吾輩は雛型である。
名前は特にない。
吾輩の姿かたちを持つ種族の名はカザド。偉大なるマハルの創りし、頑健な一族である。
さて吾輩はこうしてマハルの工房を日がないちにち眺める栄誉に浴しているわけだが、最初からここにいたわけではない。
マハルはカザドの仕事が済んでしまうと吾輩を物置に片付けて、ごくたまに顔を覗かせては何やかやを置いていく――そんなことを続けていたので、 吾輩はそのうち移り変わる光を隙間から眺めるだけになってしまった。
マハルは吾輩に魂のようなものがあるとはご存じないのだから仕方ない。
しかし魂も使わずにいると錆び付くものなのだ。吾輩の思考や視界は曇り、小さく凝り固まっていった。
そうしている間に時は過ぎ、マハルの館にもかねてより待ち望んでいた種族が現れた。
彼らをマハルはエルダールと呼ぶ。
隙間から時折光を横切る細長い影を、吾輩は偏った視線でねめつけたものだ。
吾輩の魂がもっと力あるものであったら、あの光の下にいられただろうに。
……その、光を横切る影の中から、ある日、猫の忍び寄るようにこの室へ滑り込んできた者がいる。
どの影とも毛色の違った彼は、きょろきょろと室を眺め渡し、手近な物を取っては別のところに置き、忙しなく室を掘り返した。
文字通り、掘り返されたのが吾輩である。
彼は温い指で吾輩の髭をそっと撫で、いささか幼い仕草で呟いた。
………、ひげ…?
途端に外から呼ばれ、弾かれたように肩を跳ねさせて、するり、室を出ていった。
吾輩は掘り返されたものの上に置き去りである。
視界が開けたのは良かったが、この散乱は頂けないと思う。
彼の名はマハタンという。
動かない吾輩が何故そんなことを知っているかというと、彼があんまりにも繁々と訪ねてくるからに他ならない。
掘り返したものを片付けに来たのか、良い心がけだと思った二度め、マハタンは更に物を散乱させたあたりでまたも呼ばれてばたばたと出ていった。
おいこら。悪化したではないか。
三度めには室の前でごにょごにょと言い訳してから引き留める声を振り払って飛び込んで来た。
四度め、五度め、そこらを越えた頃には、掘り返すのにもちゃんと目的があったようで、吾輩の目にもだんだんと整頓されていくのが見えてきた。
その頃にはマハタンは来るたびに懐から柔らかい布を取り出して、吾輩のことを拭くようになった。良いぞもっとやれ。頻繁に来るのでそう埃が積もるわけでもないのだが、丁寧に扱われるのはやはり嬉しい。
訪問が二十を数えた位だったか、すっかり整頓の済んだ室、吾輩はその真ん中に鎮座……しているわけではなかった。マハタンが大真面目に吾輩を話し相手にするからだ。
今日も円い何かの仕組みを前に、回してみたり転がしてみたり、たぶんこうだな、うんそうだ、ほらここ、組み合って回るんだ、……吾輩に向かって口に出す。吾輩は頷きもしないが、彼は楽しげに話を続ける。
……で、誰かに呼ばれて慌てて出ていく。
おぬし、そろそろここに呼びに来ればいいと思われていないか。
そんな室を吾輩が出ることになったのも、当然、マハタンの手によった。
やって来てすぐ、吾輩の埃を払っている時だった。他のどんな時よりも耳を引く声がやわらかに聞こえた。マハタン? いるの? マハタンは今まで一度も出したことのない声で明確に返事をした。はい! そして、おお、吾輩を腕に抱えたまま室の外に飛び出した。
「元気そうだね」
マハタンが答える。まあまあです。相手が笑う。吾輩は思っていたよりも眩しい光におののいている。
「どうしてここに?」
「ちょっとね。君の顔も見たかったし」
「アウレさまには……」
「もうお会いしたよ」
マハタンの声がずいぶん弾んでいるので、よほど大事な相手だということは分かる。しかしこちら向きに抱えられていては吾輩には何も見えない。
「それは?」
「え、ああ」
そう思った時やわらかな声が尋ね、マハタンは吾輩の顔を相手に向けた。
ああ、と相手は吾輩を見て軽く目をみはった。
おひげ、と円やかな声が言い、つめたい細い指がさらりと吾輩の髭を撫でた。
「カサリはこういう姿をしてるのか」
彼が微笑んで言うのにマハタンはぱかっと口を開けた。おぬしまさか吾輩の素性も知らなかったのか。
か、カサリって、あの…。詳しくはアウレさまにお聞きよ。戸惑いの極みみたいな発言にも彼はにこやかに返し、もう行かなくちゃ、今度は吾輩の頭をするりと撫でた。
「炉の方に集まってたようだけど、君は良いの?」
良い筈がない。いつも誰かに呼ばれて走り回るそこつ者なのだから、これも当然マハタンの用事だろう。
ころころ笑いながらお行き、と示して彼は去った。マハタンは炉の方に向かって走った。
……吾輩を抱いたまま!だ!
