メレス・アデアサド、再会の宴と名付けられたこのノルドールの宴に、ダイロンとマブルングはドリアスからの使者として出席している。マブルングの意識としては使者と護衛である。
そのドリアスの伶人、比類なき音楽の才を讃えられるダイロンは使者として申し分のない口上を述べた。二房ほの明るい銀髪を編んでまとめた濃灰色の髪には、ドリアスを出立する時にルシアン姫手ずから摘んだニフレディルが飾られており、おかげで伶人はとてもごきげんである。マブルングはニフレディルを拝みたい気分になる。
機嫌が良くて本当に良かった。気まぐれというよりももっと手のかかるこの伶人は、だいたいにおいて半分くらいこの世にいない。彼の心はすぐにきっと誰も知らない音楽に浸ってしまって、現し世のことなど放り出してしまう。
それでもまだ伶人として人前にいるならば良い方で、心あらず幽玄にさまよう瞳をしていても、受け答えはきちんとしたものだ。ふわふわと掴み処のない雰囲気になってしまうのは致し方ないとして。
今もキアスについて問われ、返事をしている。
「森に…、いろいろな印が、満ちて、おりまして…、わたくしは、それらを集め、まとめて、みな同じように、読めればいいのにと、そう思いましたもので…」
いっそたどたどしいと思える話し方だがこれがダイロンの伶人としての常態である。どこまでも柔らかい様子は声にも表れていて、ぼんやりとした瞳だが笑みの絶えることはない。話しかけた相手も同じようにゆったりと頷き、心なしか場の時間さえゆるりとなった。マブルングはこっそり「ダイロン時間」と呼んでいるのだが、耳に心地よい美声でまったりと語られてはそう思いもするだろう。
普段そうは思わないが、ダイロンは伶人の仕事中は本当に麗しいと思う。花紺青の瞳が茫洋と細められると、マブルングは春の森の夜を思い出す。星明りが滴になって葉を濡らして、森は銀色に包まれている。あたたかなそれを思い出す。描くものは人それぞれだろうが、ダイロンはそういった心に抱く麗しいものを思い起こさせるのだ。本人に言っても胡乱げに頷くだけだったが。
そんな時間に包まれているうちに、大広間のざわつきが少し変わった。向こうに続々と運ばれた楽器を見て、ダイロンが花の零れるように笑う。機嫌は崩れなさそうだ、安堵してマブルングは招かれた席へ腰かける。
「君もノルドールの歌を聞くのは初めてだったか?」
うきうきとした様子に問うてみると、ダイロンはほのかに口をとがらせた。
「フィンロド公子が、歌われているのを、少し…。でも、あまり、聞かせて、いただけませんでした。わたくし、いいこに、してたのに」
シンゴルさまが、お話しすることがあるって、連れていかれてしまって、愚痴の体になってきたそれを、マブルングは慌てて遮る。
「今日聞けて良かったな」
「はい」
後で話も出来るかもしれないな、気軽に言った時、楽奏が始まった。
数曲の楽奏が続き、それから合唱になった。ノルドールはほとんどシンダール語で話すが、この曲の数々は西の地の言葉だった。マブルングには少ししか分からないが、ダイロンはどうなのだろうか。ごきげんに聞いているようだった。
ちらりとダイロンの半分ここにいない横顔を見て、この後のことを考える。機嫌が保てたら、宴の1日は無事に終わりそうだ。帰りの道中どう伶人が手を焼かせようと、ふたりきりなら何の問題もない。
目線を戻すと、マブルングはおや、と片眉を上げた。明らかに他の者とは違う威風のあるノルドがそこに現れたからだ。
片側に印象の残る編み髪は黒かったが、艶の部分はそれまで一度も、誰にも見たことのない色をしていた。そう、樺の色だ。その色のせいだろうか、燃え上がる焔を思わせるノルドは、至って静かに唇を開き、最初の音を口にした。
あたりの色が変わった気がした。強い光、きっと見たこともない。
言葉は一言もわからないが、歌が進むにつれマブルングは確かに見た。これは西の地の情景だ。銀の木と金の木と。話に聞いたそれが空間を満たし、つらいほど眩しくかたちを立ち上げる。
胸にせまるそれは確かに美しいのに、息の詰まるような切なさを秘めていた。マブルングは息苦しく喘いだ。ダイロンが手を握ってきた。マブルングの左手を両手で包み、軽く叩く。
銀と金、瞼を閉じても躍るそれにかすかな辛さを覚えたその時、歌は終わった。マブルングはそっと目を開き、離れていった手を追いかけるように隣を見た。
さざなみの広がるような歓声の中でこちらを向いたダイロンの目に、先ほどまで見せていた心あらずの様子はない。その花紺青の瞳はきらきらと輝き、喜色に満ちた顔で、――マブルングはひっと息を飲んだ。
野生児が起きた。起きてしまった。悟ると同時に、麗人ぶりはどこへやら、ダイロンはこどもの顔してぱあっと笑った。
「おれ、あの子と話してくる!」
「待て!!」
立ち上がりかけたのを何とか押しとどめる。引っ張られたダイロンはぷうと頬を膨らませた。
