エレイニオン、マンドスに行く

【その1・来た早々笑われてみる】

 ああこれは死んだな、と確か思ったような気がするが、ふと気づけばエレイニオンは、五体満足に痛むところもなく、ごくごく普通にくつろいだ状態でその空間に立っていた。
 灰色の空間と、扉が3つ。と認識したとたんに、真ん中の扉の前に立っていた人物が言葉を発した。
「おかえりなさい、エレイニオン。ようこそ、マンドスへ!」
 ―――マンドス?
「私は案内人のエイセルロスです」
 エレイニオンは大きく瞬きをした。
 目の前のエルフの外見をした彼は、妙にエレイニオンの記憶に引っかかる姿をしていた。その、金髪。
「…スランドゥイル…?」
 つい呟いた言葉に、エイセルロスはきょとんとした。
「ああ、あの子の知り合いですか?」
「知り合いというか…」
 絶賛初恋続行中だ。
「評判はよく聞くんですよ。会ったことはありませんが」
 にっこり。エイセルロスは笑うと、あ、と声をあげる。
「ええ――と、失礼しました。おわかりですか?ここはマンドス。私は案内人です。しばらく私が案内しますので、よろしくお願いします。エレイニオンさま」
「あ、はい、どうも」
 彼が頭を下げるのにつられてこちらも深々と頭を下げる。
「あー…その、エイセルロス?」
「はい」
「つまり、私は死んだんだな?」
「そうですね」
「で、ここはマンドス…」
「はい」
「……うわー、やっぱり死んだのか…」
 言ったとたん、彼はひそかに、でも確実に――吹き出した。
 真面目な顔をしようとしているが、琥珀いろの目が思いっきり笑いに満ちていて、きっぱりはっきり、隠せてなかった。
「何か…」
「いえすみません、ちょっとツボに…!」

【その2・多少シリアスに湖の間を見学してみる】

「えー、まずはここの説明ですね。ここは閉じた空間になっています。あっちに行っても…」
 彼はエレイニオンの背後を指差す。
「……こっちから戻ってきます」
 今度は自分の背後を指差す。
「ぐるぐるっとね。回ってしまうんですよ。ここから出るには扉を出るしかありません。それが、この扉です」
 なるほど確かに扉だ。空間に、何の脈絡もなく建っている扉。そういえば、足元も床があるようでもなく、なんとも曰く言いがたい空間、が、あるだけだ。
「扉に入る前にですね、マンドスの仕組みを少し説明しておかないといけないんですけど…何かご存知ですか?」
「いや…。その、死んだら行くところ、という以外は何も」
 エイセルロスは、また何か笑いそうな多少しょっぱい表情をした。そーですよねぇ、と呟く。
「マンドスは、館の名前でもあり、霊魂の集う世界そのものの名前でもあります。死せるエルフの魂はまず館に入り、そこでナーモさまの裁きの時間を待って暮らします。裁きの後は3つの道が選べます。ひとつは、アマンへに肉体を得てふたたび戻る道。ひとつは、マンドスに留まり、ここで暮らす道。最後のひとつは、世界の終わりまでの長い眠りにつく道」
 彼は黒い扉を指し示す。
「その扉は“湖の間”へ続いています。私たちにとって、真の死とも言える、眠りにつく場所――ご覧になりますか」
 エレイニオンはもちろん、頷いた。

「ここが、湖の間です。……クウィヴィエーネンを模しています」
 月のない夜のような闇がそこにあった。
 けれども星明りは中つ国よりもよほど澄んで明るく、夜そのものが美しかった。
 丘といくつかの木、そして湖――そこはまるで、本当に、外のようだった。
 湖に、丘に、木のかたわらに、草の上に、大地の上に、ぼんやりと白く光る身体をもったエルフたちが眠っている。ある者はひとりで、ある者たちは寄り添って。
 エイセルロスは星明りにゆらゆらと、淡い金の髪を揺らして先を歩く。そして告げる。
「彼らは目覚めません。世界の終わる日までは。世界の終わる日、ここの全てのエルフは目覚め、天を仰ぐでしょう――かつて、はるか昔にクウィヴィエーネンでそうしたように。けれど今度目にするのは星ではなく、別の光か――それとも、闇か。それは誰にもわかりません。ただ、その日まで、彼らは眠り続けます。理由は様々あっても、ここで、安らかに」
 彼はやがて一本の木のそばで足を止めた。
「ミーリエルさまです。私がここに案内した最初の方。つまり、眠る理由を知っている方の最初でもあります」
 星の影のようにひっそりとたつ柳の木の下に横たわる女はひどく美しかった。
 エレイニオンは彼方遠く耳に残る昔語りを思い出した。このひとは、ノルドの王のはじめの妻。自分自身とは血の繋がらない曾祖母。
「……理由を、知らないひとも、いるんですか」
 口からこぼれたのは、父にすら言ったかどうか怪しいほど丁寧な口調での言葉だった。
「いますね、たくさん。私の知っているエルフでここに来た方は少ないんです。ここにいる方の多くはクウィヴィエーネンで行方知れずになった方、獣に襲われた方――そういう方々です」
 エイセルロスはまた歩みはじめ、丘のひとつへやって来た。丘へ行くのかと思えば、下りにかかって湖へ向かう。
 丘には数人の金髪のエルフが眠っていたが、その中のある寄り添って眠るふたりの男女のそばを通ったとき、彼は何でもなさそうに言った。
「ちなみにあのふたりなんかは、私の両親です」
「え!?」
「いやー、生まれて10年かそこらの時以来会ってなかったんで、いまいち確信はないんですけどね…」
 あっはっはと嘘っぽい笑い声をあげて、彼はさらに丘をくだり、湖のほとりに立つ。
 その周囲に、他のエルフはいなかった。ただ、柔らかな草の上に、3人のエルフがごちゃっとひとかたまりになって眠っている。金髪、銀髪、黒髪。
 エイセルロスはとても悲しそうな、嬉しそうな表情をした。
「この方々は、私たちの最初の長、最初に目覚めたクウェンディです」
 エレイニオンはふと痛みのように懐かしさを感じた。クウィヴィエーネン。忘れかけた記憶。遠く、遠くへの旅。ああ、みたのは、この湖ではないのだ。
 けれどここはここに眠るエルフたちの追憶のクウィヴィエーネン。母が持っていたのと同じ。
「……ここには、様々なエルフを案内します。あなたのようにマンドスへ来たばかりの方もいれば、ここで眠る身近なひとに会いに、やってくるひともいる。けれど彼らは目覚めません。呼んでも応えはない。最後に――夢を共有して、眠ることを選ぶ方も、います」
「――あなたは?」
「私、ですか?」
 案内人は微笑んだ。
「私は、眠りたいとは思いませんね」

