1時間

 タニクウェティルに登るには3本の道がある。
 1本は大通りで最もよく使われるもの。
 もう1本はこちらもなかなかの大通りで、仕事のある者が駆け抜ける。
 最後の1本はほとんど知られていない。整えられてもいない。散策がてら踏み入れればそのまま迷子になってもおかしくない。
 鬱蒼…というのとも少し違う。岩と木の戯れるそこは、光の移ろいに合わせて歌っているようにざわめく。
 そこを歩く。あまり頻繁に訪れるわけではないタニクウェティルの山頂から、白き都ティリオンの麓まで。
 使いの仕事を終えての帰路に、マエズロスはその道を選ぶ。
 誰とも会わないのが足を踏み入れたきっかけではあったが、今ではよく知るようになった道の移ろいを、雰囲気の違いを、その気配を感じ取るのが楽しくなっていた。
 その道の途中に隠れ家がある。
 隠れ家と言うよりも、こどもの秘密基地だと言えばしっくり来るだろうか。マエズロスは見つけた時、幼なじみに飛んで行って自慢してやりたい気持ちに襲われた。もしもう少し以前に見つけていたら、間違いなくそうしていただろう。
 洞と木とが組み合わさったそこは、さやぐ風と歌う葉ずれの音も麗しく、光をやわらかく変えて投げ落とす天蓋の有様も絶妙で、――入らずにはいられなかった。
 入って、ほっと息をついて、なめらかな岩の上に横たわる。天蓋にあたる奇妙な岩と、覆いかぶさった葉の端が薄く銀色を帯び始めているのをみて、ああ、そんな時間か、と思った。

 すこしだけ、ここで眠りたい。
 銀の光の寄せる金の時間のあいだ。ここで。

 目覚めれば辺りは銀の光が満ちていて、自分の上にはまったく覚えのない薄物が掛けられていて。
 はっとして周りを良く見れば、そこは確かに誰かの隠れ家なのだった。溶け込むように置かれたいくつかの日用品。とすれば先ほど家主は訪れ、侵入者にしばしの時間を貸してくれたのだろう。
 マエズロスは一筆したためて隠れ家を出た。

 頻繁にタニクウェティルへ行くわけではないから、次に隠れ家を訪れたのはだいぶ経ってからのことになる。
 自分が手紙を置いたのは、あの変わった薄物の上。風で飛ばないように簪で止めた。
 その簪と、薄物と、手紙の代わりにもうひとつ増えたものに、マエズロスは微笑んだ。
 家主は隠れ家をマエズロスに貸してくれるようだ。金と銀の絡み合う、その時は。
 

 金髪の、おとなしい従弟に案内されながら山を登る。
 しっとりとした夜闇は、まもなく明ける気配を孕んでどこか不思議な高揚感がある。
 風がごう、と抜けて、茂みを抜けると、開けた岩の上に出た。
 岩盤をつたうように廻り込んで、森を見渡す方へ行く。遠く西の空にはほとんど地平に触れるように細い銀の月が見えて、東の方はまだ深い藍色に満ちている。
 座ってと促されて腰を下ろす。ふとあの隠れ家を思い出す。
 作りも何も全く違うのに。風は隠れ家よりもよほど厳しく、空は暗く、岩も硬い、それであるのに。
 ふわ、と傍らの従弟がマエズロスの膝に薄物をかける。それを手に取り、マエズロスは息を飲んだ。
「……オロドレス」
 こちらに来てから名を変えた従弟は、少し拗ねたこどものような顔をして言った。
「起こせば良かったんだけど、一度も出来なかったから」
「――安眠できた」
「よかった」
 やわらかい笑みは、確かについぞ気配を感じ取れなかった隠れ家の主には相応しい気がした。
「ちょっとだけ付き合って欲しいんだ。あなたに貸していた時間だけ」
 ほら、見て。
 “山好き”の従弟が言う。示された空は藍から薄らと明るい青を刷いた色に変わり、そこにちらちらと光の粒子が満ちてくる。
 金の輝きが来る。そう思った。
 ああ、あの時間は、今では夜明けと呼ぶところなのだ。
 マエズロスはふと諒解した。そしてまた隠れ家を思い出した。
 愛おしい時間が始まるのだと感じた。
 うつくしい、金の紡ぐ――