百万世紀の愛の歌

 お前はいない、私はここにいる。
 男や彼がお前だったのかどうか私は知らない。
 百万世紀を生き抜くためには、どちらでも関係ないのだ。

 誓言を立てて、自分を戒めた。でなければこの心が、眼が、頭が、いつまでもいつまでもお前の幻影を見続けると分かっていたから。
 長く続いた戦が終わって、お前は逝ってしまって、同族たちも次々と船出していって、私ばかりがこの地上に残った。
 ひとりでいるのが辛いわけではない。
 星の海を渡る船をただひとつだけ残して、同族は皆行ってしまった。
 離れ行く。枯れゆく。
 地上からはものみなすべてがかれてゆく。
 戦は終わったけれど、ひとや他の生き物は多く残っていて、そうである以上いつかはまた戦が起こるのだと、知っていた。同族はそれを厭った。もう二度と、戦などするものかと言って、戦のないところへ行ってしまった。我らの故郷。戦を知らない至福の地。

 私はお前を喪った。

《かれゆくものは心のどこかにあった泉のような気がした》

 その山は『常に寒きところ』と呼ばれる。
 雲をつくほど高いわけではないその山には、赤い髪の天人がいつからか住んでいる。

 昔、戦があった。天と堕天したものとの戦は、この地上にいた天人のほとんどすべてを故郷へ帰らせることになった。
 人の子たちは遥か昔からそうであったようにこの地上に生き、栄え。
 天人たちは遥か昔、そうであったようにこの地上から去り、消え。
 それこそが秩序だという者もいる。

 天人の住まいには人の子は訪れない。――獣や鳥は訪れるのかもしれない。だとしても、それを見た人の子はいない。噂だけが流れる。
 赤い髪の天人は、誰かを待っている。
 待ち続け、この地上に残ったのだと。
 噂を乗せた冷たい風が、今日も戸口を抜けていく。

《寂しい戸が大気に立ち向かっている》

 赤い髪の天人は時折月を眺めて舞うことがあると言う。
 そんな噂が流れていることを知り、当の天人は密やかに笑った。
 ここには誰も訪れはしないのに、なぜそんなことが囁かれるのか。
 『寒き山に住む赤い髪の天人』の噂は、実体を持たずに彷徨い歩く。
 けれどそれが嘘ばかりでないのも事実。
 人の子が天人について知らなさ過ぎるのは、逆に天人にとって安らぎを生んだ。
 力なき者として扱われていればそれでいい。誓言を違える気はない。私は人の子を自ら助けようとはしない。

 夜が訪れると赤い髪を月光にさらして、天人はじっと大気の中に立ち尽くす。
 薄い色の瞳がきりりと光るのも、それがどの星を見つめ、あるいはどの彼方を見つめているのかも見知った人の子はまだいない。

《月に涙を拭う手があればその頬に触れていただろうに》

 天人といういきものは人の子にとってはただひたすらに「美しい生き物」だ。
 その種族の本当の美しさも、力も、人の子の歴史の中に伝わることはなかった。すでに去ってしまった種族を求めて何とする? 権力を持つ者にも、そうでない者にも、天人というのは伝説にのみ残る生き物であった。
 そうなるのは知っていた、と赤い髪の天人のどこか深くで声がする。
 これでいい。
 これがいい。
 力を求められても返せない。

 お前を喪った私に、私が与えられる罰はひとつしかなかった。

《この地上、この身がそぐわないことは知っている》

「『常に寒きところ』へ何用か?」
 声をかけたのは何故だったのか、今でも天人は思い出せない。
 人の子の、そして天人の住まいから近いわけではない山の中で、男に遭った。いや――男をみかけた。黒髪の、人の子にしては酷く背の高い、そしてまだ若い男だった。
 男は振り返り、天人を見つめ、一瞬、何かに耐えるように目を眇めた。
「……天人に、訊きたいことがあった」
 恐れるようにどこか頼りなげに返された声は、天人の耳を震わせる。眇めた目の、茫洋とした紫色が、天人の眼を惑わせる。

