あなたに星をおくる/星送

 星は降るように空いちめんに撒かれ、波は静かに光を照り返している。
 遠ざかる島の影が、灯火を飲んでぼんやりとしたひとつの塊になるのを眺めている。
 こんなにはやいとは思わなかった。エルロンドはもう一度噛みしめるように思う。はやい。――早すぎる。そう思ってしまう。
 片割れがいなくなることに対しては覚悟が出来ていた筈だった。とうの昔に分かっていた。そして実際、その別れを正しく受け入れた。けれどそう、エルロンドはわかっていなかったのだ。片割れとの別れを知っていても、こどもたちとは。
 あの歓呼の声を聞いたのは、本当につい先ごろのことだと――思っていたのに。

 ヌーメノールの賢明な民よ、と彼は言った。静まった民衆は、続いた言葉にうねるように揺れた。わたしは年寄なのだ。と彼は言った。
「わたしは父のように長くは生きない」
 そして彼は、甥は、王として即位するはずのヴァルダミアは、たった今片割れの腕から引き取った王笏を掲げたまま、呼んだのだ。アマンディル。ここへ。
 エルロンドの横で甥の長子はびくりと震えた。まるで幼子のつたない歩み、蒼白な顔。けれどヴァルダミアは力ない足取りの息子を傲然と輝く銀の瞳で促した。
「生得の権利と選択の義務により、我エルロスの長子ヴァルダミアは、世継アマンディルに王笏を譲り、王タル=アマンディルとなす。御世に栄えあれ!」
 澄み切った声での宣言だった。民衆のざわめきは、破裂するような声に変わった。歓呼の叫び。
 エルロンドは眼の前が白くなる気持ちでいた。傍らのギル=ガラドが、そっと背を撫でてくれた。

 長くは生きないと言ったのだった、ヴァルダミアは。中つ国に帰ってからもそれが思い出されてならず、落ち着かない気持ちで日々を過ごした。するとどうだ、一年経つか経たないかで贈り物の地から呼び出しが来た。エルロンドは驚くばかりの早さで島へ渡った。ヴァルダミアはまるで最後に会った時のエルロスと同じ目をして、そうすぐに死んだりはしません、と笑った。
 ヴァルダミアにはせっかくいらっしゃったのだからと話をせがまれた。エルロスの長子である甥は、ノーリモンと異名のつくほどの『伝承狂い』で、歌や伝承を熱心に集めていた。幼い頃からそんなふうで、エルロンドとは一番気の合う甥だった。
 エルロンドは最初の別れの話をした。
 両親とのことではなかった。養い親たちの話だ。
 話をして――それからエルロンドはまた中つ国へ戻り――今回は。
 王に教えられた。二十九年でした。
「短いと思われますか。それとも、存外に長いと?」
 父を亡くした王は民たちよりも遥かに長くを生きる。それでも確かに死を知る人の子として、永遠を生きる大伯父に言ったのだ。
「百年先を見るお役目だと言われました。だから父は、王位についてはくれなかった」
 ヴァルダミアは王ではないから、その葬儀は即位式にはならない。人の子の感覚ではとうの昔に王になったアマンディルは、これからの百年を見据えて生きていく。エルロンドは、百年は瞬きの間に過ぎるのではないかと思う。
 良く知った甥が死に、堂々たる王のこの甥の息子が死に、そして――?
「………貴方がこの島にいらっしゃることはもう、無いと思います」
 エルロンドはそんなことはないと返せなかった。それこそが、王の言葉が正しいと証明していた。甥の息子は微笑んで、その方が良いのです。と言った。
「今のままでは私たちは、あなたに甘えきりになるでしょう」

 エルロンドは溜息をついて、船室へ戻るべく踵を返す。
 船は中つ国へ向かっている。島の者の持たない船だ。王の言葉が耳に蘇る。
「私たちが、自らこの島を出てあなたを訪ねることが出来たなら、その時はどうか迎えてください」
 そして王は、エルロンドに『王者の贈り物』を渡したのだった。手紙と一冊の本…
 エルロンドは手紙と本を眺めた。本は灰色の表紙で、エアレンディルの紋章が銀の箔で彩られていた。留め金がついており、ずっしりと重いその本の前に、エルロンドは手紙を読むことにした。
 表書きにはこう書いてあった。

