あなたに星をおくる/星贈

星贈

 夢をみる。
 暗い岸辺の夢だ。
 覗けもしないような暗さに覆われた水面と、聞こえない波の音が包む、光もないのに何もかもが露わな、岸辺だ。
 エルロスは酷い顰め面をしてその岸辺に立っている。暗い岸辺、あるひとは「夜の岸辺」と呼んだ、そこは、エルロスにとっては馴染みのある夢の中の場所。ただしもう夢は見ないはずだった。だから。
「性悪長上ーッ!」
 エルロスはありったけの恨みをこめて叫んだ。すると近く、ごく穏やかな声が返ってきた。
「やだなあ、ぜんぶ私のせいにしないでくれる?」
 声の方を睨み、エルロスは、かれの変わりない姿に本当のところは何となくほっとした。
「嘘だろ死ぬ筈じゃない!」
「そうだねぇ。死んでないよ。死んでないない」
「あんたと会ってるのに!?」
「そういう場所で、思いがこっちに来てたんだろうねえ」
 呑気に返されるものだから、エルロスの眉間の皺はとれる気配がない。
 「夜の岸辺」は人の子の最期に船出する岸辺だという。かつてベレンがルシアンを待った、死出の旅路につく場所だ。
 エルロスは、この岸辺を良く知っていた。それは半エルフの中で自分だけが、人の子である道を選んだからだ。この世から旅立つ命を、死の訪れる生を選んだからだ。夢をみることも死に似ているのだ。夜の岸辺でかれから、そういう世の仕組みのことを聞いた。人の子は眠る。夢をみる。――死ぬ。
 きっと最期まで二度と訪れないだろうと思った場所だ。だが少し前(とエルロスは感じている)、ちょっとした臨死体験でここには来た。その時にはかれには会わず――
「現実的には…」
 かれの声ではっとした。
「現実的には?」
 かれは、にんまりと楽しそうに笑った。
「掃除をおしよ」

 咳き込んで目が覚めた。
 エルロスは身を起こし、立て続けに咳をした。
 掃除、掃除ってこれか、と舞い上がった埃がきらきらと輝く視界に気づく。百年閉じていた部屋に降り積もった埃は厚く、よくここで眠れたものだと昨夜の自分を思い出す。ちょっと狂ってたな。
 妻が亡くなった。
 分かっていたことだ。エルロスはほとんどエルフで、妻はそうではない。この贈り物の島で、人の子の定められた命の時間は少しずつ延びてきてはいるものの、百年と少しを超えるかどうかだ。妻はもっと早い。
 その、きらめく時間のすべてを愛した。
 別れが来るのは分かっていた。その別れは正しく受け入れた。
 エルロスは朝の光の中で部屋を見渡す。寝台を下りて光の強い方へ向かう。埃の層が足跡を残す。巨きな窓、その向こうに流れる水の輝き。扉をくぐれば露台、外からは見えない。何故ならここは滝の裏側だからだ。
 滝の裏の、――洞窟。
 王都アルメネロス、王宮のたつ丘のメネルタルマへ向く側に一筋の滝がある。地下へくだるその流れは、外から見ればちょうど王の間の下から湧き出るように姿を現す。夕陽を受けて金色に輝く光の滝だ。
 ここは隠し部屋だった。王の間から降ること三階層、光の滝に隠されている。
「子供部屋、なんてのはどうです」
 王宮を造っている時に、職人からそう言われた。エルロスは笑った。隠し部屋なのに? 初老の職人は、もちろんエルロスより歳下だったが、顔に刻んだ皺と同じだけの愛情をこめた声音で答えた。
「いやいや、あなた様のお子方が使うとかではなくてですね、陛下、あなたがこどもの気分の時にお使いなさるといい」
「……俺がこどもの頃?」
「ええ。どんな感じでした?」
「――すごく、エルフ式だな」
 当たり前だった。エルロスとエルロンドはエルフに育てられたのだ。おそらくもう二度とない、奇妙でこみいった事情の下に。
 柱は? 壁は? 職人と一緒に、半ばはしゃいで造り上げた部屋だった。
 露台へ出れば豊かな水の匂いが満ちる。
 エルロスは深く息を吸った。途方もなくさみしいと思った。

