恋の架空

 上の息子のフィンゴンのことを思う時、アナイレがいつも思い出すのは“大改革”のことである。フィンゴンは服など着ていればよいと思っているかのような身なりの構わなさぶりで、あまりに無頓着で、手当たり次第に着ているのではないかと思えることが頻繁にあった。
 ついにある日、アナイレは行動に出た。突然フィンゴンの部屋に押し入り(むしろ討ち入り)、衣装箪笥(とはいっても箪笥ではなく部屋だったのだが)の中身を徹底的に大改革して、手当たり次第に着たとしても何とかサマになるような服しか残さなかったのだ。
 アナイレは息子の色彩感覚も信用していなかったので、勢い、どんな組み合わせをしてもどうにかなるような地味な色ばかりになってしまった。幸いにして、と言うべきか、フィンゴンは性格も振る舞いも賑やかだったので、服の地味さは目立たないと言えば目立たなかった。
 アナイレがこんな手段に出たのも、何度細々としつこく注意してもフィンゴンの耳にも入らず、頭にも落ち着かなかったからである。アナイレの美意識からすればせっかく素材はいいのだから、構わなさ過ぎるのはもはや罪だった。稀に、構わずとも存在自体がサマになる者もいるが(実に身近にその例がいる。義兄と義父である。義兄に関しては誰に言ってもその意見は反対されない。一方義父にその評価を下すと、不可思議そうな表情をする者もいる)、それにしても場に合わせた服装というものは、他者に与える印象などの礼儀として必要なものである。アナイレは散々そう言ったのだが、フィンゴンはさっぱり聞く耳もたなかった。
 あとは恋のひとつでもすると良いのだわ。
 “大改革”を終えてアナイレは思った。宴や式典の時には問答無用で掴まえて着飾らせるが、普段の洒落っ気を起こさせるものは、何といっても、恋である。好きな相手によっては少しは飾ることに興味が向くかもしれないし、今だって、恋というわけではないけれども、完全に身内というほどの気安さも侮りもなく、敬意を寄せているエイセルロスの言うことならば、比較的素直に聞く傾向にあるのだ。
 (センスのいいひとに恋をしたら化けるかもしれないわ。どうかそうなって頂戴)
 アナイレはかなり本気で願った。

 衣服の“大改革”を終えた今、どうしても本人に意識を改めてもらわないとどうにもならないものがある。
 髪である。
 フィンゴンの髪は無闇やたらに美しい。深い蒼みのある黒で、柔らかく艶やか。アナイレの母も含め、クウィヴィエーネンで生まれた者たちは揃ってフィンゴンの髪をこう称す。“ヘルルインの空”と。その言葉にどんな意味があるのかはアナイレは知らない。それは目覚めの湖を知る者の追憶のひとつであるだろうから、聞くことも憚られて、知らないままでいる。

 エルダールはほとんど長い髪をしている。長さもある程度自分で決めていて、突然切ってしまったりすることは滅多にない。短い髪の者もいるが、それでも肩まではあるし、何といっても編めないほどに短い髪の者はいない。何にでも例外はあるものだが、エルダールは皆、髪を編む。流行りもあるし、伝統的意味のある編み方もある。クウィヴィエーネン生まれの者は総じて髪を飾らない傾向にあるが、それにしても一筋も編まない者はいない。
 ……フィンゴンは、編むというより結んでいる。結うにしても結い方ひとつで如何様にもなるものを、纏めているというか、束ねただけというか、なんとも殺風景な髪だとしか言い様がない。髪そのものが異様なまでに美しいだけに、放ったらかされている様を見ると、アナイレはふつふつと哀れみの気持ちが湧いてくるのを感じる。せっかくの素材を何とかしないでどうするのだ。

