水の王は悪びれない

 騙された、と思っている。
 マグロールはそう考えている。何って、この眼の前にいるきらきらしたみずたまり、――水の王ウルモのことだ。
 大海原はあたり一面水だらけで青くてきらきらしていて、波の上、飛ぶように走る船はもうどうしたって西への航路をやめに出来はしない。
 そんな西へ向かう最後の灰色の船の上で、すみっこでひっそりじめっと座っている。
 船出が不本意ということはない。さすがにない。百世紀を超えて彷徨って、それはもう色々な説得をされて、腹も決まった。これ以上に逃れる気はない。

 その、マグロールにとっての逃避行の意味合いが強かった放浪のそこかしこに顔を――顔は無いが――覗かせていたのがこのみずたまりだ。不定形流動体、音も無く足元に這い寄っているかと思えば、岩陰で不思議に美しい音楽を奏でていたりもするし、木の枝から果実を巻き込んで垂れ下がって来たこともある。
 得体が知れないにもほどがある。気づけば近くにある綺麗な水たまりが動いていると分かった時の驚愕と恐怖は筆舌に尽くしがたい。当然逃げたし、水たまりはついてきた。
 どこに行ってもついてくる。どんなに乾いた荒野にいても、気づけば近くにそのきらきらしたみずいろを見かけるのだ。
 ついてくるだけで何も無かった。時折マグロールが歌うのに合わせてどうやら歌って(音楽を奏でて)いるらしいのが分かって、なんだか少し変わった小動物くらいに思えてきてしまった。
 そういう日々に、枝を持ってつついてみたことがある。
 きらきらしたみずいろのみずたまりは無反応――ではなかった。つついた枝を掴まれて、マグロールは全力で飛びすさった。みずたまりは握った枝をどうしようか迷ったのだろうか、にょんと伸びてそっと傍の茂みに枝を置いた。
 そして困ったように少しくすんだ青になった。
 多分それで、相当にほだされてしまったのだ。
 とはいえすぐに打ち解けたわけではなかったが――というか今でも打ち解けたというほどの接触はなかった――マグロールはみずたまりがそこにいるのを気にしなくなった。水たまりがいるとは妙な話である。それくらいに、みずたまりのことを生きているものだと認識して、それでいて放っておいた。害なすものではないと、その後の年月で染みこむように分かっていって、しかし触れはしなかった。
 二度目につついてみたのは、やはり枝を持ってで、みずたまりがみずいろばかりではないなと思ったからだった。色とりどりの虹色の砂粒のようなものをその流動体の中に封じ込めているようだったが、みずたまりはつつかれると驚くべき速さで視界から姿を消した。次に見かけた時には常のみずいろできらきらしていたので、その後マグロールが枝を持つことはなかった。
 思い返せば、時折どうしようもなくからっぽな気がする時に、みずたまりは姿を見せていたのだ。

 そのみずたまりがウルモだと、水の王だと、あまねく水を支配するヴァラだと、知ったのは本当に今しがたのことになる。
 騙された。そう思った。
 そう思ったのに、船になんか全く乗る必要のないみずたまりは、みずたまりのままマグロールの眼の前できらきらしている。
「………ウルモ、さま」
 ぽつんと、波に紛れて消えるほどの小さな声で呟くと、みずたまりはこの上ない不思議な美しさの輝きの粒で流動体を覆った。その、あの、マグロールは目を泳がせて、それからやはり小さく言った。
「いろいろと、……ありがとうございました…」
 途端にみずたまりは膨れ上がり、
「きゃぁああああああッッッ!?」
 伶人は金を裂く叫び声を上げ、なんだか変わったものに触れて、
 ―――ぽちゃん
 と妙に静かな水音が響いた。
 船の同乗者たちが駆け付けた時には、すっかり丸くなってどんよりしたマグロールがいるばかりだった。

 その後、船ではきらきらしたみずいろのみずたまりが頻繁に目撃されるようになる。