 少しずつ時間を作って部屋に降りている。掃除をしている。あの日以来、この部屋で眠ってはいない。だから夢は見ない。
 掃除をしながら色々なことを思い出す。片割れのこと。恋のこと。妻のこと。この島に来てからの百年のこと。
 さみしさのこと。
 即位の時、ギル=ガラドに言われた。生得の権利と選択の義務により、そなたはその座につく…
「ヌーメノールの王の対の立場にいるのはそなたの片割れではない。わたしだ」
 真摯な菫色。エルロスの好きな色だ。
「何もかもを失ったように思う時、わたしがここにいるのを忘れないでくれ」
 笑ってしまった。ありがとう。望んだものではなかったにせよ、すごい愛情だと思った。だから離れられるとも思った。さみしさを埋める術がそれしかなかった。そう言えば良いのかもしれない。
 エルロンドの凍れる蕾の花ひらく時を見たい気持ちもあった。でもその前に自分は時に疲れてしまうだろう。
 今感じているこのさみしさは、初めてではないな。
 エルロスはそう考えている。いつからだろう。たぶん、ずっと前から…
 部屋をどういう構造にしたのかは結局のところ思い出せない。だからエルロスは掃除をしながらひとつずつ仕掛けを確かめる。朝と昼と夜とで光をどう使っているのだったか。滝の音が聞こえないのはどうしてだったか。壁はくるくる渦を巻く草と葉の意匠、それと星、星、星…
 扉を見つけた。降りる。降りる。降りる。
 王の間から部屋までの階段よりももっと狭い。明りもない。灯火も何も要らなかった。エルロスには見える。こんな段を刻んだだろうか? いつ? 王宮を造ったのはエルロスなのに、この通路はとんと記憶にない。
 ひとりなのがさみしいのではない。エルロスはひとりではない。
 降るにつれて水の匂いが濃くなった。潮の香も。強まる。
 踏み出した洞には暗い色の海が打ち寄せる。なんて、似ているんだろう。あの夜の岸辺と。
 けれどこれは夢ではない。
 ゆめでは、けれど、では
 エルロスは立ち竦む。見通せる闇の中、波の寄せるそこに横たわっているのは、誰だというのだろう。
 黒髪が、光に透けると意外と赤みの強いのを知っている。閉ざされた瞼の向こうの瞳は冬枯の灰色で。
「――マグロール…?」
 へたりこみそうな足で波打ち際に寄った。
 触れた身体はびしょ濡れで、確かにそこにあった。

 夢をみた。
 暗い岸辺の夢。はもういつも通りだと思うことにした。全くいつも通りではないのだったが、今に限りこの上なく良い機会だった。エルロスはかれを探していた。
「どうして探してる時にはいないんだあの性悪長上ッ」
 吐き捨てるとごく近くから、からかうような声がした。
「ここにいるよ?」
「ぅわっ」
「この前のことがあったからね。君が来るかもしれないとは思ってた」
 かれに変化はない。それはそうだ。死人だ。そうでなくてもエルフは劇的に変わりなどまずしない。
 エルロスは憎らしいほど落ち着いたかれに焦った声を上げた。
「マグロールがいる」
 かれは、ふぅん、と溜息のような応えをした。
「ふーんじゃなくて」
「何が聞きたいの?」
「………驚かないのかと」
 かれはひかるような灰色の眸をぼう、と霞めて、そうだね、と言った。
「マグロールはマンドスに来ていないね。とはいえ、私はマンドスの主ではないのだし、推測しかできない」
「じゃあ、どう思う」
 エルロスは揺らぐ思いで訊いた。かれは、揺らぎなど知らないかのような眸で答えた。
「あの子がさみしさで薄くなる前に、もしくは君がさみしさでうつろになる前に」
 こういうところが嫌なのだ。かれはエルロスのさみしさというものを正しく理解している。聞かずにはいられない声が続ける。
「あの子のさみしさが彷徨っていた。君のさみしさが形になった。どれでもいい」
 かれはゆったりと微笑んで言った。
「思いこみだよ。願うこと。強く願う。心の底から。この世界は音楽で出来ている。音楽を信じなくては、ね」

