……夢幻の園に花が咲く
眠りと忘却
君を抱く
ローリエン、ヴァリノールの夢の庭はまどろみの中にある。
休息の名持つヴァリエ、エステは眠りと望みのただ中を歩んでいる。光溢れるまひるの眠り、息吹上げる朝と清められた夜の望み。
重荷を忘れる安らぎは庭園から湧き出で、種々の夢を満たす。
銀と金の光の織り成すまどろみは、分け隔てなく誰の元にも届く。
その日、エステはいちめん雲のようなふわふわしたしとねに丸まるエルダールをひとり、見つける。
「ん?」
エステは彼を覗きこむ。よくよく知っている、ノルドの王、フィンウェが何故ここにいる?
手を伸ばして髪に触れる。頭を撫でて、雲の領域をぐるり、眺め渡す。銀と金のあわいの時間、ローレルリンの湖の真ん中。この奥に他に目覚めているものはいない。
フィンウェがふっと眸を開く。まるで雲のようにふわふわした声を上げる。
わあ、エステだ、彼は言い、眠りのただ中を彷徨う声で続ける。
「僕の夢って素直……」
ん?エステは首を傾げる。
「夢じゃないよ」
「えっ?」
「夢の雲の上だけど」
フィンウェもまたぐるりを見渡す。常の青みのない、茫洋とした灰色の眸がふわふわとさ迷う。
「ふわふわ」
「ん、ふわふわなの」
フィンウェはぱちりとひとつ、瞬きをする。
「えっ…ローリエン?」
「ん、ローリエン」
エステは頷く。ぱちり、ぱちり。瞬きをふたつ。フィンウェの眸に、冴えた青の輝きが満ちる。
「ええっ…?」
飛び起きたフィンウェは呆然と口を開けたまま固まって、それから眉をへにょりと下げる。
「ごめんなさいエステさま、」
そうしてほんのり頬を赤くして、すこし上目で言う。……来ちゃった。
エステは笑う。この子はいつも我慢強くて、張りつめている。
「よしよし、おいで」
両手を広げると、フィンウェはいっそう羞じらって、ええと…、とかもごもご言う。
おろおろさまよう手が上がり、左の耳を塞ぐように触れる。エステは小さく頷く。
「髪を結ってもいい?」
「え、」
顔を覗きこんで告げると、はい、かすかな声で応えが返る。
フィンウェの左耳には傷がある。耳だけではないけれど、しゃんと立った時に気づくとしたらそこだろう。すこし下がった、そのかたち。
傷を、隠すのはイヤ?向かい合って、長い黒髪を解きながら訊くとフィンウェは身をかたくする。
「逃げる、みたいで」
エステはうなじに刻まれた痕をそっと撫でる。逃げちゃだめ? 弾かれたように眸が下がる。
「だっていっぱい、逃げてきたのに」
「そう?」
「逃げてきたから、いけないのかなって」
俯いて、喉につかえる声で言う。揺らぐ思いを言葉にする。
「わるい夢みたいなもの…不安、なのかな」
ずっと響いてる。消えないんだ。
ん。エステは軽く頷き、言葉を待った。
「――“何かがあって心を捧げたひとに裏切られる”…」
重い塊を吐き出して、フィンウェは、ふ、と浅い息を続ける。エステを見つめて、笑もうとして、唇が震える。
……どれだけ親しくても。囁く声も、瞬きを忘れたような眸も燃えるような悲しみに満ちている。
「心をゆるすのは空しく無駄なことだと……言われているようで、」
エステは微笑む。フィンウェがまた、俯く。
「いろいろ、考える」
エステの領域は夢であって夢でなく、幻であって幻でない。あわいのただ中を歩み、安らぎの種を芽吹かせる。不安も恐れも他の何もかもを、形にするならば受け取って。そうでないなら、せめてひとりきりにならないように。
甘え方がわからないこの子は、自分自身にとても厳しい。
「愛するもののために、僕は自分を捨てることができるのか…」
後ろに回って、髪を編み始めると、フィンウェがふと、言う。