 ノルドール王家の末裔たるエアレンディルの息子エルロンド殿

 封蝋は斧とペンの意匠だ。差出人は容易に知れたが、重々しい宛名にすこし違和感を感じた。エルロンドは封を解くと、几帳面に書かれた細かい字に目を走らせ始めた。

  *

 親愛なる伯父上

 エルロスの息子ヴァルダミア、記す

 明け方に雨が上がりました。風が浮き立つ香りを運んで来ます。春なのです。わたしは間もなく旅立つでしょう。その時が近いのを感じています。
 この手紙を書いてしまわねばなりません。
 とはいえ、何故今更わたしから伯父上に手紙なのか、不思議に思っていらっしゃることと思います。どうしても伝えねばならぬことがあってこれを記し始めたのですが、どこから始めたら良いのか決めかねています。
 伯父上は覚えていらっしゃいますか。王の間から続く秘密の通路と部屋をご案内した時のことを。
 わたしは「使われていた形跡がある」と言いました。そしてそこにいた「彼はいってしまった」と。
 使われていたのです。
 わたしは知っていました。
 その部屋にいた「彼」のことをお話せねばなりません。

 これから話すことは、伯父上には納得のいかないこともあるかと思います。わたしとしても、すべてを知っているわけではありません。ただ済んだ後に、色々と考え合わせ、記録を辿っておそらくこうであったのだろうというひとつの流れを作ってみたのです。
 あの部屋は王の間から隠し通路で降りに降って、ちょうど王宮の三階層分を降ります。その階層、あの部屋ではないところに何があるか覚えていらっしゃいますか。そう、書庫があります。わたしの書庫、わたしの巣と呼んでも差し支えはないでしょう。初めから書庫だったわけではありません。少なくともわたしが少年の日々に王宮を探検して駆け回った頃、そこはがらんとした部屋の数々と、用途のわからない物の積まれた場所、つまり、使われていませんでした。わたしが伝承を集め始めてから、父上がそこを書庫にしろと言いました。きっと私室に紙を溢れさせたのが原因でしょう。
 あの階層には少し不思議な仕掛けがあります。窓はないのですが、光はあります。直接の光ではなく、光を利用した反射の仕組み…とでも言えば良いのでしょうか。昼間は太陽の光を受けて、部屋の中で一定の光の強さと明るさが保たれるのです。夜は月の光を。それは壁のところどころに埋め込まれた違う石が光るのですが、わたしの書庫は、西側の壁だけが光りませんでした。書庫で物を書くには自分の都合で左右できる光が必要です。わたしは唯一光らない西側の壁側に机を置いて、作業の場としていました。思えばそれがきっかけだったのです。
 いつのことか、記録にあります。第二紀、百四十七年。母上が亡くなって三年後のことでした。
 歌が、聞こえたのです。
 幻を聴いたのかと思いました。
 歌詞は遠く、またあまりに深く響いていたので、わたしはそれを言葉だとはすぐに分からないほどでした。曲と詞が一体の音楽となって、不意に心に忍び入って来たのだと思いました。その歌が途切れて、初めてわたしはそれが歌だと悟りました。息を飲んで待ちましたが、その日その歌がもう一度聞こえてくることはありませんでした。聞こえなかったのはその日ばかりではありません。ひと月、ふた月、わたしは書庫で時折息を詰め、動きを止めてじっと音に耳を澄ましてみましたが、聞こえるのはただ静寂ばかりでした。
 半年ほど経った頃でしょうか、書庫に行くつもりはなかったある日、不意に時間が空いて、わたしはひとりになりに書庫へ降りました。もう夕暮れで、わたしは明かりを持っていませんでした。そうなると書庫は、残照が消え、月の輝くまでの間、えも言われぬ薄闇に沈むのです。もちろんそんな光の下では何も読めません。ただわたしはそんな薄闇の中、量もかなり増えて来た紙と皮と、インクの匂いを感じながらそこにいるのが好きだったのです。そういう気分でした。
 歌が聞こえました。わたしは薄闇の中で身を震わせました。幻ではなかった。確かに聞こえたのです。わたしは息を潜めて西の壁に近寄りました。確かに、歌はそちらから聞こえてくるのです。けれど壁に寄れば寄るほど音はまるで石に広がるように溶け、わたしはすぐにどこから聞こえてくるのか分からなくなりました。
 わたしは西の壁から離れ、棚の間に佇んで、目を凝らすように耳を澄ましました。
 始まった時と同じように、不意に歌は途切れました。わたしは月の光でほの明るくなっていく書庫で、考えに沈んでいました。これはどこから聞こえるのか? 誰が歌っているのか? その謎を突き止めたいと同時に、奥底から湧き上がるような思いがありました。
 歌を残す手段を考えなくてはならない。
 伯父上も知ってのとおり、わたしに音楽の才能は、その、とてもあるとは申せません。笛でなら吹けないこともないですが、なんとか旋律をたどれるといったもので、聞かせるものではありません…。今だから言えますが、結局まともに覚えられた曲はひとつだけでした。それもわたしひとりで成し遂げたことではないのです。
 話が逸れるので詳細は省きますが、書庫で初めて歌を聞いてから三年、わたしは伝承を集めるよりも歌を聞き、それをどう形にして残すかに没頭していました。エルフの方々は歌を忘れることはないでしょう。何度か聞けばそのまま残せるものであると思います。伝承も、そういうところはあります。けれど人の子は忘れてしまうのです。または長い時間の過ぎ去った後に、わたしから遠い先の誰かに、その歌を伝えようと思ったならば、形にして残せるものでなければならないのです。不完全ではあるでしょうが。
 わたしは伝承がどのように変わっていくかを知っています。父上の治世の間に、この島に住む者たちの世代は十を超えたのですよ。渡って来た時そのままの伝承を語るところは少ないのです。同じ話であるとかろうじて分かるもの。最早違う伝承であると定義した方が良いもの。時と共に言葉が移ろうように、我らの営みは伯父上たちよりも早く、儚く、遠くへいってしまうものなのです。
 歌を目に見える形に残すことを考えながら、わたしは書庫の西の壁の向こうのことを探っていました。
 階層の広さと書庫の大きさを鑑みて、西の壁の向こうに部屋か――少なくとも空間があることは分かっていました。そして歌が聞こえるということは人がいるということです。二度聞いた歌は同じ歌い手のものでした。例えば、王宮の通路だとか、思いも寄らぬ場所に立つとここまで声が響くだとか、そういうものなら良いのです。けれど幼い頃駆け回ったよりももっと真剣にわたしが隅々まで歩いてみても、あるべき空間へ辿り着く手段はありませんでした。
 ならばその空間は隠されているのです。王宮を築いたのはもちろん父上ですから――そして父上以外の建設当時を知る者は皆、現世にはいないのですから――わたしは父上に聞けばよかったのです。けれど何か、予感がありました。おいそれと触れてはならないような、そういうものです。わたしは、書庫の西の壁をじっくりと調べました。書庫から例えばその空間に繋がる何かがあれば、ここはわたしの巣なのですから、自分にそう言い訳も立とうものです。
 これに関しては結論から申し上げましょう。石がひとつ外れました。わたしはその空間の――「部屋」の音を聞けるようになりました。
 とはいえ、向こうの音が聞けるということは、こちらの音も向こうに聞こえるということに他なりません。初めて石を外した時、「部屋」からは何も聞こえませんでした。わたしは確かに向こう側に「部屋」があることに驚きつつ、あの歌は本当はここから聞こえていたものではないのではないか、とも思いました。
 その考えはすぐに覆されることになりました。石が外せるようになってから数日後の午後、歌を…聞いたのです。
 午後の陽だまりに似た音でした。まさにそんな光が書庫には満ち溢れていました。わたしは震える息をこらえながら、そっと石を引き抜きました。踊る金の幻影が視界に広がりました。書庫に満ちる光がその色であるからだけではありません。正しくそれは黄金の声でした。
 歌が止み、余韻が消えていく中、だんだんと夕暮れの気配が濃くなっていく中、わたしはそのまま、座り込んでいました。