 エルロスは思い切り眉間に皺を寄せて目を覚ました。
 簡単に言ってくれる。
 溜息をついて傍らを見た。すっかり掃除した部屋にもう百年の埃の欠片もなく、傍らには百年より遠くに別れた養い親が、まるで命無きもののように身体を投げ出している。
 その身体にふれる。形をたどる。
 あの頃、養い親は正しく大人の男で、今もそれは変わらない。常に薄くまとわりついていた重苦しい影は今この時はわからない。ただきっと、目覚めたらそれは変わらずにエルロスの前に立ち現れるだろう。あの頃、エルロスはとても幼く何も定まらないこどもで、世界の美しさを疑ってはいなかった。養い親たちのまとう影をも、悲しくは思っても恐れはしなかった。
 今、その影の正体も、恐れも、何もかもを知っている。
 恋をした。したと思っている。傷になって、棘として深く、残り続けたいと思ったそれを、恋と呼んでいる。
 愛を知った。火花であることを分かって、瞬きを永遠よりもあざやかに生きることを、愛だと感じている。
 だがこれは、恋でも愛でもない。
 さみしさが形になった。それでいい。
「マグロール」
 エルロスは呼ぶ。彼にふれる。髪を撫ぜ瞼にふれ、頬を包んで抱きしめる。
「マグロール…」
 熱が移ればいい。声が聞きたい。話がしたい。目にして、今手の中にある存在に、求める気持ちが止まらない。
 間近の睫毛が震える。息が変わる。
 エルロスは祈るようにその瞬間を待った。
 枯れた野原のような灰色の瞳がうっそりと開いた。エルロスを見つめ、緩慢に瞬きをする。一度。二度。
 ひび割れた風に似た声が囁いた。エルロス。エルロスは微笑んで呼び返した。マグロール。
「あいたかった」

 月の出ない夜だった。
 幼い双子は手に手を取って館を抜け出した。けれど森は深く、闇はいっそう暗かった。獣の声、葉擦れの音も不気味で。
 追いかけて来たマグロールに捕まったのだけれど、それも悶着の末のことで。結局、エルロンドは泣き止まないし、マグロールは怪我をしているし、そうなってはエルロスも何も出来なくてそこにいるしかなかった。
 ふて腐れていると、見た目からは想像もつかない強い力で引き寄せられた。エルロスは嫌がって暴れた。頼むからじっとしていて下さい。マグロールは囁き声で言った。エルロスは驚いた。いつだってマグロールは良くとおる声ではっきりと喋るものだから、初めて聞く声音があんまり力ないもので、自分がとても悪いことをしている気分になったのだ。
 エルロンドはしゃくりあげていて、マグロールはふう、と重い息を吐いて、震える片割れの頭をゆっくりと撫でた。エルロスは唐突に不安がこみあげるのを感じた。それを知っているかのように、マグロールは緩慢に体勢を変えると、茫然としているエルロスをもう片方の腕に抱き込んだ。
「……手、ふさがる」
 エルロスが強張った声で言うと、マグロールがふっと笑った。続いたのは相変わらず囁き声だった。
「大丈夫です。あなたたちがいざって時に自分のちっちゃな耳を塞いでくれれば」
「そんな、ちっちゃなこえだして」
「今ちょっとお休み中なんです」
「それに、うごけないくせに」
「兄上が迎えに来ます」
「こんなくらいとこに」
「どこでも見つけてくれますよ」
 エルロスは何だか悔しくなってマグロールの肩のあたりに頭をぐいぐい押し付けた。本当にマエズロスはマグロールを見つけられるんだろうか。こんな、暗くて、森の奥で、呼べもしないのに。
「よんだって、きてくれないのに…」
 くぐもった声で呟いたエルロスの背を、マグロールはなだめるように軽く叩く。
「呼べば行きますよ」
「うそだ」
「どこでも」
「うそだ」
「……あなたたちが、呼ぶのなら」
 嘘だと繰り返すエルロスを、マグロールはずっと宥め続けた。反対側の肩でエルロンドは、泣いて乱れた呼吸のまま眠っていた。
 その夜。
 マエズロスは本当にマグロールを見つけた。どうやったのかは分からない。館への帰り道、マエズロスは眠っているエルロンドを抱え上げ、逆の肩をマグロールに貸していた。マグロールはなんだかとても楽しそうに笑うと、さあエルロス、と空いた手を出した。エルロスは急に素直な気持ちになってその手を繋いだ。