吾輩がかつて一度みた炉、そこはすっかり様変わりしていた。いや、ここにこんなに詰めかけているのを見たことがないから、そのせいかもしれない。
みなでひとつの炉に集まって、中央の作業を見ている。マハルの作業ではないらしい。作業者のすぐ傍におられるが。
マハタンは入口すぐの壁の棚に吾輩を据えると、そそくさと人集りに加わった。うまく紛れたみたいな顔をしてるが、飛び抜けて大きなその図体でそれは無理というものだ。……でかかったんだな、おぬし。
おかげでどうだ、マハルが見ておられるぞ。
気づけ。熱烈に見られてるぞ。うらやましい。
……マハタンは全く気づかずに作業者の手元を見ていた。でかいのは良いことだと言わんばかりに後ろからでもきちんと見えているようだった。瞬きが極端に少なくなり、およそ炉からは遠い目の色が炎に炙られるように溶けていくのが分かった。
その、とろけるような目を、マハルは見ているのだと思った。
マハタンはあの室でマハルのことを語らないが、いったいどういう立場にいるのだろう。
以来、吾輩の定位置は工房の、炉室の入口になった。
とんだそこつ者と思っていたマハタンは、工房では驚くほど気のつくまめな奴だった。万事黙って控えめに、しかし確実にこなす。寡黙な奴だと思われているようだった。おい、あの室でのおしゃべりはどこにやった。炉室の出入り時には、吾輩を見るとゆるっと笑う。この前は埃を拭いながら良く見えるだろ~と少し自慢げに言った。
それをマハルがたびたび見ておられる。マハタンは気づかない。おいだから気づけ、そこつ者。
マハタンがそこつ者なのはともかくとしても、マハルのお気持ちも吾輩には良く分からない。たびたびマハタンを じっと見ておられるが、特に声をかけるでもない。近くにいるわけでもない。むしろ吾輩はマハルがマハタンの近くに寄るのを見たことがない。
しかしながらマハルが没頭している時、エルダールにも分からない、御自身の御言葉で話される時、……まあつまり大興奮有頂天作業中だ、その時に助手のような役割で近くにいるのは必ずマハタンである。
手助けすることなど殆ど無いに等しい。ついでにマハルが何を話しているかも分かってはいない。思いっきり分からんという顔をしている。しているが、けれど、マハルが求めるものは間違えない。作業を無駄にさせることは決してない。
間近で見られるのが楽しい、たぶんそれくらいのことしか思っていないのだろう。あのとろけるような目で思う存分見て、そして、マハルの醒める前にするりといなくなってしまうのだ。
吾輩が動けたなら、せめて言葉を発せたなら、あのそこつ者を留めることも出来ただろうに。
醒めやらぬ奇妙な顔をして黙りこむマハルに何度そう思ったかしれない。
事件が起きた。
炉室であるから予想して然るべきだったのかもしれないが……不幸な事故だった。
結果がこうだ。マハルとマハタンは今、大炉の前で向かい合っている。マハルは酷い顰め面で、マハタンは酷い怪我をして。
火傷である。熱傷と言っても良い。左の肩から腕全体、左の眉の上、それから引きずる左脚。火を浴びたのだ。だのに傷の方を相変わらず炉に向けて、きっと何で怒られているのか分からんとかそういう顔をして、マハルの前に立っている。吾輩からは背中しか見えない。
「……私が私の工房で傷つく筈がない」
ぼそぼそと、他に誰もいないのに低い声でのやり取りだったが、突然マハルが声を荒げる。と思う間もなく、マハルは燃える炉の火に腕を突っ込み ――マハタンがびく、と肩を揺らした――燃え盛る手を眼前に露わにした。
一振り。炎の塊は炉に戻り、ちらちらと踊る火の彩が指先に踊る。
二振り。その熾も消え失せ、色の変わった手が、ひらり、揺れて。
三振り。赤みすら何事もなかったように、ただ良く知るマハルの手がそこにある。
「でも」
今度はマハタンの声が聞こえた。その身体はクウェンディのものを模したと。熱さも痛みも感じないわけではないでしょう。守りたいひとを守るのは間違っていますか。
荒らかな声で言い、マハタンは歯噛むような息をつく。炎がばちんと弾ける。