 そうやって、遮るものなく歌を聴けるようになって暫くのことです。わたしは歌が聞こえてくると石を外し、歌が止んでもう「彼」が歌わないようだと感じれば石を戻していたのですが、ある日はほとんど一日中、歌が聞こえていました。その多彩なことと言ったら、わたしの拙い言葉でとうてい表現できるとは思えません。穏やかなたゆたいのようなのもあれば、軽やかに弾むようなのもありました。ただ一点、どんな歌にも拭いきれない悲哀のようなものが流れていました。それは「彼」の声がいかに輝かしくても、薄くけむる霧のように纏いついて離れないのでした。「彼」がどのような者なのか、わたしは何も知りませんでしたが、その悲哀がどこから溢れてくるものなのか、それを知りたく思いました。同時に、重苦しい悲哀を忘れ、赫々たる勝利を歌った時、「彼」はどのような音色を奏でるのか夢想したりもしました。「彼」の歌にわたしは、語られるべき英雄を見たのです。「彼」が傍に立つ王とはどのようなものかとも考えました。わたしは「彼」の歌に、音色に、溺れていました。
 夢想から引き戻されたのもまた、聞こえてきた声のせいでした。歌が途切れてほどなく、あまりに静かになったので、わたしは音に浸るのをやめ、石を戻そうと壁に近づきました。その時でした。「彼」の話す声が聞こえたのです。歌を歌うのとは違います。それは確かに、言葉で、誰かに呼びかけていました。わたしは息を詰めました。「彼」に言葉をかけられた誰かが返します。また「彼」の声。それから――、「彼」ではないもうひとりが動いたのでしょう、声が不意に通って良く聞こえました。
 父上の声でした。わたしは咄嗟に壁の石を元に戻していました。
 予感が――あったと言ったでしょう。それがこれです。始まったのです。
 西の壁の向こうにいる「彼」を、父上は知っているのです。何故「彼」はそこにいるのでしょうか。ずっとそこにいるのでしょうか。三階層、真上に登れば王の間です。何故今まで考えつかなかったのか、……考えたくなかったのかもしれません。王宮を造ったのは父上です。