 手を繋いで寝ている。
 エルロスは毎晩その部屋で眠っている。目覚めたマグロールと手を繋いで。
 朝の光にエルロスが目を開けると、マグロールはぼんやりとどこかを見つめていて、それからエルロスに気がついて、少しだけ唇をゆるめ目を細める。エルロスは消えそうな輪郭を確かめるために彼を抱きしめる。
「おはよう、マグロール」
「……おはようございます、エルロス」
 焦ってはいけない。エルロスは間近の瞳を見つめ返しながら考える。
 目覚めた時の会話も奇妙だった。マグロールはまるで当然のことのようにエルロスが自分を呼んだのだと思っていた。
「どうして呼んだんです?」
「どうしてって、………どうしてだろう」
「何かしたいことが?」
「なんにも。なんにもしたくない」
「わかりました。なんにもしたくない感じでいましょう」
「何それ」
「何でしょうね…」
 マグロールは始終真面目な顔をしていて、エルロスはすこし笑った。
「ここにいて。いてほしい」
 自分にも言い聞かせるように言った。マグロールはこくりと頷いた。
 焦ってはいけない。音楽を信じなくては。存在も音楽だ。この世界はそうなのだ。ましてやここに留まるエルフには、なおさら。
 夜毎に訪れるエルロスにマグロールはすぐに馴染んだ。エルロスも、その夜毎の習慣がすぐに当たり前になった。
 行って、ぼんやりと話して、眠る。それだけだ。
 『なんにもしたくない感じ』の真意はよく分からない。マグロールが何を思っているのかも。エルロスは休みに来ている。訊かれたらそう言うだろう。お休み中です。何を休んでいるのかは、あまり考えていない。
 考えていないのはマグロールも同じだろうなとは思った。
 ある夜、エルロスが降りていくと、滝を透かして夜を見つめていたマグロールは、ふわりと空気が揺れるように振り返った。
「おとなですね、エルロス」
 今気づいたのかな、と思った。とすると今までエルロスはマグロールの目にはずいぶんと小さいままだったのかもしれない。
「そうだよ」
 俺は大人で、父親で、王様だよ。言うと、マグロールは目覚めて初めて、小さく声を上げて笑った。
「父親が毎日こんなところに篭っていていいんですか」
 エルロスは肩を竦めて問い返した。
「おとなになったと思って過ごしている頃、父君にべったりだった?」
 マグロールはますます笑った。
「顔を合わせた回数を数えた方が早いでしょうね」
「そういうことだよ。俺のこどもたちは皆、おとなだ」
 マグロールはもう一度、おとなですね、と繰り返した。

 マグロールは大人のエルロスについて考えることにしたようだった。大人で、父親で、王様のエルロスだ。とはいえ彼の興味はまずは夫であるエルロスに向いたらしかった。
「妻の話をしましょう」
「え?」
 その夜のおしゃべりはそんな言葉で始まった。
「あなたに言ったんじゃなかったでしたっけ。うちの兄弟は黒髪は既婚で、そうでないのはそうじゃない」
 マグロールはこういうところがあるよな。エルロスは思い出した。時々とんでもなく、雑だ。
「知ってるよ」
 懐かしくて微笑んだ。マグロールはむっとした顔をした。
「笑いましたね。私は妻の話をします。エルロスも」
「良いけど」
「そうですね。じゃ、」
 マグロールは眉をひそめたまま少し黙った。
「……歳は?」
 エルロスは吹き出しそうになった。
「めちゃくちゃ歳下」
 さらっと言ってやると、マグロールは何故か喜々とした。
「私もです」
「えぇ?」
 髪の色は? 目の色は? どこで出会いました? 最初はどう思いました? 弾むような声で問いは続いた。エルロスはいちいち答えながら可笑しくてたまらなくなった。なんだこれ。なんだっけ。ああそうか『無敵のおしゃべり』だ。
 こんなところを見せるのはエルロスがおとなになったからだろうか。