「なんでひとりでいるの」

 あどけない声音で訊かれたことに、天人は困り果てる。
 男は笑って、もう一度、しっかりと訊いた。
「なあ、なんでひとりでいるの」

 天人は困ったまま動かない。男は笑っている。
 日がゆっくりと沈んでいく。

《その後の心境はと言えばすいぶん凪いだ、としか言い様がない》

 男はずけずけと天人の住まいに入り込み、するすると天人の心にも顔を覗かせ、今は天人の腕の中に勝手に納まって、太平楽な寝息をたてている。
 図体ばかり大きな、大きなこども。
「……君は私の王に似ている」
 赤い髪を握りこみ眠る男を、天人は幾分愛しげな眼で見ている。

 私の王、私の可愛い子、私のお前。
 私が喪った、お前。

 男が眠りながらも髪をあんまり引くものだから、拘りもなく束ねるだけだった赤毛はすでに溢れほどけて、帳のように男をくるんでいる。
 懐かしい。母と父もよくこんな風にひとかたまりになって寛いでいた。

 思い、ふと天人は眼を見開く。
 ……やがてその表情は『微笑み』になる。

《乱れた髪を静かに撫でるのが好きだったのは誰だった?》

 男を放り出すように街に帰してから一月が経つ。
 天人は戸惑っていた。

 嶺の上からめぐる日と月を眺めてみた。
 淵を覗き込んでめまうような青と緑に震える息を吐いてみた。
 
《もう一度あいたいと思ってた、そう、囁いた》

 天人は幼子の手を引くように男の腕を掴んで、一言も口を利かずに山を進んで行く。男もまた、問いただすこともなくおとなしく後をついていく。
 赤い髪がさらさらと揺れる様に、男は何かを思い出したような気がする。
 黙ったままついてくる熱に、天人は何かを求めてしまったような気がする。

 あの子は。
 入り組んだ道を登り降り、男を連れて向かうのは、多分、天人のやさしさというものに包まれた場所であって、男には何の感慨ももたらしはしない。感動はするだろうけど。
 わかっていて、天人は、やって来た男をそこへ誘わずにはいられなかった。

《それは、昔の花の咲き匂う庭》

「あんたが繰るから来るんだよ」
「それではまるで私が君に手綱でも付けているかのような言い方」

《来る道、繰る道だ。呟く。》

10

「――、って、誰?」
 男が無邪気に――聞いた。
 赤い髪の天人はひゅっと息を呑み、それから緩々と笑ってみせた。
「どこで聞いた?」
「あんたが言った」
「そうか」
 天人は薄く息を吐き、笑みを深くした。
「言うだろうか。言うだろうな」
 男は手を伸ばす。髪に触れられても、その髪を指に絡めて引かれても、天人は何もいらえを返さない。男は鬱々と沈むように髪ばかり弄っていたが、また問うた。
「それでおれは、答は貰えないのか」
 ちらと上げた目線の先で、天人は遠くへ飛ばしてしまった眼で言う。
「従弟だ」
「――恋人だろ」
 男は嘲るように眉をしかめて、そのくせ哀しい眼で言った。

《あんた、昔ばかり見ているな》

11

 夜の散歩に連れ出したのは男の方で、そのくせ寒さを考えに入れていないものだからくしゃみばかりしている。
 私の半歩前を歩く、その後姿が、足跡が、時折掻き乱される髪が、くしゃみの前にわずかに跳ね上がる肩が、無性に愛しい。
 月の光よ!
 そのままもっと梯子を降ろしてくれ、精霊よ!

