ピクニック

 明日、森に行きましょう。とエレンミーレが言った時、マグロールは即座に挙手しておべんとうは私が!!と叫んだ。とりあえず役目をもぎとっておかねば師匠が何かおそろしいことを言いつけて来そうだと察知したからだ。
 エレンミーレは案外気軽にあ、そうですか、じゃあお願いしますね。と引いたのでマグロールはほっとした。
 ほっとしながらダイロンに好物を訊くと「からく、ない、のが、いいです…」と返って来た。
 エレンミーレに目配せする。ヴァンヤの伶人は力強く頷くと、そそくさと紙とペンを引っ張り出して席に着き、ノルドの伶人はダイロンの手をそっと引いて壇上に登らせた。
 さほどたたないうちにダイロンが唄い出したので、ふたりでめちゃくちゃメモを取った。
 最近の日常風景である。

 森に行きましょう。とエレンミーレに言われた時、あんまり話を聞いていなかったダイロンである。
 昔から周りに「麗人で野生児」と言われてきたが、本人にはっきりした自覚はない。ただ「音楽でトんでる」感じがするのは確かにそうだ。特にこんな、歌と言葉のあふれる場所では、半分くらい常にトんでいる。樹々の葉が光を受けようと隙間なく広がってゆくのにも似た感覚で、思考が拡散している。
 それが嫌なわけでは勿論ないのだけれど。
 今日はトんでない。すごく元気。
 ダイロンはそう思って弾むような足取りで歩いている。
「マグロールちゃん元気ないね、どしたの?」
 何だかとぼとぼ歩いているマグロールに訊くと、おべんとうで、と暗めの声で返された。
「梱包材のこと思い出してしまって…」
「う」
 最後の船に乗る時にちょっとばかりごねたらキアダンにめちゃくちゃ怒られたのは記憶に新しい。そしてその話からついこの間、梱包材でくるまれそうになった…ことをダイロンも思い出して、ぶんぶん頭を振った。
「あとウルモさまかと思って話しかけてたのが正真正銘のおやつで」
「えっ」
「くやしいから今日のおべんとうに入れて貰ったんですけど食べられる気がしません」
 あとで見せてね。ええもちろん。頷き合って、顔を寄せたついでにダイロンはそっと囁く。
「エレンミーレさん、だいじょぶ?」
 マグロールはちらっと前方を見て、ふるふると頭を振った。
「だいじょばない?」
「その――」
「なァにが“大丈夫でない”んです?」
 前を歩いていたエレンミーレが金髪を揺らして立ち止まる。振り返った顔は唇をとんがらせていて、どこからどう見ても「不満」と書いてあった。

 アマンでいちばん不思議な森は、西のさらに奥地にある。
 はじめて行くその森に、一歩踏み込んでマグロールは驚いた。隣でダイロンがわあ、と声を洩らして花紺青の瞳をうっとりと細めた。
「ベレリアンドの…」
 呟くと、まだ少し口をとがらせたエレンミーレが、訊かないでくださいね、なんでこうなってるかは知りません。と早口で言った。
「ここ、オノドリムがいるんです」
「え」
「食いしん坊です」
「ええっ」
 マグロールもかなり気になったその言葉にダイロンはもうすっかり食いついていた。
「えっえっおべんと開ける!?食べる!?」
「もう少し奥の方が良いと思いますね」
「行こう!はやく行こう!」
「逃げませんよ、森も牧人も」
 駆けだすダイロンにゆったりした声を投げるエレンミーレ。ふふ、と少し笑ったのに、マグロールはようやく気づいた。
 これを狙ってました?こっそり問うと、エレンミーレは弟子を見上げて、実に彼らしい少しひねくれた微笑みをくれる。
「……やっぱり森の方が楽しいでしょう」
 そしてダイロンを追いかけて行ってしまったので、マグロールは思ったことを言い忘れる。

