船出に寄す

 ――わたくしはこの島にあるすべての木が好きなのです。
 妻の声を、覚えているかは、アルダリオンにはわからなくなってしまった。言葉は覚えていても。最後に声を聴いたのはいつだったろうか。もう世紀を2つ数えたのではなかったか。
 それほどの時が過ぎても変わらぬ土地がアルダリオンを出迎えた。
 記憶の通りに広大な丘は緑の芝生を連ね、牧草のそよぎと羊の鳴き声が、打ち寄せるようなのだった。
 丘の上の白い家が、閉ざされた壁をさらしているのを見上げて、アルダリオンはしばし立ち止まった。羊の海のようだと思う視線の先では、丘の腹に、光を弾く雲のごとき群れのおおきな塊が動いていた。
 存外に心は静かだった。これならばアンドゥーニエの方へ行った方が良かったのかもしれなかった。
 馬を降り歩んできた、その方角へ振り返り、午後遅くの陽射しにアルダリオンは眼を眇めた。
 強い光に今さら気づいた心地でいた。
「あなたの好きな樹を、」
 遠い思い出を辿るようにアルダリオンの唇は言葉を紡いだ。
「どれでも良いから言ってみなさい。それは伐らずにおくから…」
 草地に陰を落として遠くに埋んだ木々でさえ、その時の木は1本も残っていないのだ。
 おそらくこの地のすべての木を伐り、すべての木を植えたのはアルダリオンだった。
 ――このヨーザーヤンを愛してはいないのですか?
 記憶の声には答えず、アルダリオンはもう一度振り返る。金色にいちめん染まりつつある丘は草の揺れるばかりで、木々は見えない。
 ヨーザーヤン、妻と離れた同じだけの時間を統治したこの故郷を、愛していないわけではない。
 船出の度に恋しく思いもした。
 けれどその時に思い出すのは、波の寄せる岸辺と港の光景で、おそらく妻の望んだような木々の豊かな情景ではなかった。
 帰る港に願う人影が、いつも叶えられなかったように。
「もちろん愛している」
 遅れるようにアルダリオンは呟く。
 この丘を埋め尽くす木々を夢想する。
 夢想の木はただのひとつも見たことのない木々だった。ヨーザーヤンに生える木々のすべてをアルダリオンは知っているのに。遠い海を越えて中つ国に、今も生い茂る木々すらも、知っているのに。
 この地にはどんな木々も似合わない気がした。美しくないのだ。
 生えている木を美しいと思ったことは1度しかなかった。
 娘と同じ名で呼んだあの白い木は、望んだとおりにのびやかに育ったが、はたしてあの木をエレンディスが見ることはあっただろうか?

 遠つ祖の言葉では、人の子の最期は暗い彼方の大海へ、ひとりきり船出するのだという。
 いったいどんな船でいくのと、訊いたアルダリオンは奇異の目で見られたが、エルフの船を知った後も、アルダリオンの夢想は消えずにつのるばかりだった。
 どんな木で、どんな肋材を? 櫂は? 帆はあるのだろうか? そして暗い海へ、ひたむきに進むのだろうか?
 人の子の最期に船出するその岸辺を楽しみにすらしている。
 その船出を。
 その船出に、よもやエレンディスは。

 アルダリオンはまるで木々の1本のように佇んでいる。暮れなずむエメリエの丘で、いつまでも。