《……雲から射す月の光を、我らの言葉では精霊の梯子と言う》

12

 男は私の膝で眠るのが好きだ。
 お前も好きだったが、滅多に叶えてやることができなかった。
 けれど。

《逢えたのだから、良いだろう?聞こえていなくても構いやしない》

13

 戦の記憶が薄れたのを喜びこそすれ、疎むわけがない。
 あの戦がいかに凄惨で哀しいものだったのか。
 そこから得た反省を伝えるのは人の子にとっては重要なことだろうが、私には――私の種族にはその必要がない。
 忘れられないのだから。

 あの戦で屍のかえらない死に方をしたのは、何もひとりだけではなく。
 けれども、お前は王であったから。
 晴れがましい象徴であったから。

 湿った塊を掴んでああ心臓だと思った。
 濡れた臓腑を、布のようにまとわりつく皮膚を、そして突き出した骨を、砕かれ貼りつく鎧を拾った。これは首。これは肩。片方の耳。愛しく、狂おしく、千々に引き裂かれたお前を拾い集めた。私は。

《生きながらえたなら今度こそ育む者になろうと思った》

14

「天人は死なない者だと思ってた」
 男が目を丸くしている。天人は笑う。
「時の流れの果てには死が存在しない」
 人の子のように、定められた時間を持って生きているものではない。
「――が、殺されれば死ぬ。君たちの言う『死』と同じかどうかは分からないが」

《今はもう去り行く種族だ》

15

 どんな宝玉もどちらかと言えば辛い記憶を刺激するだけだったが、真珠は愛しい記憶の方が多いものだった。
 いつ、そんなことを口走ったのかは覚えていない。ただ、数ヶ月ぶりにやって来た男は、まるで尾を振る犬のように天人に擦り寄り、手柄を報告した。――つまりそれは、彼が海で働いてきた結果であり、天人の手を山と埋める白く円い宝玉だった。
 望郷の念をたやすく運ぶ海……それから逃れるために山に住んでいるのかもしれない。だが今天人が感じているのは安らぎと、少しばかりの悲しみと、最も大きなのは喜びだった。
 海の宝玉は愛しい幼なじみを思い起こさせ、天人の表情はいっそう和らぐ。男はそれを見て笑う。
「あんたの事を考えながら海に潜ったらこんなに採れた」
 衝動がつきあげる。天人は追憶に口づけする。男は受け入れる。
 手が力を失って、真珠が零れる。後から後から零れていく。

《零れる真珠が床を埋めてゆく。ほろほろ、ほろほろ、ほろほろと》

16

 白は私に似合う色じゃない。
 白はお前にも似合う色とは言いがたい。

 ところで、笑ってくれ、私はお前といるといつも真白になる。

《白に惑う。埋もれて、手も足も何もわからなくなる》

17

 例えばそれは、高く澄んだ響きだ。
 希う響きだ。
 張り詰めた空気を打ち破って、深山の奥の奥まで、しっとりと濡らすように響く。

 男がいないなら、いないで、それで、
 男がいるなら、いるで、それで、
 私はどちらでも幸福で、そしてかなしい。

《寝転んだまま、物悲しい声を聞いていた》

18

 落ち葉が来訪を告げるのは心地よいものだが、……やはり悲鳴、なのだろうか?

《こうやって、葉の心を聞いている。彼が帰ってくるまで》

19

 なぜ、私は安穏としていられたのだろう?

 私が山を出て男の死に際に遭うというのは運命か、呪いか、――もしや、祝いか。
 お前の死には間に合わなかった。
 男の命が潰えていくのを私は見ている。男が微笑む。私を呼ぶ。
「あんたが生きてて良かった」
 ばかげたことを言う。天人は死なない。私は殺されない。
 誓言のことなど頭から消えたと思った。私は男を癒そうと思う。これは私の罪、私の罰、誓いは立てたが破ったとて何が成されるわけでもない。戦の終わりにそれらの誓いをたてる相手を我らは皆失い、他には誰も誓いなど立てなかったのに。