 木立の間をはしゃぎ回るダイロンと、道を行くようでわりとふらふら歩いたエレンミーレを追いかけて辿り着いたのは、小川のある空き地だった。半分濡れた岩に頓着せず腰かけたエレンミーレを見て、マグロールは少し溜息をつく。
「けっこうノルドっぽいので忘れてました。お師匠さん、ヴァンヤでしたね」
「ええ、放っとけば地べた暮らしのヴァンヤですが?」
 肩をすくめたマグロールの背中に飛びつくようにして、ダイロンが顔を出す。
「そうなの?」
「そうなんです。館だってルーミルが勝手に貢いで来たんです」
 ルーミル曰く「エレンミーレ行っちゃやだ行かないで一緒にいようよ二つの木の光が見たいんだったらここでいいじゃんここに住もうよほらここなら 二つの木もエレアリーナもティリオンも見えるよアマン一望だよ!!」と縋りついて泣き落とした、そうなので間違ってはいないのだろうが、それでほいほい貢がれたのだから実のところ満更でもなかったのだろう。
 伝承家と伶人がともに主となった館は、氏族を問わない一大社交場になった。数々の記憶と記録、歌と言葉が満ち溢れている。
 おべんとうにしましょう、とエレンミーレは宣言し、ダイロンが歓声を上げた。

 おべんとうは美味しかった。巻くものも包むものもなくて、何故かどれもこれも小さな串で刺すものだった。ダイロンはマグロールが鬼気迫る勢いでぶすぶすぶすと刺しまくって「はい、どうぞ」と微笑んだのを怖々とみた。
 エレンミーレはごきげんに函琴を取り出し、つま弾いている。箱のかたちをしているから函琴とはよく言ったもので、ちいさな箱の共鳴胴の両端には小物を入れられる。そこに琴爪を入れているだろうにエレンミーレは嵌めもせず、指で撫でるようにゆよんゆやんと丸く揺らす音を奏でている。
 小川の流れは絶えず、時おり吹くそよ風が梢を響かせて合唱する。その波打つ音楽に函琴の音が絡む。
 目を開いてはいるが見ていない心地でダイロンは小川の向こうを見ていた。と、梢を響かせる樹々のひとつと、ぱちり、眼が、合った。
 あわい、すみれ色の。
「……眼、が、」
 声に出しただろうか、マグロールがすいと寄って同じ方を見た。
 しゃりん、しゃらん。森では聞かない音が響く。硬くすきとおったもののふれ合うような音。ダイロンはぎゅっと目をつぶり、も一度開いて向こう岸をよく見ようとした。
 ぱらん。
 風のそよぎの音から一転して、目を覚ますような和音が響く。隣でマグロールが頭をめぐらす。
 …………そよ吹く風に花は溢れ咲き………
 耳を打ったのは硬質な澄みきった声だった。
 …………艶めくみどりの垣は炎熱を降す…………
 古い古い、暗い湖辺を思い出す言葉でうたう、その宝玉の響きがヴァンヤの伶人のものだと、ダイロンは染みるように分かった。そして、今までエレンミーレの歌を聴いたことがなかった事実に驚いた。
 ふと吹いた風が、すべてを舞いあげる。歌も旋律も熱を帯びて華やぐ。
 …………欒い踊れ麗しの花 樹々の護り手よ…………
 見える先、向こう岸ではすみれ色の目をした樹がしゃらしゃらと宝玉の葉を揺らし、岸辺のこちらでは宝玉の歌が。そこに、黄金の輝きが降り注ぐ。
 …………泉の美の山より湧きて海へ流るる…………
 …………集え護り手 風の戯れを笑み揺らせ…………
 ダイロンはひゅっと息を飲んだ。詩の絡み合う旋律、エントのそよぎ、二色の伶人の声。
 …………織り奏でるは鳥の唄 木々の蕾…………
 うっとりと息をついて、ダイロンは最後の一節に声を乗せた。
 …………木陰の面影 誇らしき慈愛の詩…………