「なんで」
「あちらもいきなり行ったら困るだろうから…」
「だって素晴らしいじゃない? ぜひお話したいじゃない? おれおしごと終わったもん」
「今も仕事の真っ最中だ使者殿!」
マブルングは青ざめて小声で叫んだ。また楽奏が始まる。件の歌い手はまだそこにいるようで、ダイロンはすっかりそちらに心が行っている。うっとりしているのを無理やり座らせて、マブルングは小声で言い聞かせる。
「いいか、今日は使者として来てるんだ。ここはドリアスじゃないし、君はドリアスの代表だ。大人しくしろ」
「話すだけだもん。あっ行っちゃうっ」
まったく耳に入っていない風情でダイロンは遠くを見やり、悲痛な声を上げた。
「おれの感動伝えられないじゃないぃ…待ってぇ」
「ダイロン!」
立ち上がる。マブルングは慌てて手を掴む。しかしダイロンは駆け出すのではなかった。
響いたのは妙なる調べだった。先ほどの歌い手と同じ調べ、続いた演奏を壊すわけではない。しかし寄り添い、耳をそばだたせ、はっとさせて、するりと楽器の音から逃れた。奏者たちが手を止める。その途端、歌はこの地の言葉へ変わった。
喜びに満ちた声だった。春を祝い嬉しく迎える歌が、返答のように美しさを紡ぐ。
生きづく緑の鮮やかさ、飛沫の色、川を降る水の調べ、生え育つものの梢の歌、風わたる草の呟き、満天の星と湖と森のささやき。薄明のたゆたい、影のたわむれ、花開く夜明け。移り行く季節の鮮やかさと厳しさ、冬超えてめぐり来る春の麗しさ。
マブルングは愕然と、陶然とその歌を聞いた。
使者としての役割としては、当然止めなくてはと思った。ダイロンが純粋に見事な歌に返事をしているだけにしても、この状況はまずすぎる。
しかしどう止めたらいいのだ?華やかで心地よい。浮き立つ心を呼び起こす、この伶人の歌を遮れたためしなど一度もないのに。
マブルングはせめてもの抵抗にダイロンの裾を力なく引っ張った。伶人が聞くはずもない。半ばおそるおそる周囲を窺えば、草の芽が春の気配に疼くように沸き立つ観衆を確かに感じた。困り果てて彷徨わせた視線の先、あの歌い手と目が合った。
樺の艶もつ黒髪のノルドは、途方に暮れたマブルングを見て、かすかに微笑んだようだった。
次の瞬間、イヴリンのきらめきに似た澄んだ音が響いた。ダイロンの身体が震えたのをマブルングは感じた。
ふたりの伶人の声が、ベレリアンドの春を歌う。楽音を空に満たし、泉に満たし、地に満ち溢れる流れに変える。
誰もかれもが動きを止めて、息をひそめて歌に酔った。この時が永遠に続けば良いと願った。
最後の一音が溶けたあと、沈黙が広間を満たしていた。マブルングは力の入らない手でふたたび伶人の裾を引き、見上げた。恍惚に震える吐息をダイロンはついた。瞳はとろりとした陶酔に満ちていて――そこまで見てとった時、弾けるような歓声が広間を揺らした。
びくり、と身体を揺らしたダイロンは、ゆっくりと瞬きをひとつして、マブルング、と呼んだ。
「あのう、あの方、何処でしょう…」
マブルングも正気づいて広間を見渡したが、あの黒髪のノルドの伶人の姿はどこにもなかった。
ふわふわとした足取りで宴を辞した伶人は、マブルングの小言もふわふわと聞いていた。あの突発的な合奏からずっと、快楽を鳴らしたと呼ぶに相応しい音楽が頭を満たしていて、現し世のことが遠かったのだ。
ダイロンが醒めたのは実にテイグリンを下って行く帰路の最中のことである。
「おれ、あの子の名前も聞かなかったぁあああ」
突然泣き出した野生児にマブルングは馬首をめぐらし、隣に並ぶとダイロンの馬の鬣をそっと撫ぜた。
「どうしよう、おはなし、お話したかったのにいいいっ」
「君がろくに探さなかったからだろう」
「ばかっ、マブルングのばかああ、おれがトんでるの知ってたくせにいい」
野生児ダイロンがどれだけ泣きわめこうが、周囲に誰もいないこの道中ならば何ら問題はない。少しばかりうるさいだけだ。
ダイロンは半分この世にいない時は麗しの伶人だが、この世に足付けてる時はただの野生児である。どちらが本当というわけでもない。強いて言うなら伶人の作法その他を後から身につけたのだから、やっぱりもとは野生児だろうか。口調がたどたどしくなるのはおそらく、丁寧な言い回しに変えるのに少しばかり時間をとるからなのだろうが、本人はいたって普通に喋っているつもりなのである。
ぐずぐずべそべそと泣きながら恨みつらみを言い募るダイロンを見て、これがばれなくて本当に良かったとマブルングは思った。説明するのが面倒すぎる。何せ本人には何の違和感もないことだし。
「縁があったらまた会えるさ、きっと」
「うわあああああん」
特にあのノルドの伶人には、ダイロンの野生児ぶりはなんだか申し訳ない気がする。
「あの方が良い方で本当によかった…」
メレス・アデアサドのセッションは後々までの語り草となるが、奏でたふたりの伶人の再会は、長い時を数えねばならなかった。