 いなくなるのなら。

 男が笑った。

《それくらいなら誓言を破る。思ったのに、なぜ、私の手は動かなかった?》

20

 以来、寒き山に住む赤い髪の天人は街へは来ない。

《忍べぬ思いだと、知っていたのに》

21

 昼は長く夜は浅い。その季節に天人はのたうち回る。
 寒き山の寒き庵、眼はただあの幻影を見て、耳は消せない記憶をたどる。

 お前の亡骸を拾い集めた時。
 男の屍を抱いて歌った時。

《そう、この季節が私を苛む》

22

 深淵をもう一度覗いたからと言って、心配するようなことは何もない。
 私はすでにお前を喪い、そしてまた男を喪い、

《――今日も淵に立つ》

23

 消えない火を望んだ賢者は水に閉じ込められた火をつくることになった。

《私はひとりで、火色の水を見つめ続ける》

24

 天人は幾つもの日と月を数え、ある日、搾り出すようにひとつ言葉を闇に投げる。

《独り寝など、慣れている》

25

 時間というものを改めて感じることになった。苦しいと思った。
 お前がいない。
 男もいない。
 実際のところ、男がお前の魂をほんの少しでも持って生まれた存在かどうか、私は知らない。ただこの空しく過ぎてゆく罰に――自分で決めた罰になぜだか救いを求め、見出してしまっただけのこと。そして、やはり、正しく、罰が降って来た。

《空しく過ぎる時というものは私には何も残してくれない》

26

 山の上に火が灯る。

《灯火を見つめていると心が休まる》

27

 数日飢餓感が消えずに虚ろな眼を見開いていた天人は、ふと、肺を震わせて笑い出す。
 笑って、笑って、それから立ち上がる。

《じりじりと心が炙られている。――海へ。海へ!》

28

 私の為に残された船は隠された入り江にひそりと佇んでいた。
 ここまで来て海を見れば、或いは船を見れば、この心が落ち着くかと思っていた。
 海は――船出は、故郷へと繋がっている!
 私は残った理由も何もかも忘れて、ただ故郷に行きたいと思っている!

 声をあげて泣いてしまいたかった。
 誰の名を呼べば良いのか分からなかった。

 岸辺から海に踏み込んで、船を愛撫するように指でなぞった。
 私の為に残された船。私が故郷へ行く気になる日まで、ここに佇み続けることを約束されたもの。
 握り締め、叩きつけた拳はぞっとするほど力の入らない、弱弱しいもので、私は笑い声に聞こえる息をただひとつ、ついた。

《船を出して、行こう。すっとそう思った》

29

 寄せて返す波は、確かに沖へと向かう力を持っている。
 櫂を漕ぐわけではない。
 帆を張るわけでもない。
 
 それでも確かに船は沖へ――やがては、空へ、そして真っ直ぐな道を辿る。
 海に手を差し入れれば、思うよりも進む力の強いのに気づく。

 潮に濡れた右手を見つめる。そこに水滴が落ちる。私は左手で額を押さえる。

《私の袖はとにかく濡れてしまう。塩辛い水に》

30

 故郷にいきたい。
 寒き山に帰りたい。

《帰ろう。私は再会を待ちたい》

31

 寒き山の天人の噂はどうやらまた少し変化したようだが天人はその詳しい内容までは知らない。
 ただ、住まいは『憂いの庵』と呼ばれ始めたと聞いた。

《憂いの庵、それはまた似合いの名ではないかと思い笑いがこみあげた》

32

 それから穏やかな時がまた長く流れた。

《名は朽ちてゆくもの。名と同時に、私も朽ちていっているのかもしれない》

33

 嵐の夜に読めと言われて手渡された手紙があった。
 とうに無くしてしまったが、その文面は忘れがたい。
 結びの言葉がこうだった。
 『あんたの不在は死ぬほど辛いが、来て欲しいとは思わない』
 私は嵐の夜に出て行くことはなかった。