 それが、ある日のことだった。

 アナイレは顔を合わせた息子の姿が信じられず、目を何度も何度もまたたいた。隣の夫はちっとも驚いた様子ではなく、やれやれと言いたげな目で微笑んでいた。
「おかえり、母上、父上」
 フィンゴンは窓辺から満面の笑顔で振り返って、明るく言った。外は銀の光が満ちあふれていて、そんな中、息子の髪を飾るものはよく目立った。蒼みがかった深い黒髪に編みこまれた、細い、不思議な淡い金色の…あれは紐、だろうか。 
「編んでもらったのか」
「これはそうだけど、編み方も習ってきたよ。ちゃんと」
「そうか。良かったな」
「うん!」
 父子のやりとりを見ながらアナイレは深く、深く笑んだ。ああ、息子は恋をしたのだわ。
 紐も編み方も誰か別のひとのもの。けれど息子の髪を飾る時、それはどんなに容易くフィンゴンのものになっているだろう?
「ねえ母上、どう?」
 紫がかった灰色の瞳をきらめかせて尋ねてくる息子に、アナイレは言葉を捜した。
「……見事だわ」
 ようやく出たのはそんな言葉で、フィンゴンは口をとがらせ、次いで、イタズラをするように微笑った。
「母上、母上は服を選ぶの上手いけど、母上の気持ちは言葉を着るのが下手なんだね」

 以来、フィンゴンは黒髪に金の輝きを編みこんでいる。紐の素材はわからなかったが、その色は確かに見たことがあった。アナイレは息子の初恋をはかりかねていた。あたくしの初恋は、フィンゴルフィンよね、と彼女自身は思う。頭の中のぼんやりしたものを言葉に押し込める。はつこい。ああ、この言葉を着るのはこんなもやもやと曖昧な感情ではないはずなのに。

 アナイレは感情を言葉に表すのは得意ではない。言い表そうとすればするほど、その感情がまとうべき言葉ばかりが、するするとアナイレの目から隠されて、現れるのはあからさまに可笑しな格好をしたものばかり。身の丈に合っていなかったりその場に合っていなかったり。これがせめて纏った言葉がきらびやかすぎるのだったり簡素すぎたりならばまだ感情がわかりやすいのに、アナイレの感情がたいてい、飾る飾らないの問題ではなく、そぐわない言葉を纏ってくるのだ。フィンゴンが指摘したように。

 はつこい。あの色は、どこで見たのだったか。

 宴にゆくのでフィンゴンの髪を結ってやっている時にそれは知れた。細く、とてつもなく柔らかい紐は、きつく編まれたエルフの髪だった。ぱあ、と目の前に光がはじけたような感覚に襲われる。
「――誰のを、頂いたのかしら」
 答えなど当たり前のようにわかっていて、それでも口から出たのはそんな言葉だった。すぐに返ってきた答えは紛れなく予想通りのもので、確かにあのひとならば惜しみなく与えてくれたでしょうけれど、などと思っていると、フィンゴンはなかなかくれなくて大変だった、と呟いたのだった。アナイレは、こんどはくらりと目の前が揺れるのを感じたが、彼の人とこの紐の素材を考えて、さもありなんと納得した。
「父上もお願いしてくれたんだ。髪だなんて、知らなかったけど――…」
「かまわなかったのね」
 アナイレは薄く笑んだ。彼の人のものであれば、身につけるのに躊躇することはない。結局、ノルド王家は皆彼の人を慕っているのだ。
「だって、一番近い色だから」
 アナイレは目を見開いた。――ああ。
「おまえ、本当にあたくしに似たのね」
 ふと言葉を唇からすべりおとすと、フィンゴンはふふ、と笑って言った。
「おじいさまは、ひいおばあさまに似てると言うよ」
「……そう」
 