 アマンでいちばん不思議な森に行きましょう。とエレンミーレが言ったのには理由があった。
「野生児に自然が足りないんじゃあないかと思うんですよ」
 きっぱりはっきり言い切ったエレンミーレに、ルーミルはぽかんと口を開けた。
「だから森でも行こうかと」
「はー」
「なんですその反応」
「皆でおべんと食べたいだけかと思ってた」
 素直に言ったらエレンミーレはぷくぷく頬をふくらませていたので、ルーミルはそっちの理由の方が大きいに違いないと思った。楽しいことしたい。 良いことだ。
「………だって分析してたら、」
 ふくれたままぼそぼそ喋り出すので、珍しいこともあるものだと思った。
「精彩を欠いてるとか、あんまりよく知らないのに言うのもあれなんですけど、なんか最近のは…」
 ルーミルは黙ってエレンミーレの頭をよしよし撫でた。彼が帰って来た弟子と噂だけひたすら聞きまくっていた後輩に会えてどれだけ喜んでいたかはよく知っている。
 そしてエレンミーレはとかく理性的に音楽に触れたがる。音に分けて、楽につむぎ直して。分析という言葉がよく似合う。
 そうじゃないなんて、なんて羨ましいと溜息の夜を重ねていたのも知っている。弟子にひとつの曲を紐解きながら、何より心のままにうたうように、と教えているのも見た。
 彼は確かに伶人であるけれども、楽人の喜びをたいそう尊んでいる。
「きっとうまくいくよ」
 うまくって、私のひとり合点な気も、まだぼそぼそ言っていたのでとりあえずぎゅっとしておいた。

 宝玉のエントがしゃらりしゃらり、懐かしい香りのする木々に紛れて去っていくのを見送って、最初に息をついたのは誰だろうか。
 エレンミーレはふわりと頭を廻らせて、辺りに満ちるとろけるような暮れ方の気配に気づいた。
 そんなに唄っていたとは思えないのに。瞬いたエレンミーレの目の前で、何だか無性にやさしい眼差しでマグロールが微笑んだ。
「……なんです」
「お師匠さんの歌、久しぶりに聞きました」
「え?」
「初めて聞いた!」
 腕を引かれ、向いた先で鮮やかな花紺青の瞳が笑う。
「え、………?」
 詩は聞いたけど!吟ってますものねえ。ダイロンとマグロールが右から左から続けるのにエレンミーレは面食らう。唄って。いなかっただろうか。時満ちてこのふたりと巡りあってから?
「おれずっと気になってたんだけどあの歌エレンミーレさんのだったんだね」
「あの歌?」
「ルーミルさんはしょっちゅう唄ってますけどね。お師匠さんの前では唄ってませんね」
「ルーミル……」
 何故ここにルーミルが出てくる。長い付き合いの共同管理人(なんてお堅い言い方なんだと四方から文句を言われる)の呑気な顔を思い浮かべて、エレンミーレは首をひねる。と同時にはじめの歌を思い出す。あまりに心地よくて続けてしまったけれど、そういえば、あの歌を聞かせたことなどなかった筈で。
「えっ…、あなたたち詞は…」
 マグロールが悪戯っ子の笑みで答えた。
「ええ、だから。ルーミルさんが唄ってます」
 はくりと口を開けたエレンミーレにじゃれつきながら、ダイロンがねえも少しみんなで唄おう!と弾んだ声で奏で始めた。

 ルーミルは階に腰かけて伶人たちの帰りを待っている。あの森はけっこう遠いから、もしかしたら今日は帰ってこないかもしれない。
 エントには会えたかな、どうだろうか。はるかな記憶を香らせるあの森で、どんな歌を紡いだだろう。
 遠く遠く、平原を見晴るかす階の上でルーミルは記憶をたどる。月は遠く、星は降り出さんばかりで。その耳に、ひゅるり、甘い調べが届く。
 声が、好きで。よくうたう歌が好きで。覚えたくて覚えられなくて。そんな記憶――思い出が、ゆるりと夜に谺する。
 妙なる調べを星空に満たす伶人たちは、ほどなく館に着くだろう。
 エレンミーレの気は晴れたかな。ルーミルは愛しいふくれ面を思い描いて夜に笑みを溶かす。
 土産話はきっと果てしない。聞いて、そして今度は一緒に行こう。アマンで一番不思議な森へ。歌と言葉が手を繋いで。
 ルーミルはちいさな声で唄い出す。今度また一緒に唄いたいな。そんなことを思っている。

 帰ってきたエレンミーレは開口一番「ひとつ歌覚えるのに何百世紀かけてるんだこのボケノルド!」と叫んだ。叫ばれたルーミルはにこにこしていたし、エレンミーレの耳が真っ赤なのを見て、ダイロンとマグロールは痴話喧嘩だと囁き交わした。
 その後しばらく館で恋歌の披露が流行ったとか、伶人と学者は連れ立って森に行ったとか――そういうことは、残念ながら記録には、残されていない。