《この嵐はあまりに長く続く》

34

 償え、そういう声が耳から離れない。
 あれはいつのことだろうか。

《年月と身がうまく合わせられない。私の心は倦み疲れる寸前なのだ》

35

 自分で決めた罰であるのに、何に対しての罰か忘れそうだ。

《楽な道を請いはしない》

36

 私はお前をたびたび待たせたつもりだが、お前は待たされたことがあったと思っていただろうか。私はお前に待たされたことはなかった。

《来ないひとを待っていると風がからかう。――いや、彼は来る》

37

 闖入者、いや私は歓迎している。
 ちいさなこども、この山への訪問者。
 『憂いの庵』は噂こそ多いが、やはり山の中でここへの道を探し当てる者はほとんどいない。
 それでもこどもは黒髪を揺らして、煙る紫の目を輝かせて、挨拶を叫んだ。

《訪問者の声が耳について離れなかった》

38

 赤い髪を織り込んだ。
 長く伸ばした髪を落とせば、その軽さはそのまま心の軽さ。
 だが、こども?
 ――私は何を繰り返そうとしている。

《久しぶりに織った布は乱れ模様の渦を巻いていた》

39

 お前は私の幼なじみの子。
 お前は私の叔父の息子。
 お前は私の従弟。
 お前は私の最も親しい友人。
 お前は私の王。

《確認を、どうか、させてくれ》

40

 誰も来ない朝を待って夜を明かすのなど慣れている。

《お前の来ない朝を待つことなど慣れている》

41

 どうか、お前が私のことを忘れますように。

《祈りの行方がどこかなど考えもしないでただ祈った》

42

 川が凍る頃には寒き山は閉ざされる。人の子など来はしない。動物ですら遠ざかってしまう季節だ。
 息絶えた者の体の中で休みなく働いた器官が止まり、その血液が流れを緩く、やがては止まるように、川は凍りつく。
 私はそれを聞いている。

《凍える音だ。――当分、誰も来ないだろう》

43

 川が凍って、道に霜がおりた。

《夜更けの霜は月の下で眼に染み入るましろだ》

44

 お前の夢を見た。
 見てしまった。

 嬉しかった喜ばしかった心が弾み頭に熱が駆け上がり、おかしなことに涙が出なかった。

《お前は私を思ってくれているのかと夢に問う》

45

 赤い髪の天人はやはり、誰かを待っている。

《名ばかりが歩いている。私は身じろぎもしない》

46

 お前が口癖のように言っていたのは
「あんたは嘘つきだ」

 お前が私の耳にいつも囁いたのは
「あんたは意地っ張りだ」

 お前が云うたびに私の頭を過ぎったのは死のことだった。

《言うなれば、それは不滅性の愛》

47

 もう、くだけてしまっている。

《鉄壁の守りなんてものは心には備わっていない》

48

 川が滔々と流れていく先には人の子の住まう土地がある。
 凍れる川が流れ出す。
 私の喉も流れ出す。
 歌は、葉の形をして、下流へ流れ着くだろう。

《絡む葉に春の訪れを知った。私は歌った》

49

 おれの眼に映るこのひとは一体誰なのだろう?
 赤い髪で、すこし寂しげな微笑みを持つこのひとは?
 愛しくて仕方ないという表情にすこし虚ろの混じるこのひとは?

《―――奇妙なことにその噂は目を騒がせた。おれの眼にはその姿が見えた》

50

 私とお前の地位や身分や環境が違ってもなんとなくめぐりあってしまう気がしている。

《出会い、別れ、また出会い、きっと別れ、……もう、どうでもいい》

51

 彼が天人の所を訪れたのはきっと偶然と言うよりも運命と言った方がしっくりと馴染むのだろう。それは天人もそっくり受け入れていた運命で、それから考えれば必然と、そんな名の方がいいのかもしれなかった。
 彼は街で『憂いの庵』の噂を耳にした。どうしてか彼の目の前には赤い髪の天人が現れて微笑んだ。彼は山に登ることを決意した。当たり前で、奇妙な話。
 少年か、青年か。あやうい年齢の彼がひとりで寒き山に行くのは本当は禁じられていたのだが、それで止まるようならば、つまりは最初から出会わないことになっていたということ。
 彼は贈り物を持ってきた。天人はまるで素直にそれを受け取った。