 結婚について話をしたことがある。
 きっかけは覚えていない。寒い夜だった。火の前で寄り集まっていた。マグロールが言葉を探しあぐねている間に、エルロスは少し片割れから離れて、火に薪を足した。ぱちんと爆ぜる音。
「子の、『親たるわたしとあなたの関係』が結婚ですよ、本来はね」
 まだ思考の途中みたいな定まらない声でマグロールが言った。エルロスは振り返った。
「じゃあマグロールとマエズロスはけっこんかんけいなの?」
 無垢なひとみで見上げてエルロンドが言う。
 マグロールはあっは!と声を立て、それから、震えそうな唇が笑みを描いた。困ったなあ、と柔らかい声音で言った。
「重婚だし兄弟だし、もうこれ以上ないってくらい法に反してしまった」
 エルロンドからは見えなかっただろう。エルロスはマグロールの瞳がちかりと光るのを見た。
 おいで、こどもたち。マグロールは双子をぎゅっと抱きしめた。私と兄上は結婚関係じゃないですけど。
「おまえたちを愛していますよ」
 今ならわかる。マエズロスは、敢えて距離をとっていた。マグロールは……親になろうとしていた。
 なろうと思ったのではなかったのかもしれない。今思えば、彼があれほどこどもときちんと向き合ったのは初めてだったのだろう。双子は幼かった。生きることを疑ったことなどなかった。死ぬことを分かってはいなかった。
 シリオンの港でマエズロスと会った時のことを覚えている。マグロールがエルロンドとエルロスを連れていった。マグロールが震えていたのを知っている。マエズロスが、エルロスの知る限りではおそろしく荒んでいたのも。
「双子はどこだ」
 マエズロスの問いかけは勿論、エルロスと片割れのことではなかった。マグロールはひゅっと息を吸った。
「―――、ここに」
 射るような瞳でマエズロスは三人を見た。マグロールは激流を押し隠したような声で言った。
「双子ならここに。兄上」

 おしゃべりをしてくれても、ここにいてくれても、こんなに遠い。
 幾度の夜を重ねてもエルロスはそう思う。どうしてマグロールはあやふやだろう。昔から何を思っているかなんて分かりやしなかったけれど。存在はここにある。心はどこ。まだ遠く?
 今、エルロスとマグロールの関係は何だろう。
 そう思ってマグロールに抱きついてみる。マグロールは不思議そうな顔をする。親の顔をしてはくれない。
「どうしました」
 エルロスは少し抱きついた身を離して、不意に思い当った。
「歌いたくない?」
「………」
 マグロールは瞬間、息を詰めた。
「歌って」
 エルロスが畳みかけると、観念したような溜息をついた。
「―――何を?」
 そうだな。じゃ、まずは。エルロスは笑ったつもりだ。多分失敗しただろう。
「子守唄」
 聞かせて。あなたの音を聞かせて。歌って。今はじめは、かつて聞いたその歌から。
 マグロールが揺らいでいる、と思うのはエルロスだけなのかもしれない。
 それともマグロール本人がそんなことを気にしないだけ?

 夜のおしゃべりが日々の歌に変わった。
 エルロスは昼にも訪ねるようになった。
 マグロールの奏でる音を聞いていると、たまに息の仕方を忘れている。
 ただ見つめている。聞いている。マグロールの思っていることは、音を聞いている方が分かる気になる。
 夢は見ない。
 さみしくはないと思っている。ただ今になって、過ぎゆく時間が恐ろしいと思う。マグロールは数えてもいないその時間。エルロスには確実に訪れる期限。
 あなたはエルフだ。エルフなんだ。俺は違う。
 喉の奥から叫びがこみあげる。
 ああ、おいていく。あなたを置いていく。あなたを信じている俺がいなくなる。
 幻影だと分かっているのにはっきりと見える。マグロールは色を無くし、形を無くし、重さを無くす。それなのに影の中を彷徨っている。
 嫌だ。
 けれどエルロスには、どうしたら良いのかがわからない。
 夢は見ない。