 疑念を抱えたまま、日々は過ぎてゆきます。ある日、わたしは王の間に向かいました。父上に報告があったのです。父上がまだ執務室にいるか微妙な時間ではありましたが、どうしてもその日中に済ませなければならない用事でした。わたしが王の間に入ると、父上はちょうど執務机に座ったところでした。いつもと変わらぬ様子でこちらを見ました。けれど、わたしは、妙な違和感にとらわれて一瞬足を止めました。すぐに近寄り、用事を済ませたのですが、何が気にかかったのか、王の間を辞しても考えていました。ふと「彼」のことを思いました。時間と、王の間と、父上と。わたしは入った時の様子を思い返し、ひとつの仮説を立てました。「彼」の元に父上が行くのならば、やはり王の間には何か秘密があるのです。でなければ、同じ階層の大半の主はわたしなのですから、父上をお見かけすることもある筈です。わたしはわたしの巣で父上にお会いしたことは一度もないのです。
 機会はさほど待たずに訪れました。父上がどうしてもアンドゥーニエに行かねばならなくなり、滞在が数日に及んだのです。お前がいるから安心だと父上は笑って出かけて行かれましたが、その時わたしは王の間を探して回ることばかり考えていました。
 実際はさほど探すまでもなく、わたしは秘密の入り口を見つけました。隠す気が本当にあったのか、いささか疑問に思えるほどです。伯父上は覚えていらっしゃいますか。王の間、奥の部屋の左の壁です。執務室に入りしなに机にいる父上を見れば、遠景で何かが見える筈です。壁に掛けられた織物が。わたしがあの時違和感を感じたのは、その織物がかすかに揺れていたからです。タペストリーは空征くヴィンギロト、確かに眺めてはいても触れるものはまずいないでしょう。眺めるのですら王の間の私室の方です。入る者も限られている。
 そのタペストリーをめくり、わたしは壁に手を触れました。ざっと見たところは何もないのですが、かすかな窪みを押すと、入り口が現れました。ぽっかりと口を開けたそこは、遠くにぽつりと明りの灯る長い廊で、風もなく、引き込むような温みがあるのでした。わたしはそこに入り込みました。左の指先を壁に滑らせながら次の明りまで歩むと、明りの灯るのは角なのでした。わたしは曲がりました。まだ廊は続いていますが、ほんの少し下りの傾斜になっています。次の角も同じ方向に曲がると、そこから円を描く階段が現れました。わたしは一度後ろを振り返りましたが、少し上にぽつりと明りが灯っているのが見えるだけでした。階はぐるぐると回りながら降っていきます。これがあの空間に続いているならば、三階層分、この階は続くはずでした。
 降るにつれ、大地の匂いが濃く香ります。確かに石の階であるのに、土の温みを感じる不思議な階でした。降って降って、少し平らに歩き、小さな間に出ました。
 その間に、扉がありました。細かな装飾の刻まれた石で、わたしは装飾をなぞり、そっと押してみました。重い感触はありましたが扉は確かに動き、薄らと光の線を一本走らせました。指も入らないほどの隙間でしたが、わたしは弾かれたように扉から手を放しました。
 大地の匂いのする階は温かく、対照的に扉はひやりとしていました。金の声の御方、わたしは呼びかけました。そこにいらっしゃいますか。声は確かに届くだろうという確信がありました。果たして、少しの間があり、あの声が聞こえてきました。誰です。たった一言ですが、その響きを聞き違えようはありません。「彼」でした。王宮に住まうものです。そう返し、わたしは扉の向こうに耳を澄ますように目を閉じ、言い募りました。思うことは多々あっても、懸念はひとつだけでした。あなたはどなたですか。何故、そこにいるのですか。そして。
「王があなたを不当に留めているのならば、わたしは王を正さねばなりません」
 いささか長い沈黙の後、「彼」はこう答えました。
「私は罪人で、彼は番人ですよ。これは正しいのです」
 帰りなさい、人の子よ。厳然とした響きで「彼」はそう言うと、微かな衣擦れが聞こえました。「彼」が奥へ遠ざかっていったのか分かりました。わたしはその場を立ち去りました。