《冠にして色づく葉を捧げてくれた》

52

 彼はお前だ。
 そうとしか言えない。
 その言葉しか出ない。

《ああ!》

53

 夜の散歩は二度目だと思った。彼は男よりずいぶん小さい。やはり私の前を歩く、その後姿が、足跡が、髪が、今は見えない目が、表情が、振られる手が、無性に愛しくてならない。
「転ぶなよ」
 言う声も愛しい。

《月光に似た雪の降る道をふたりが、歩いていく》

54

 極彩色の糸が張り巡らされた部屋を知っている。
 糸の一本一本には意味があるのだ。だけどその部屋にひとりでいるのは辛い。

 なぜならば。
 それは思いの凝ったもので、それは心中の練習で。

《それは錦の川を渡る儀式》

55

「なんでひとりでいるの?」
 男に答えなかった問いを答えなくてはならないことになった。
 彼は私の鼓動を跳ね上がらせる目で見てきていて、私は消え入りそうな声で言った。
「罰、だ」
 とたんに彼の表情が曇る。――私は、言葉を間違えた?

《哀れと思っているのなら、そうではないと告げなければ》

56

 幸せは無だと、無邪気に言う。

《確かに、何もなければ悩まない》

57

 私はお前を忘れられない。忘れられない。忘れられない。
 忘れたくない。

《おれは忘れない。絶対に、忘れられない》

58

 万感の溜息をついておれを庵へ迎え入れたこのひとは、確かに人の子とはまるで違う。
 考え方も、生き方も、おれには分からないことの方が多い。
 おれをこどものように見ながら、男として誘う。おそらくこのひとは否定するけれど。

《長き生をひとりで生きたこのひとがあまりにいとおしい》

59

「あんたの眼は薄い色だからこの日にはやられてしまいそうだな」
 何を言うか、その霧の中の紫は薄い色の範疇に入るのだろうに。

《晴れた日の雪景色は心をそっと包んでくれた》

60

 彼の膝に頭を乗せてみたら酷く心地よくて私は眠りにつきたいのだけれどそうしたら彼が身じろいで私を離そうとするから眠ってはいられない。

《どこへ行く、とすこし寂しげな声、それもいとおしいときっと知らない》

61

 まどろみから覚めると彼が歌を唄っていた。私はぼんやりした声で問う。
「今の歌は…?」
 彼は笑った。
「恋歌だよ」
「…ああ」
「教わったんだ。あんたに聞かせたかった」
 彼は私の髪を指に絡めて弄ぶ。
「あんたに、知っててほしかった」
 彼が何のことを云っているのか私にはわからない。彼がいる時に考えないからだ。そのうちわかると云って口づけがおりてくる。私は舌を絡めながら思う。お前の息づかいが音楽のようだ。すると彼は今度は私の胸にくちづけて云う。
 あんたの鼓動が音楽のようだよ。

《ひとたびの契りでも良かった》

62

 実りの季節が寒き山にも訪れて、天人は酷くはしゃぐ。
 男は見たことがない表情。彼は見て、負けじとはしゃいだ。
 実りを誇る原は黄金色をしている。転げまわって、天人はふと黙り込む。

《黄金の風を受けて、彼はこんなにも、なぜ美しい?》

63

 あんたはおれを隅々まで知ったくせに、二度とそんなことは思いもしないといったふう
に佇んでいる。

《かりやどだなんて、思ってなかった》

64

「おれをおいていかないで」

《約束は破られないと思おう。このひとは時々予想もつかないことをするけど》

65

 街では彼はひどく頼りにされているのだと、この山にも手紙が届いたりなどして私は知る。ああ、ああ、ああ、
 お前なのだね!

