶色の瞳。
彼女が言った。
「たまにはあたしがずるいことしたって、文句なんて言わせないわ」
私はええ、それで、と頷いた。
「あたしのオノドリムは目覚めていないの。ここでは起きる必要がないでしょうって。木には木の楽しみがあるけれど、牧人には牧人の喜びがあるのに。そこもずるいのよ、あのひと。あたしの処に来る子はめったにいないのに、はがねの魅力で呼んでしまったのだわ」
オノドリム。……エントと呼ばれる、木の牧人。遠く思える会話の記憶。のちのち聞いた、古い、古い森として、ファンゴルン、あのお喋りは変わらず、……そう、元気でいると、言えるだろう。
「でもねたまに、火と金気を脱ぎ捨てるように、あの子は木を植えたのよ。だから森があるの。火を恐れない、愛してすらいる牧人が、眠りにたゆたっているわ。あの子は起こしてはくれないけれど、はがねに見とれている時だって、森のことは忘れてはいないわ」
私は彼女の目を見つめている。彼方の森がどう育ったか、その目から私の目に、虹色の幻が躍る。
「ねえ、森まで広がりなさい。花を見せて。木を放って。あたしには遠い愛し子の大地を教えて」
私は答えようとした、筈だった。
彼女の唇が額にふれて、涙が出るほど艶やかな声が言った。
「そうよ、あたし、ずるいことしに来たの」
―――そして、まひるの夢かと思う瞬間が過ぎれば、あたりの荒野は一面に淡い緑を滲むように生やしていた。
石に座って考え込んで、3日経てば花が咲き、10日経てば若木が生え、つまりはさほど経たないうちに、そこは小さな林になった。
泥泉はすっかり広がり、石を撫でて滾々と清水を溢れさす。
ずるいこと、が今の状況なのかどうかは私には判断がつかない。彼女――誰だかはとうに知っている――の望みは叶うかどうかわからない。ただ、私の心は確かに生え育つものに向いているのだから、彼女の懸念の方は心配いらないと言えるだろう。
仕事が済んだら、はがねを愛するひとに会いに行こうと思った。森はまだ遠い。