 わたしは分からなくなりました。そもそも「彼」と話す前から分からなかったのですから、当然と言えば当然ですね。わたしは、王宮を出ました。暫くの間、とは思っていましたが、戻ってみれば二年も空けていたようです。そちらの旅もわたしにとっては実り多きものではありましたが、昼と夜のあわいには良く思い出していました。あの書庫で初めて聞いた歌のこと。「彼」と交わした会話のこと。あの言い方。
 戻ってから、書庫で歌を聞きました。わたしはまた石を引き抜いてみました。歌が溢れました。わたしは身じろぎもせずに、そこで長い間歌を聴いていました。
 以来、書庫で聞こえてくる「彼」の歌を、わたしは書庫での一部として受け止めることにしました。「彼」の歌を時折書きとめたりもしました。「彼」はクウェンヤで歌うことが多く、勢いわたしのクウェンヤは相当に上達しました。歌が途切れた時、どうやら「彼」以外に誰か、――父上がいる時、わたしは石を元に戻し、出来れば速やかに書庫を出ました。
 わたしが「彼」の存在を知っているということを、父上が知っていたかどうかを、わたしは探ろうとはしませんでした。わたしから「彼」に干渉したのはあの一度きりです。父上のことです。何か思惑にそぐわぬことがあれば、わたしにはっきりと言うでしょう。わたしは結婚をし、子を育て、王の世継ぎとしての仕事に没頭し、しかし伝承の研究を止めることはありませんでした。同時に、書庫で時折聞こえる歌を、聴かずにいることもしませんでした。歌を聴くことで、「彼」がまだそこにいるのだと、信じたかったのかもしれません。
 父上の臨終の際、わたしと父上がふたりきりになった時がありましたね。伯父上、あなたとギル=ガラドは露台の方へ行き、弟妹たちもいませんでした。その時です。父上がわたしを呼び、小さな鍵を渡したのは。鳥籠の鍵だと言われました。「金の声の小鳥に会っただろう」と。そして笑うと「歌を聴け」と言いました。父上の視線は寝台の向かい、壁の織物に向けられていました。ええ、あの、空征くヴィンギロトのタペストリーです。
 鍵は、赤銅色に輝いていました。たぶん銅ではないのです。色はそうですが。そして、まるで一度も使われたことのないようでした。わたしは隙間の空いた扉を開けようとはしなかったことを思い出しました。ではあの部屋は、閉ざされたことなどないのかもしれない。「彼」はやはり父上との、言葉では言い表せない情愛から、あそこに留まっていただけなのかもしれない。もしそうならば。父上がいってしまったならば。
 わたしはそう思っていました。考えていました。父上がいってしまったならば。「彼」は。