《決しておれに頼りはしない、――それが、歯がゆい》

66

 彼が帰ると言ったので、天人は慌てふためいている。無論、表情に出したりなどしないが、先ほどから機を奏でるばかりで少しも織りが進まないだのからはっきりと分かる。
 彼は引き止めてほしい。けれど天人は言った。
「ずいぶん長く居たものだな。何もないのに」
 彼は天人の眼を見ていた。だから笑って、帰った。

《そんなに必死で愛してると叫ぶ眼で?》

67

 手紙を届けたのは川を遡るのを好みとしている熊のような大男で、天人は眼をぽかんと開けたままその背中が遠ざかって見えなくなるまでじっとしていた。食われそうな気がしたからだ。
 手紙を読んで、天人は舞った。綻ぶその表情は麗しかったが、あいにく新月の夜だったから、星ですら見えたかどうか分からない。

《歌う心をどうおさめよう!》

68

 願わくは、言おうとして、止めた。

《叶わぬ願いだから、ほんとうに、しかた、ない》

69

「雪が食べたいな」
「今降ったらここで凍死するぞ」
 原に寝転んでふたりで空ばかり見上げている日も、悪くない。

《春の雪は甘いような気がする》

70

 幾度の季節が過ぎていったか知る者はいない。
 どの季節にも彼は天人に新しい発見をした。
 どの季節にも天人は彼に新しい発見をした。

《このひとに焦がれています!》

71

 彼の運命は、私には見えていた。

《花よ、共に送っておくれ》

72

 赤い髪を指に絡めて梳いて、おれの義務に帳を降ろしてしまいたい。

《このままでいたい、そうは言えない》

73

 泣き顔があまりに美しいので彼は困った気持ちで天人の涙を飲む。

《泣きたくなんかないのにお前が泣かせる》

74

「帰ってくる」
 嘘だ、お前はそういう時だけ嘘つきだ。
「帰ってくるから」
 いつもは私の方がよほど嘘つきなのに!

《ひとりきりでいるのには、慣れている、大丈夫…》

75

 彼がすっかり成人して、一人前の大人になって、街でも欠かせぬほどの知恵と力を持った身になって…
 天人は、たぶん惜しくなったのだ。そう自らを分析する。
 山を駆け下りたい気がした。天人は山を降りなかった。
 彼は帰ってくると言った。

《世を救うものがお前であることを誇ろう!》

76

 寒き山で赤い髪の天人はひとりきりで過ごしている。

《麗らに散る花はまた春を教えた》

77

 故郷に誘う海の呼び声がまた聞こえてきたような気がして、天人は空ばかり見ている。
 私はもうどこにも行けない。いけない…。

《大海原に私の船はもうとっくに沈んでいる》

78

 日も月も大分めぐっていくのだ。
 天人は待っている。

《夜の白む頃、帰ってくるならばこの時しかない》

79

 夢を見てしまった。
 お前か?
 彼か?
 そんな区別はなかったのか。

《あと少し、夜を延ばしてしまいたい》

80

 世界がある。彼がいない。

《―――彼はいない》

81

 天人は付き合いの長い友人が帰ってきたのを知った。
 最初に待ちびとを喪った時から身近に擦り寄ってきた友人だ。
 男を喪った時にもここにいると主張してきたが、天人はその友人に心慰められた時があるとは認めたくない。
 孤独。これじゃあ、ない。私が慰められたのはもっと鋭いもの。

《辛さはどこへも逃がさない。ちゃんと私の中にいる》

82

 お前にあいたい。

《夢を見ているから狭間の季節もやりすごせる》

83

 私が起き上がろうとしないのを許しておくれ。

《洗濯日和だとお前は笑うだろう》

84

 逢瀬がきっと続くだろう。

《時は過ぎるが夢は続いている、それで充分だった》

85

「はじめまして、従弟どの」
 赤子に話しかけた。赤子が笑った。
「愛してるよ」
 赤子が言った。気味の悪い赤子だ。

《追憶の中で彼は元気だ》

86

 空が白んでいく夢を見た。お前がいた。
「……私はお前にあいたかった」
 お前は静かに私の眼を覗きこんで云う。
「――あえるよ」
「いつ?」
「さあ」
「そんな答えではさっぱりわからない」
「早い方がいいのか、遅い方がいいのか、おれにはわからない」
 私はたぶん涙を流している。お前の指がそれを散らす。

