兄が素惚けた言動をするたびに私がどれだけ振り回され、きりきりと精神をすり減らし、ささやかとは言いがたい自尊心をぼろぼろに傷つけられているか、兄は勿論知らない。知られては困るし、知らないに越したことはないのだが、もし知ったとして兄が言動を改めるかというと――その確率は実に無に等しいので諦めて、もう随分になる。兄の素惚けた言動というのは、元からその気はあったのだが、彼があの――従兄のことを考えていると格段に確率が跳ね上がる。被害の及ぶのはいつも私。

 ……そう、あのひとのことで被害を受けるのはいつも私、だ。

 そしてまた実に絶妙な頃合で兄の頭は従兄のことを考え出す。らしい。絶妙な頃合というのは、私に被害が及ぶのに絶妙ということだ。
 例えばそれは、何故か苛々している母に八つ当たり気味に邪険な扱いを受けて、いささか落ち着きを失い、注意力の足りないときであったり、気の抜けている時はあり得ないほどにぼんやりしている父にかまけていて、気を回しにくいときであったり、私の幼馴染たる金髪の従兄殿(彼の弟殿はこう称す――歩く天災)と“楽しいお喋り”に興じていて相槌に難儀している(別にフィンロドの話がつまらないわけではない。が、真面目に聞かないとフィンロドは怒る)ときであったり……そんなことの後に私が仕事をするとする。日常の些細なことからヒトもモノも大きく動くことまで。
 すると何故か兄がやってきて、傍に居座る。私に用があって、仕事の邪魔はしないつもりで待っている…のだそうだ。
 私の注意力不足なのだとは認めている。だが、傍でのんびり見ておいて、仕事の終わった途端に思い出したように(…実際、本当に今思い出したのだろうが)その仕事を丸ごと無駄にするような情報を口走るのは――
 分かっているのに、私はいつもそんなときに、兄に聞いてみるのを忘れてしまうのだ。いつも口数の多い兄が、そんな時ばかりは神妙にただ待っているだけで、視線は柔らかで、普段の好奇心は鳴りをひそめて、……こちらを気にしているはずなのに、何も見ていない。そんな佇まいだからだ。

 それとも兄の“用”があのひとに関連していると分かっているからかもしれない。

 ただでさえ霞んでしまっている注意力は、兄がいると余計に散漫になる。たった一言何か知らないかと聞けばいいのに、時にはその思いがよぎることもあるのに、私の口から言葉は出ない。兄は今こちらを見ているか?それとも目を向けているのに見ていないのか。兄は今何を考えているのか?決まっている。あのひとのことだ。
 恋だ。恋だ、恋なのだ。
 私も恋はするだろうが、きっと兄とは違う性質だろう。世界の中心にたったひとりを据えるなど、私には出来るはずもない。――誰だって誰かの一番になりたいのだ。だから私は一番を誰かひとりにしたくない。そういうことは、兄は考えもしない。兄は兄の性質のままに真っ直ぐに、ひたすらに、ひたむきに、世界に中心を据えてしまう。けれど私は、そしてあのひとにだってそんなことは出来やしない。

 ……案の定、兄は私の仕事を台無しにして、私は何故だか普段より更にささくれだった心持ちでその事実を受け止めた。兄が私の前で目を丸くしている。手に水滴が落ちて、私は椅子を蹴立てて立ち上がり身を翻す。兄が何事か言っている。耳を塞ぎたくなってただ走った。寝室に転げ込んで寝具を被って埋もれる。
 悔しい。悔しい。悔しい。
 溢れ出てくる涙が余計に悔しくて、枕に噛み付くように顔を押し当てて、唸った。
 なんで、なんで、なんで、たった一言で良いのに、もっと早く言うだけで良いのに、ずるい、ずるい、あのひとのことばっかり考えてて私のことなんか全然考えてくれない、兄上ばっかり……
 掠めた思いに我ながらぎょっとして蓋をする。兄上ばっかり?その後に何が続くかなんて考えたらいけない。
 かぁっと頬が熱くなるのを感じてまた悔しさが湧き上がってくる。
 私は何に泣いているんだろう何にそんなに悔しがっているんだろう苦しいのか悔しいのか悲しいのか熱いのかもう何だかわからない――
 ――…意識が眠りという淵に逃げ込む寸前に欲しかったものを感じた気がした。夢は安らかだった。

 欲しかったものは私の場合恋ではない。一番を決めてしまうひとの恋心などは要らない。

 そんなことがあったものだから、この状況がいつものものだとしても私の心境はいつものものではなかった。今日も兄は“用がある”とそこに、すぐ傍にいる。私の手は凍りつく。
「………フィンゴン」
 そっと囁いてみる。私はどちらを望んでいるのだろう。こちらを見て欲しいのか、気づかないで欲しいのか。
 目線の先で兄は紫がかった灰色の瞳を緩やかに瞬く。そしてぱちりとこちらを見る。
「――、……なんだ、トゥアゴン?」
 呼んだか?呼んだよな?普段のようにきらきらと輝く瞳、輝きの名は好奇心。今なら、少し弟を案じる気持ち。私は小さく溜息をつく。
「……仕事はやめます」
「うん?」
「あなたの用を聞きます。けど」
 この前から私は少しおかしい。おかしいから良いのだ、こういうことを言っても。そう思う端からこうも思う。ああ悔しい。こんなことを言わせるなんて。………私は自分のささやかとは言えない自尊心にまた自分で傷をつける。
「その前に私をちゃんと甘やかしてください」

 兄はきょとんと目を見開いて、それから嬉しくてたまらないといったふうに笑った。
 そうかトゥアゴン淋しかったのかごめんなー兄ちゃん構ってやらなくって悪いことした!と叫んで頭を撫でくりまわしてくる。おとなしく撫でられながら私は兄の温もりを感じている。それはあの日に感じたような気がしたものと酷似していて、私は口を曲げる。泣きたいのか悔しいのか分からなかったが、ふと、あのひともこの温もりが恋しいのだと思った。するとあのひとも兄に振り回されているのだろうか。きりきりと精神をすり減らし、ささやかとは言い難い自尊心を傷つけられてのたうつことがあるのだろうか。

 いいや、それは多分、甘い恋の痛みというものに転化されて、ゆっくりと麻痺毒のようにあのひとを蝕んでいるのだろう。毒は私にも滲みている。恋ではない、恋ではないけれど。