 「彼」が来たのは、あの夜、父上の亡くなられたあの夜のことです。
 父上の前で座っているわたしの背後で、静かに風が揺れました。そう感じたのです。わたしはゆっくりと振り向きました。「彼」がそこに佇んでいました。灯は夜の間絶やさない三つの燭台、揺れる光の中で、「彼」は黒髪と白い頬を同じ彩度に染めて、あまりにも薄く見えました。お別れをしに来たのだと、「彼」はそう言いました。わたしは父上の前を離れ、見ていました――「彼」のお別れを。
 ………お別れと、それならば、やはり「彼」は。わたしはそう思いました。ああ伯父上、わたしは、そして、どうしてそうしてしまったのか分からないのです。今もって、あの時何を思っていたのか、我がことだと言うのに、説明できないのです。わたしがしたことだけをお話致します。わたしは「彼」に献杯を願いました。「彼」は一瞬ためらいましたが、杯を受け取りました。飲み干して――倒れる「彼」を、わたしはどう見つめていたのでしょうか。「彼」を抱えて階を降りて、降りて、降りている時も、初めて入るその部屋で大きな寝台に「彼」を寝かせた時も、そしてきっと一度も閉ざされたことがないであろう部屋の鍵をかけた時も、わたしはそうしなければならないことのようにそうしました。「彼」を留める権利など、わたしには何一つないというのに。
 「彼」に触れて、その身体に温もりがあることに驚きました。生きているのだと、ここに存在しているのだと、そんなことを思っていたのですよ。伯父上。
 翌日が葬儀でしたね。王位については、あの時の表明の通りです。今わたしは、あの判断が間違っていなかったことを確かに感じています。当時は、そう、ああ言ったものの、それが通るかは五分五分といったところでした。ギル=ガラドが援護してくださってまことに助かりました。アマンディルはとても不満げでしたが(わたしが一年は王であったと記録に残されることになったのは、あの子の抗議と、この後すこし起きたいざこざのせいなのです)、戻ってから王家の寿命について説明すると、渋々ながらも分かってくれました。少し泣かせてしまったのは反省しています。
 寿命のこともそうですが、わたしがすることのためには、わたしは王でいるべきではなかったのです。
 夜、わたしはあの部屋へ降りていきました。鍵はあっけなく開きました。やはり、使われてはいなかったのかもしれません。部屋は、書庫の壁以上に不思議な光に包まれていました。夜の光です。良く見れば、奥の方には音も無く、滝の流れくだる様が透けて見えていました。メネルタルマへ向いた側、つまり王宮からアルメネロスを満たすあの滝です。あれを裏から見ているのです。
 不思議な空間でした。ここは確かによく知った王宮の一角である筈なのに、全く知らぬ、それでいて懐かしい気配に満ちているのです。水の香りがします。それから、階を降りている時も感じていた大地の温み。
 そこでわたしは横から突き飛ばされ、石の床に倒れこみました。喉を冷たい何かが抑え込み、圧し掛かるひやりとしたものから、さらさらと何かが降りかかりました。わたしは喉を塞ぐ何かを払おうと手を伸ばし、掴んだ腕で、やっとそれが「彼」だと気づきました。わたしは抵抗を忘れて一瞬呆然と「彼」を見上げました。降りかかってきたのは「彼」の結っていない黒髪で、枯れた野を思わせる淡い色の瞳が、わたしを睨みつけていました。わたしは奇妙なことですが、その時少し安堵したのです。確かに生気を乗せた目を見たことで、「彼」はここに在ると、わたしは安心したのです。わたしはきっと微笑みすらしたと思います。「彼」は突然わたしを放し、飛び退りました。わたしは急に戻って来た呼吸にえづき、丸くなって咳き込みました。
 何が望みだと、訊かれました。わたしは咳き込みながら答えました。歌を聴かせてください。「彼」は呆気にとられたようでした。わたしは続けました。あの歌を聴かせてください。あなたがずっと作っていた、きっと悲しい、そして優しい、あの歌を。わたしは更に言い募りました。ずっと前からあの歌のことは知っていたこと。壁の向こうから聞いていたこと。あなたが消えてしまう前に、どうしても聞きたいこと…。「彼」は顔を顰めてわたしを見ていました。わたしがまた咳き込むと、「彼」は今はだめです、と呟きました。そこでわたしの意識は途切れました。
 目を開けると、そこは王の間で、朝が来ていました。とはいえ早朝で、わたしの不在には誰も気づいていないようでした。これは成功でしょうか? タペストリーには乱れひとつなく、その先に繋がる廊と階の気配をひとつも感じさせはしません。わたしが起き上がると紙が一枚舞いました。拾い上げればそこには、流麗な筆跡で一言こうありました。「三日後」。
 三日後、わたしは再び階を降りました。「彼」はわたしを見て驚いたようでした。わたしの抱えていった、紙束やら何やらがよほど予想外だったようです。わたしは少なからず浮かれていました――断片は知っていたものの、全貌は少しもわからないその歌を、ついに聴けるのですから。その時は先のことなど何一つ考えていませんでした。わたしの心残りはあの歌を聴くことだけになっていたのです。前に階を降ってこの部屋に入った時から、わたしは本当はそうとしか考えていなかったのです。わたしは王ではない。殺されても良い。