「自分に何があっても…友や愛しいひとを手助けすることが本当にできる?」
エステは答えない。答えを求めていることじゃない。
「誰を信じるの」
夢の雲、夢の雲、隠すことは何もない。
「何処へ向かうの? 学ぶべきことが溢れているのに」
フィンウェは小さく手を握りしめる。エステは言葉にならなかった思いを感じる。……氷と炎を越えて、石の荒野にひとりきりで、取り残されているようで……
「ここに率いてきたのに…」
やるせない声だ。思いながらエステは髪を編むのをやめない。
「望みと願いは変わらず僕の中にあるのに」
「ねえ、フィンウェ」
エステは声をかける。はっと伏せた目が上がるのを感じる。
「立とうとしてるなら、もうちょっと自分にやさしくしてあげなくちゃ」
フィンウェが息をつくようなかすかな笑い声をもらす。夢をみたの、幾分やわらかくなった声で続ける。
「見たんだと思う。銀の柳がそよいでる、金の雲雀が歌ってる、こどもが笑ってる…」
夢の雲がふわり、揺らめく。フィンウェは目を閉じている。
「こどもたち」
エステも繰り返す。こどもたち。夢の雲が影を紡ぐ。たくさんの。フィンウェが囁く。たくさんのこどもたち。
エステは形になった夢を見る。銀と金の光に彩られたそれは、確かに夢で、きっと未来のかたちだと信じられる。いろんなことがある。どれもほんとうに愛おしい。口に出さない、その心を感じる。
でも、……夢の雲に浮かぶ幻影のただ中で、フィンウェはとても静かに言う。
「僕はひとり」
エステは消えゆく幻を惜しむように問いを投げる。
「どうしてひとりなの?」
「…………」
フィンウェはまるで遠い響きを掻き消したいように左耳に触れる。そして、笑う。静かに笑う。花が咲く。ふわりふわり、雲の起こるように円い花が咲く。白い花が満ちあふれる。忘れた涙のように花が開く。
「……いらないんだって」
静けさに溶けた声でフィンウェは言う。じゃあ、
「僕も、いいや……」
ひそやかに風が吹き、いまや一面に花開く白い芥子を揺らして抜ける。
エステはフィンウェの頭を撫でる。髪を撫でて、左の耳のまわり、いっぷう変わった形にまとめる。
ほら、出来た。明るい声に、フィンウェがぱちりとひとつ瞬く。
「来てくれて嬉しいよ。迷子になる前に」
エステは言い、フィンウェの手を引く。花の揺れるそこは湖のほとり、覗きこむ。
澄みきった水面はどこまでもまっすぐに姿をあらわにする。
……沈黙。エステは水面から目を離し、翳りの深い目で泉を見つめるフィンウェを見守る。
触れられない傷がある。フィンウェもエステも、そのことは何よりもよく知っている。
ねえ、エステ。やがて、フィンウェが呼びかける。ん? エステは応える。フィンウェがゆるゆるとこちらを向く。白い花が揺れる。
そしてフィンウェは、後に彼を知るものすべてが思い描くであろう微笑みをはじめて浮かべた。
「私は大丈夫」
エステは息を飲む。微笑みを深くして、フィンウェは続ける。
「知りたいと思ってる。この世の叡知を、心の秘密を…。なにより愛の、甘い謎を」
ふわり、白い花が揺れる。その花弁がもう一度咲くように色を赤く変えていく。
鮮やかな赤に囲まれて、なんてつよい目だろうか!
「だから大丈夫。歩いていける」
エステは赤い芥子を一輪、手に取る。この子の憂いはおいそれとは晴れないものだけど。
「フュネラは眠りと忘却の花だけど、君には慰めかな?」
差し出す。目を伏せてフィンウェは受け取る。望みと願いを秘めた声で、はっきりと言う。
「それよりも感謝を。――進む道に」
彼は花弁に口づける。ふわり、花の色は、せつないほど鮮やかに匂う。
きっと、いちめん染めていく。
……花が咲く
無限の道に花が咲く
慰めと感謝
君の懐く