【3・妙な体験もしてみる】

 “湖の間”にも何の脈絡もなく扉がたっていた。入ってきた黒い扉だ。
 ところがその横に、入ってきた時には気づかなかったもう1枚の扉があった。やはり黒いが、まるで光沢がなく、夜に紛れるようだった。
「この扉は?」
「それは開かずの扉です。開きますけど」
「はぁ?」
 エレイニオンはその扉に触れ、開けようとしてみた。…が、いくら力を入れて押しても引いてもさっぱり開かない。
「……充分開かないぞ」
 エイセルロスはちょっと困った顔をした。
「らしいですね」
「らしいも何も、ほら、この通り」
 押しても引いても、もちろん横に引っ張っても扉はちらっとも開かなかった。
「その扉の向こうは、人の子のしばし留まる場所があります」
「―――え」
 半ば意地になって扉に立ち向かうエレイニオンに、案内人はなんでもなさそうに言った。
「人の子が船出する外なる海の岸辺へ続いているのです。かつて、ルシアンは2度この扉を通り、そして2度と帰ってきませんでした」
 人の子。ルシアン。外なる海の岸辺。
「いってみます?」
 エレイニオンは眩暈を起こしそうになった。案内人は続けた。
「いっても、人の子と話せるかは分かりません。すべて運次第です。人の子の岸辺に留まる時間はあまりに短い。それに、留めることはできません」
 彼はちかづいて、扉に手をかけた。
「ヴァラールでさえ」
 音もなく扉は開いた。

  *     *

 エレンディルと本当に別れを告げて戻ってくると、エイセルロスは曖昧な微笑を浮かべて立っていた。何かを恐れるような、全てを祝福するような笑みだった。
 エレイニオンの胸はずくんと痛んだが、彼の琥珀の瞳を見ているうちに落ち着いた。
 そして彼らは、またあの灰色の空間へ戻った。白い扉を示して、案内人が言った。
「この扉は外のマンドス、現実世界のアマンへ通じています。私たちのいるここは霊魂のマンドス、現実ではありません。今からあなたはこちらの扉をくぐるのです」
 エレイニオンは続いて示された灰色の扉を見た。
「こちらは霊的なマンドスへ続いています。霊的なマンドスは霊的な世界そのものの名でもあります。館の外も霊的な世界です。現実の世界へはただ、白い扉だけを通って行くのです」
 案内人は白い扉に目を向けたが、エレイニオンはそんなエイセルロスの顔ばかり見ていた。おかげで、次の言葉に違和感を覚えた。
「白い扉は、ナーモさまの裁可を受けた者にしか開きません」
「………それ、嘘だろう」
「あれ」
 エイセルロスはくるりと振り向いて、すこし笑った。
「わかりました?」
「…なんとなく」
 案内人は苦笑した。
「ほんとは開くんですけどね。誰にでも。ただ、肉体を持って蘇れないってだけです。で、誰にも気づいてもらえない上に、連れ戻されるか帰ってきたらマイアールにお説教ですよ。やってみます?」
「……唆されてもごめんだ…」
「賢明です」
 エイセルロスは笑顔を「にっこり」に変えて、続けた。
「白い扉を通って現実に蘇ったエルフは、再び命を落とさない限り、霊的なマンドスへ戻ることはできません。…で、白も黒も灰色も、扉は全部、私が案内しないとちゃんと開きません。ですから、見学したいとかそういう時は言ってくださいね」
「あ…、はい」
「では行きましょうか。覚悟はいいですか?」
「は、はい」
 なんの覚悟がいるんだろう?と一瞬思ったが、なんとなく返事をしてしまったエレイニオンは、そのまま、すべるように開いた灰色の扉を見た。そして音楽を聞いた、と思った。それから、言葉を聞いた。

「エレイニオン、ようこそ、マンドスへ!」