《たかが夢、それでも夜明けの別れがこんなに辛い!》

87

 高望みをしているのかもしれない。

《私はかわらぬものを求めているのだろうか?》

88

 夢もなく、幻もなく、それに頼るほど心が弱りきってもいない。そんな夜の独り寝に、天人は考える。昔の様々なことと、お前のことと、男のこと、彼のこと、…
 夜はまだ明けない。
 罪のこと、もう思い出せない…
 夜はまだ明けない。
 罰のこと、自分で選んだもの。
 天人は微笑んだ。

《何故に夜は長いのだろう、こんなにも》

89

 天よ、我が故郷よ。
 私は誓言を破ります。

 人の子に混じり生きましょう。
 持てる力の全てを使って、良き未来などというものがあるのなら、それに向かって進むように手助けをしましょう。

 私の船はもうないし、私のお前ももういないから、どこにいても変わらない。
 もうお前を待てない。

《もう待てない、心が軋む》

90

 私が彼を思っていようといまいと――私がお前に焦がれていようといまいと、意味がない。

《この存在に意味もなく、この感情にも意味がない》

91

 砕けていく世界でそれでも生きる者たちに幸あれ!私は持てる力の全てでそれを助けるだろう。

《世界が砕けていく》

92

 天人が天人としてあって、それでも人の子を助けて尽くすものだから、人の子たちは喜んだ。天人が時折、月を見上げてあまりに切なそうな顔をするので、人の子たちは月を打ち落としたくなった。

《故郷とはあまりに違うから、悲しむのは月のせいだ》

93

 赤子を抱いて、満ちてきたものは涙になって溢れてしまった。
 この幾万の欠片となる世界にそれでも生まれる命に、ああ、感謝を!
 私の感情はあまりに激しかったけれど、周りは皆微笑んでいた。

《波のように寄せて返す、あまりに穏やかな感情だった》

94

 彼が犠牲になったことで、少しだけ世界というものは命を延ばしたのだと、天人は言わなかったがそう思っていた。
 彼が天人の待ちびとの生まれ変わりとは限らなかったし、もう大分昔のあの男の生まれ変わりかさえ分からなかった。

 ただ、お前だ、と思ったのだ。
 お前は何も約束をしてくれなかった。だから憎むことはできない。

《待っていたのに裏切られたと憎めたら良かった》

95

 世界が終わる時に。

《まだ想っている。まだ私は想っている》

96

 この山が残ればいい。大海原にぽつんと残る島になればいい。
 世界が沈んでいく。
 私の船はない。

《滅びを見ているのだと悟った》

97

 そして、私は目を覚ます。
 灰色の帳が幾重にも包み煙る館で、声を聞いた。
 ようこそおかえり、最後に残った者、百万世紀を倦むことなく生き抜いた者よ。
 いいえ、倦んでしまいました。私の願いはただひとつ、それを頼りに生きて参りました。
 声が言う。
 待てるか。彼を待つことができるか。

《私は歓喜に満ちて答える。――待っています、と》

98

 お前の幻影などは見たくないのだが、夢に出てくればそれはそれで安らぐ。
 世界がある。お前がいない。そんなことばかり考えていた。
 夢のお前が私の髪を撫ぜ、頬をたどり、口づけをくれる。
 私はあとどれくらい待てばいい?

《朝が来なければいい。夢が覚めなければいい》

99

「あんたはおれに会ったと思ってる?」
 お前が言った。私は曖昧に笑った。
「どちらでも良かった。私はお前に会いたかった」
 お前は空をじっと見つめて、頷いた。

《故郷の月をふたりで、見た》

100

 百万世紀を生きた。

《私の願いはただひとつ、お前と共にいることだけ》