 「彼」は竪琴を爪弾きました。一音、二音。その歌が始まりました。

 歌が終わった時、わたしは泣いていました。そんなのは控えめな表現で、まるで幼子のように泣きじゃくっていました。何かを書けるはずもありません。何も言葉になりません。「彼」は苦笑して帰りなさいと言いました。わたしは、「彼」にどうしても言いたくて、けれどこみあげる涙が声を言葉にさせてくれないのです。「彼」はわたしを立ち上がらせると、階の方に追いたてました。あれほどの長い曲を奏でたというのに、「彼」の指先はとても冷えていました。階を上がったわたしは、王の間で泣いて、泣き続けて、どうやら気を失ったのでした。
 熱があると言われ、わたしは寝台で確かにうなされているのでした。アマンディルが小言と心配の狭間みたいなことを言っていたのを覚えています。視界は泣いているように潤んでいたし、熱で朦朧としてはいましたが、わたしはこれが病気ではないと知っていました。知恵熱なのです。昔はよくあったことです。考えすぎだと、わたしはそう言いましたが、熱は高く、うわごととしか捉えられていないようでした。今わたしの耳にこだまするあの歌が、腹の底まで落ち着けば、こんな熱はすぐに引くのに。しかし夢は見てきたかのように歌の情景を紡ぎ、揺れる視界は、いる筈のない幻影を見せます。確かに熱が出ているのでした。とすればうわごととしか捉えられないのは道理です。わたしは高齢だと、この口が言ったのです。アマンディルの判断は正しかったでしょう。三日ほどはあまりに熱が高いので、看護人が付ききりだったくらいでした。
 熱が引く前の夜、わたしは「彼」を見ました。つめたい指がわたしの首に触れて、わたしはぼんやりと目を開きました。「彼」がまるで、父上にお別れをしに来た時のように、知っている筈の色彩をかなぐりすてて、ただ曇って薄い形でそこにいました。
 歌を聴いて言いたかったことがあるのです。「彼」は何故こんなに乾いているのでしょう。泉の枯れ果てた荒野、冷たい霜が地を潤すことはなく、光はただ大地を灼くばかりです。そんなに乾いて、「彼」は一体何処へ行くというのでしょう。わたしが言いたかったことは声になったでしょうか。「彼」はわたしをただじっと見下ろしていましたが、やがて身を翻し、曇った形はすぐに闇に溶けて、わたしは、いかないで、ともう一度、言ったように思います。
 わたしは十日間も病人生活を余儀なくされました。復調した頃にはそんな時間が過ぎ去っていて、わたしはかなり、絶望していました。きっと小鳥は飛び去ってしまったに違いないのです。わたしが「彼」を留めるいかなる権利もありはしない。
 そうぐずぐずと思って、わたしはあの部屋へ降りていくのを躊躇っていました。そればかりではなく、書庫へも行かなくなりました。書庫へ行けば、必ずあの石を引き抜いて、部屋の音に耳を澄ましてしまうだろうことがわかっていたからです。けれど、耳から歌が離れがたく――続きを、あるいは改めて書くにしても、どうしてもあの時に持って行った草稿が必要でした。
 重く温かい気のする階を降りて、降りて、扉を開きました。もちろん鍵などかかっておらず(そればかりか、わたしはあの鍵をどこへやってしまったのかどうしても思い出せないのでした)、打ち寄せるような蒼白い光が視界いっぱいに広がりました。わたしはその銀色と夜の光の中で声が、「彼」の声が、きらめく黄金の降りそそぐように響くのを思い出しました。
 思い出しただけではなかったのです。部屋には扉の近くに机が置いてあります。その机の上に、わたしの置き去りにした草稿が、きちんと分けられて並べてありました。並べた者が向こう側にいて、わたしを見ると枯れた野原のような瞳をやんわりと細めて言いました。「待ちかねました」と。
 わたしは言葉を再び失ったようでした。「彼」は、草稿を細い指で示し、「読みました」簡潔に言い、それから続けました。
「それで…、何処から始めるんです?」
 差した草稿が記譜法について書いたものだったので、わたしは狼狽して「彼」を見ました。書き記すんでしょう? 「彼」が言うので、わたしは思ってもいなかったことに動揺したまま、こう返しました。
「書いても、良いんですか、おじいさま…」
 わたしの呼びかけは、「彼」にどう響いたのでしょう。「彼」は一瞬、ゆがんだ笑みを作り、それから一度瞬きをすると、始めましょう、と静かに言いました。

