まだ、ケレゴルムが幼く、世界の諸力と近く親しく過ごしていた時。
その頃はケレゴルムは日がないちにち森の主たるヴァラのあとをくっついて回るのが常だったし、そんな幼子の歩みをはらはらと仔犬が見守り寄り添うのもよく見る光景だった。
先を行くヴァラ、オロメは、幼子の歩みがもつれると見るや否や、すぐに何かと理由をつけて強い腕にケレゴルムを抱き上げる。すると仔犬はあるじの安全を確かめて、うろうろせずしゃんとする。
そうなるとケレゴルムは、とにかく喋りだす。
見たものと聞いたものを、わからない感じを、わかって言葉にすることを、まぜこぜに心の赴くままに、ヴァラに、話す。
オロメはその声を、その話を、世界の重要な秘密のように重々しく聞いている。
ケレゴルムが少し、物の道理や世界の仕組みだとかをわかるようになった頃、オロメと長い長い話をした。
あまりに長く、そしてある意味で激しい話であったので、ケレゴルムはすっかり翻弄されて、きっとオロメの伝えたいことの欠片ほどもわかってはいないのだ。
ただ、忘れられないこともある。
ヴァラールの姿はエルダールの形を真似て作ったものだという。
「ほんとうは、オロメさまはオロメさまじゃないのですか!」
半ばはしゃいで叫んだケレゴルムに、オロメはゆったりと笑んだ。
「さて、では本当の私とは何であろうな?」
そしてケレゴルムとまっすぐ向かい合うと、瞳を覗いた。
ケレゴルムはその時に、うたを見たのだ。
そう思っている。そうだと知っている。
うたは、歌のようでありそうでない。音楽ではあるが、聞いただけではすまされぬ。
ヴァラールの本質は、自分達に例えて言うならば声なのだろう。
歌を唄う声、話を語る声だ。
声は音楽を紡ぎ、世界を目に見て、姿を結んだ。
ケレゴルムはオロメの声を思い出せない。覚えてなどいなかったのかもしれない。
覚えてなどいなかったのだろう。
最後に何が残るだろう。
雷のくすぶるような匂いは薄れ、森の包む気配だけがある。
目はもうだいぶ霞んでいる。抱いていた温みはとうに重く、すぐに冷えていく。
冷えているのだろうか。温度はすでに遠い気もする。
声は。出るだろうか。
ケレゴルムは溜息にまぎれて歌う。
遠い思い出のように聞こえる。
なんて遠い。なんて遠いところに来たんだろう。もう戻れない。
ヴァラの名を、声の響きを、すなわち彼である旋律を歌っている。
あのひとの声を忘れたくはない。
けれど、もう、ケレゴルムにはそのうたが見えない。
歌はうつろうように響き、ケレゴルムは目を閉じる。
声の名残がさいごの吐息になった。
見たものも、聞いたものも、そこには誰も、いなかった。