「――俺はあなたを守りたい」
激高が嘘のような静かな言葉を渡すと、マハタンは振り返った。まるで泣きそうな顔をして、脚を引きずり、吾輩の前を駆け去って炉室を出ていった。傷のせいで結えなかったからだろうか、垂れた髪が余計に幼い顔に見せていた。
マハル、マハル。追いかけるなら今ですぞ。吾輩は呼びかけるが、声が届くわけがない。ああ、マハタン、おぬし見逃したぞ、あれは火の照り返しではない……マハルが真っ赤だ。
そんなことがあったものだから、二人の距離は縮まったような、逆に遠ざかったような、吾輩には良く分からないことになってしまった。マハタンはああいうことを言うくせに猫のような態度が変わらない。
最も、マハルがその猫に構い倒すようになったから、最近は炉の前だけでなくしょっちゅう並んでいる姿は見られるようになってきた。マハタンを呼ぶのは誰かではなくマハルになった。マハタンがどこかの室に消えることは減った。
しかしながらマハルがあんまりにも構う、というか――距離が近いというか……まあそのなんだ、工房へ用があってやって来たエオンウェが去り際、 吾輩の前でぼそりと呟いた言葉を借りれば「セクハラ…?」ということになる。いや、吾輩はちゃんと分かっている。ちょっとマハルは踏み込みすぎてるだけなのだ…
考える吾輩の目線の先で、マハルは何やかやと言い抜けて行こうとするマハタンを今まさに壁に追い詰め、ひっ、とマハタンが身を竦め、マハルが更に覆いかぶさり、
ぎゃっ、と声が上がり、マハルがばたん!と倒れた。
なんだなんだ。何が起きた。マハタンは真っ青になって倒れたマハルを暫し見つめていたが、ぱっと身を翻して駆けて来た。
「ああああああああ」
まさかの吾輩を抱えての逃走である。
「どうしようどうしようどうしよう」
繰り返しながら逃げ込んだのは懐かしく思えるあの室だった。ぎゅうぎゅうと吾輩を抱きしめて言うことに耳を傾ければ。
「どうしよう、蹴り、入れちゃった…」
吾輩は思った。あれはせくはらだ。仕方あるまい。と――
マハタンが炉室の入り口から吾輩の顔をそっと差し入れる。待て吾輩が見てもおぬしにはわからんだろうに、何をやっているのだ。そっと覗き込んで、マハルがいないのを確認して、さっと飛び込む。
吾輩を定位置に戻して、髭を撫でた。はあ…。溜息。
マハタンがしょげた歩みで去るのを聞いて、数拍。
「怖がらせた……」
炉室にわだかまる闇から、重苦しい声が響く。マハル、その状態の方がよほど怖いです。吾輩も溜息をつきたくなった。
―――というのもずいぶんと昔の話になる。あれからマハタンが結婚したり、マハルがうっかり家を建てたり、色々とあったが、今やこれである。
炉の前で上機嫌なマハルが御言葉で歌っている。その背後をするりと歩むマハタンは何故か今日、鼻から下を布で覆っている。森のような眼ばかり覗かせて、すれ違い様、マハルの髪をぐいっと引っ張る。
「ぎゃっ」
マハルの叫び声に一瞥すらくれないで、マハタンは吾輩の前に来ると、吾輩の髭を撫で、自分の顔の布を下ろす。
………あ。
にや、と笑うとまた布を戻し、ちらりと後ろを見る――むっつりとしたマハルがこちらへやって来る。
そして逃げ去ったマハタンの後には、顰め面のマハルが吾輩の前に立つ。
「お前は撫でられてるのに、私は最近つんつんされてばっかり…」
ぼやくとマハルは吾輩の髭を辿るように撫でる。
嫌われなければそれでいいと仰ったのは誰でしたかな、マハル。聞いて欲しいことがあったのですよ。マハルが火に夢中だから、いちにち内緒にすることにしたようですが。
吾輩が思うがマハルには伝わらない。それからだいぶ長いこと、マハルは吾輩の髭を撫で続けた。
吾輩は雛型である。名前は特にない。魂のようなものがあるということも、誰も知らない。
だが心配することはない。
明日にはマハタンはマハルの前で厳かにこう言うことだろう。
「アウレ、重大発表があります」
「な、何かな」
とびっきりの笑顔で告げるのだ。
「俺に髭が生えました!」
吾輩はちゃんと、分かっている。こうして見守ってきたのだから。