 伯父上、お会いしたのはそれから一年後のことです。わたしがやつれた様子だとアマンディルがたいそう心配して、それで伯父上をお呼び立てすることになったのですが、わたしとしてはむしろ絶好調と言っていいほどでした。あれほど熱中したことは生涯ありませんでした。ええ、あの時わたしは「生涯の仕事を見つけた」と言いました。それが、これです。その本です。もう少し話を続けます。
 お会いした時、わたしはあなたからあなたの養父上方の話を聞きました。お分かりでしょう、必要だったのです。王家の伝承――父上が即位するまでの話として必要だったのは嘘偽りではありません。それよりも、わたしは「彼」のために、あなたからお話を伺わねばなりませんでした。……「彼」のため、なのかどうかは本当は分かりません。
 「彼」はいってしまうつもりでした。少なくとも、西からは遠ざかりたいのでした。だからわたしは物分かりの良い顔をして、なら船に乗らなくては、と言いました。東への船は、すなわち東からこの島に来て、東へかえる船です。伯父上、あなたの船団以外にはない。わたしはそのことを「彼」に話し、二人で密航の手筈を整えました。結果的にはアマンディルが呼ぶことになりましたが、いつ来るか分からないあなたを待って、わたしと会話をするのは、「彼」にとっては存外楽しいことであったようです。
 「彼」の密航の手筈とは別に、わたしはもうひとつの計画を進めていました。
 記譜法についてです。わたしが考案したものですから、こなれていない所は多々あります。これはどちらかと言えば旋律を文字から辿れるように紙に写しておくといったものですから、読み方(奏で方)は記したものの、これで本当に旋律が再現できるのか、不安の残ることがありました。記譜法自体はこれから時を経て、研究するものがあれば洗練されていくものでしょう。それよりもわたしは「彼」の歌が正しく伝わるのか、それの方が心配だったのです。
 わたしにはエルフの友人がいます。名は、リンディア。彼は変わった経緯でこの島に住んでおり、わたしの妻の友人でもありました。記譜法は彼と、妻と、わたしの三人で作り上げたと言っても良いほどです。わたしは「彼」の歌の旋律を――歌詞なしの旋律を、です――楽譜からリンディアに奏でて貰うように頼みました。正しく奏でられるように覚えて貰い、そこから逆に楽譜を手直ししました。リンディアはそういう変遷の全てを覚えておけるのです。そしてまた、わたしは、リンディアが東の大陸へ行ってみたいと思っていることを知っていました。ですから、わたしは密航計画を二つ、立てたのです。
 伯父上、わたしの生涯の仕事は「彼」の歌を現世に伝えること。その本がそれです。「彼」の歌の詞を、その旋律の譜を、まとめたものです。旋律が正しいかどうかは、今は東の大陸に住むリンディアが教えてくれるでしょう。得難い友は、わたしがこれを何をおいても伯父上に伝えたいと思っていることを理解してくれました。
 わたしは「彼」を伯父上に会わせることも出来たでしょう。けれど伯父上、わたしは選べなかったのです。伯父上が「彼」に会いたいだろう気持ちも、「彼」が伯父上に合わせる顔がないという気持ちも、どちらも量りかね、わたし自身がどちらを望んでいるかも分かりませんでした。選べませんでした。
 リンディアは船を降りる前に必ず密航が発覚することになっていました。東へ戻る船がもう一度西へ向かおうとは思わないほど遠ざかった時に。そして下船の時に少しばかりの騒ぎを起こすため。そして「彼」がその騒ぎに乗じて船を降りるため。どちらも伯父上の船には乗らない予定でした。あなたの船は少なくとも三隻で来る。わたしは知っていました。「彼」にそう説明しました。そうしながらわたしは賭けようと思っていたのです。
 最後の夜、眠らせた「彼」を前に、わたしは長く祈りました。少し前、言葉が世界にもたらす事柄について「彼」と話しました。誓言のような重々しいことでなくても、例えば軽い約束ひとつとっても、または誰かを思って発したことなら、それは確かにこの現世の何かを変えるのです。わたしはその時「彼」に、「あなたに海をあげる」と言いました。「彼」は微笑んでいました。ずっと思っていました。「彼」は何故あんなに乾いているのだろう。涙を忘れてしまっているのだろうと。そんなことが頭をよぎり、わたしが伝えられたのはそんな言葉でした。
 驚かれるかもしれませんが、伯父上、わたしは海に出たことがありません。川にも入ったことがありません。避けていたわけではないのですが、ここまでそう来てしまいました。わたしは祈りながら思い出していました。もしわたしの家系に変わらず水のご加護があるのなら、それを願っても許されるだろうかと。だから「彼」の瞼と指先に口づけて、祈りました。彼の旅路に良い風の吹きますよう。わたしの受くべきみめぐみすべて、どうか彼を守りますよう。そして彼が涙を思い出せますように、と。
 明け方、伯父上、あなたに船でお会いしましたね。わたしは「彼」をあなたの船に乗せたのです。
 その後のことは御存知の通りです。
 わたしはあの部屋をあなたに見せ、あなたの船を見送りました。そして今日まで、この歌を、少しでも確かな形にしようと努力してきました。親愛なる伯父上、わたしはこの島から、あなたに星をおくります。
 お別れです、愛しき長上の君。残るあなたに幸福を、いつの時も願っています。

  *

 船に。
 エルロンドは震える手で手紙を置いた。
 いつ? いや、それも書いてあるではないか。今ではない。エルロンドの感覚では本当につい先ごろとしか思えない、こんなにはやいと思わなかった――。そう、落ち着かない日々、急いて渡ったあの時。あの時に。
 エルロンドは逸って立ち上がる。意味もなく船室を歩き回る。ここに? この船に。知らなかった。――知らなかった!
 波立つ心でもう一度手紙を掴み、浅い息をついて置いた。本に手が触れる。
 ああ、こちらには何を?
 エルロンドは銀箔の紋章を撫でた。留め金をうまく外せず、何度か表紙を引っかく。ようやく小さな音を立てて本は開き、その文字が目に飛び込んで来る。
 たどたどしい指を乗せる。なんて書いてある。視界がぼやけている。
「―――ノルドランテ」
 あの、とても奇妙で二度とない数年の明け暮れに、双子を膝に抱いて幾度となく語り聞かせた伶人の、
「……マ、グロール…ッ」
 エルロンドは本を抱きしめて蹲った。一息で東の岸辺に船が着いてくれたらと願った。