 その後の宴で、アナイレは、赤毛の甥に会った。
 彼は息子たちよりも自分たちの方に年が近い。アナイレは彼の父、つまりはアナイレの義兄にあたる、かのあまりに鮮やかなエルダールが嫌いではなかったし、彼の母は大好きだったし、……実際、彼自身をとても好いていた。
「フィンゴンがそちらにお邪魔しているのかしら…」
 息子のことばかり考えていたから、ほろりと出た話題はやはりそんなことになった。
「ええ、まあ、たびたび…」
「迷惑だったら遠慮なさらずに蹴りだしてやって頂戴」
 それとも義兄上がもうおやりかしら、と首をかしげるアナイレに、マエズロスは困ったような微笑を浮かべた。その表情はなぜかひどく、アナイレの苦手な義父にそっくりだった。
「すでに何度か。…弟たちが、ですが」
「まあ。筋金入りの諦めの悪さだわ」
 甥はふと目を大きくみはり、それからゆったりと笑って、眼下の庭に視線を転じた。
「……叔母上」
「なぁに?」
「あの――」
 目線の先を見やれば、数刻前にアナイレが飾りあげた上の息子が、それだけは宴でも普段でも変わらない、件の紐をゆらゆらと揺らせながら歩いて行くのが見えた。
「今日の髪は、貴女が結われたのですか」
「そうよ」
 そのまま黙ってしまおうとする甥に、アナイレは尋ね返した。
「…以前の髪は、あなたが結われたのかしら?」
「ええ」
 するりと肯定し、マエズロスは続けて呟く。
「あの紐…」
「彼の――髪ね」
 アナイレの言葉を聞いて、マエズロスは子どものように口をとがらせた。そのまま今度こそ黙ってしまったもので、アナイレはつい、言ってしまった。
「ずるい?」
 ああ、あたくしの気持ちはまた言葉を間違えたかしら。
 口を押さえたアナイレの耳に、静かな声が聞こえた。
「ずるい。フィンゴンがうらやましい」
 マエズロスはこちらを向こうとしない。いっそとろけてしまいそうな声音と表情で、彼はさらに言葉をつらねる。
「私をおいて、あのひとにおねだりするとは図々しい」
「そうね」
「怖いもの知らずで、傲慢で、莫迦で」
「そうね」
「私のことなんて、これっぽっちも考えてくれない」
「そうね」
 マエズロスはいきなりこちらを向いた。眉間に皺が寄っている。
「叔母上、そろそろ怒ってください」
「イヤよ。…どうしてあたくしが、フィンゴンのためにあなたを怒らなきゃいけないの」
 眉間の皺はいっそう深くなった。拗ねた声で彼は言った。
「こんなにワルグチを言っているのに」
 アナイレは近づいて、相手の手をとった。
「ねえ、でも、怒ってほしいのはあたくしにじゃないでしょう?」
 見上げた顔はとてもしょげていて、それが、ふと、痛みと何かの期待をこめたものに変わるのを、アナイレはただ見ていた。
「でも、私はフェアノールの息子で、どんなに年が近くても、貴女方と同じ所には立てない」
 アナイレはマエズロスを見ていた。彼の周りには闇の色をした沈黙がある。それはいつの間にやら現れて、今やすっかり彼を取り囲んでいる。もうずっと、昔から。その沈黙から、紅の髪と淡い鋼色の瞳を持つ男がアナイレに言う。
「なのにコドモは何にも知らない」
「もう少し、待つことね」
「……私に、待てるか、どうか」
「あの子は」
 アナイレはきっぱりと言った。
「すぐ、あなたに追いつくわ」
 恋をしているから。後半は言葉を纏うことはなかった。マエズロスはひどく穏やかな目でアナイレを見ていた。
「――あの子があの紐を欲しがったのは、彼の髪だから、じゃあないのよ。あの色は」
 そう、あの子にとっては何よりも先に。あたくしたちとは違って。
「あなたの目の色だわ」
 マエズロスはくっ、と笑った。
「あのひとの髪を私なんかと被らせるなんて!」
 アナイレは黙っていた。恋とは、初恋とはそういうものだったから。