 王宮を離れていてもふとした拍子に心はマグロールの方へ向かっているのだった。おかげで晴れ渡る空の下、覗き込んでも底が見えない淵のように沈んだ心地もする。
 鬱々とした顔でもしていただろうか。いつになく方々から体調を心配された。
 エルロスは午後の光の中から、温かい石の中へ降っていく。
 その日は何かが違った。ヴィンギロトのタペストリーをめくる。扉を開ける。これはいつも通り。
 ぼんやり歩いたりもするから明りは角につけてある。勿論変わる筈もない。
 何が違う? 降りながらエルロスは考える。温みは変わらない。大地の香り。それから清しく薫る、甘さ…
 扉の前で立ち竦んだのは一瞬だった。ひやりとした扉を押し開けると、爪弾く弦の音が耳に入る。マグロールが振り返り、おかえりなさい、と静かに言う。
 エルロスは歓喜のままにマグロールに抱きつく。
「見つけた」
「どうしたんです」
「見つかった」
「エルロス?」
 不思議そうな顔をして。エルロスはマグロールの顔中に口づける。こどもに、見つかったんだろう。金の声の小鳥。ははは! 笑いたくて仕方ない。なんて言われた? なんて返した? いい、知ってる。あなたの考えてることなんて分かってる。エルロスは困り果てたマグロールをかたく抱きしめる。俺からはこれだけ。
「罪だと思っていい。生きて」
 マグロールは答えない。エルロスは構わない。

 夢は、必要がないから見ない。
 エルロスは心の居所を見つけた。日々を紡ぐのを恐れなくなった。マグロールはそんなエルロスに戸惑い、困り、ゆるゆると受け入れた。数えなくてもエルフにも時は流れる。
「子守唄を歌って」
 ――言ったのはマグロールだ。エルロスは驚いた。次いで、愛しくてたまらなくなった。横たわる手に手を絡めて、にやりと笑った。ねえマグロール。
「さみしいの」
 まぶしいようにマグロールは少し目を細めた。少しの躊躇いがあって、答えが返る。
「ひとりじゃ眠れないよう」
 こどもの顔だと思った。愛されてるのをよく分かってる。だから少し、わくわくしている。良い顔だ。エルロスはマグロールの瞼をそっと手で覆う。
「さあ静かに 私の物語――」
 歌うのはこの島の子守唄だ。寄せる波と広がる海のうた。
  僕と来てよ
  黄金の月のかかる丘へ
  朝陽のさす空を見て
  どこまでも漕ぎ出す…
 マグロールは笑っている。だからエルロスの声はますます優しくなる。
  僕と行こうよ
  海と空が出会うところ
  雲が晴れていくから
  うみのうたを唄おう
 いつも、愛しています。古い人の子の言葉で呟くように歌を終える。手のひらを外すと、ぼやけた灰色の瞳と目が合う。エルロスはこわい声を出してみせる。
「寝てないじゃないか、悪い子め」
 マグロールは甘く口をとがらせる。
「こんな恋歌みたいのじゃ眠れない」
「……あなたの子守唄も恋歌だったくせに」
 エルロスは身をかがめて、マグロールの目の端に口づける。マグロールは震えるように一度目を閉じて、開いて、ことさらゆっくり声を出した。ねえエルロス、もういっかい。
 さみしいの? エルロスは尋ねる。マグロールが笑う。わからない!
 そしてぎゅうぎゅうと抱き合って、溶けるように転がった。

 そうしてエルロスは、ずいぶんと凪いだ気持ちでその岸辺に立っている。
 やあ、来たね――と声がした時も、焦りも苛立ちも起こらなかった。
 かれを見た。言葉が滑り出た。
「マグロールは、ここには来ない」
 かれはエルロスをじっと見た。この眸が苦手だった。あまりに凪いでいるから。けれどきっと今は同じものを見たのだとわかる。そう? かれが囁く。何故、そう言える? エルロスはかれをまっすぐに見返す。
「ヴァルダミアが、信じてる」
「そう!………」
 かれはさざ波がたつように眸を細める。エルロスはほどけるように笑う。満足か。かれが返す。嬉しいね。
 風がたつ。時間だと分かる。エルロスは踵を返す。見えない波の寄せる彼方。
「君の船出だ。私から、星をおくるよ」
 エルロスは歩みを進める。暗い岸辺――
「つつがなくおいき、その先へ!」
 かれの声が降りかかる。露わな岸辺と暗い波の、光など、光などない筈の場所。
 ではあの光るのは、何だろう?
 エルロスは涙のようにその言葉を口に出す。呼び声に、彼は振り返る。船が揺れる。これは現だろうか。ああ、夢だ。けれど魂でみる夢は夢というのだろうか? エルロスは彼の前で息をはずませて立ち止まる。今こうして立てることが誇らしいと思う。エアレンディルが微笑む。
 
 輝く星が空を征かずとも、許してくれ、今日だけは。