HOME

 案内役を務めさせてもらうね、と笑ったのは晴れやかな朝をかたちにしたような金髪のエルフだった。エルロンドは貴方ですか…?とちょっと引いていたし、ビルボはわー素敵な金髪美人、と喜んでいるのがすぐに分かった。フロドはそのせいで少し不機嫌な面持ちになって「案内役」と言った彼を見て、首をかしげた。
「奥方様…?」
 彼は至って友好的にビルボと握手をしていたが、呟きにフロドの方を向いた。瑠璃色の瞳がとても明るく澄んでいて、力ある存在に共通の叡智が確かにフロドの背を一瞬、ぞくりとさせた。
「きみのことは妹からよく聞いてるよ」
 彼はそう言ってぱあっと笑った。その横でビルボが、ものすごいことが起きた!みたいな顔をしていた。
「わたしはフィンロド。ガラドリエルの一番上の兄だよ。よろしくね」
 ごくごく気軽に上のエルフは名乗って、フロドもビルボと同じ顔になった。エルロンドが頭を抱えていた。

 HOME

 西は西で色々あるもんなんだな、とビルボがしみじみ呟いていたのはいつだったろうか。船の上だったような気がする。ガンダルフは片眉を上げただけだったし、奥方様はくすくす笑っていて、エルロンドは頭を押さえていた。エルロンドの頭痛はそういう意味では治まる日が無さそうではある。西に着いた今でも。
 エルロンドが離れ島に住まうのだと聞いた時、ビルボもフロドも少し不思議に思ったものだった。奥方様がアマン本土の方へ帰るのをすんなり納得したようには、エルロンドが離れ島に留まるのは納得いかなかった。
「こんなに素敵なバギンズ達とわざわざ離れるのが嫌だから、ではだめかな?」
 軽やかに言ってくれたのにはフロドのみならずビルボも実はたいそう感激した。
 今考えてみれば、エルロンドだって初めて訪れる地で何も知らないホビットふたりの面倒を見るなんて、物凄く大変だったと思うのだが。
 さてそんなわけで離れ島「百煙突の館」と呼ばれる処にバギンズふたりは滞在することになったのだった。数週間というわけではないが、数年経ったはずもない。数か月、が妥当なところだとフロドは思っている。けれどこの館にいた頃は、というよりも西への船に乗った日から、あろうことかビルボもフロドも日記をつけていなかった。だから実際どれくらい経ったのかは分からない。

「移住して貰うことになった」
 ある日、ヘルム峡谷もかくや、と言わんばかりの皺を眉間に刻んでエルロンドが言ったので、ビルボとフロドは顔を見合わせた。
「移住って…」
「どこへ?」
 本土にだ、とエルロンドは難しい声で続けた。それから結構こみいった説明をされたが、なんやかやあってそうなったということだけが分かった。その実エルロンドも何がどうなってそうなったのか分かっていないに違いない、とフロドは確信している。ビルボが納得しているようだったから、何も言わなかったのだが。
 そして数日経って、バギンズ達は旅の支度を整えて、案内役として現れたのがフィンロドである。フロドは裂け谷で大宝玉の物語、ベレンとルシアンの恋の話は何度か聞いたし、アラゴルンと長い付き合いのビルボは言わずもがなである――ついでにギルドールからもたまに主君フィンロドについては聞かされた――この西では上のエルフがごろごろいるのが当然ではあるが、こうして生身の英雄に会うのは、いかなバギンズでも少しもじもじする。
「どうしようフロド、実はお訊きしたいことがどっさりある」
 そっとビルボに囁かれて、フロドは笑いそうになるのを抑えられない。
「大丈夫、やまもり質問したって、あなたを嫌うひとなんていませんよ」
 と返したにも関わらず、フロドは時々この大好きなおじの誑しぶりにはうんざりする。

 ビルボはすぐにフィンロドと仲良くなった。
 奥方様曰く「お兄様、一族中で一番人あたりが良いのよね」――だからまあ、誑しと誑しが仲良くなれないわけはないから諦めて、と裏の言葉が聞こえた。
 エルロンドが旅立つ前に懇願していたのも思い出された。「伯父上、あの、くれぐれも、ビルボとフロドに無茶はさせないでください。伯父上に心配はないのですが、喜ぶかなと思ってとか、行ったら楽しいよねとか、そういうのは少し控えて頂けると…いえその、むしろバギンズが行きたがったら止めて下さるのが年長者の嗜みかと…」あれはまさしく懇願だった。
 懇願は聞き入れられたとは少し言い難いと思う。
 真珠の都も、高き峰も、うなだれた丘も、白き都も、そして目の眩むような出会いの数々もビルボがとにかく目をきらきらさせていて、フィンロドも同じく楽しげだ(ホビットと同じ場所に潜り込んで行くエルフの公子がいるとはフロドは思ってもみなかった)。少しは止めるそぶりをするけれどフロドも「バギンズ」であったから、少々無謀があってもこの旅が楽しくて、ビルボが楽しそうなのが嬉しくて、はしゃいでついていくのがまた心地よくて、今日まできてしまった。
「バギンズ、バギンズと言いますけどね、バギンズ家がこんなに旅好きだと思われたらバギンズ代々のお歴々に叱られそうだ」
「住む場所を探しているのにねえ?」
 ビルボがぼやき節で述べると、フィンロドはからかうように続けた。
 そもそもの旅の目的だのに、こうものんきにあちこち行っていては忘れそうだ。バギンズふたりは腰を落ち着けて暮らす処を探している。離れ島で何故いけないのかはややこしい説明の箇所だったので忘れた。
 次のところはかなり気に入ると思うよ。少なくとも住処の参考にはなるよ。そう自信ありげに言うフィンロドに連れられて、西のさらに西、奥の方へ進んだ。

 そして不可思議な森を分け入って、変わった花畑と斜面にぽっかりと開いた洞窟に歩み、フロドは彼に会った。
 ぱちり、と視線がかち合ったのだ。
 ざっくり編みまとめた髪は柔らかい黒で、きょとんと瞠られた瞳は菫の花のような色をしていた。
 地面に腰を下ろしていても分かる、彼は偉丈夫と言って差し支えない体躯の持ち主だったが、その表情はどこかいとけないこどもを思わせた。
 フロドは少しの間、言葉を忘れて立ち竦んだ。彼は徐々に口を開けると、突然訊いた。
「茸は好き?」
 フロドは力強く頷いた。
「大好きです」
 彼は顔いっぱいで笑うと、良かった、と呟いた。目線がフロドの後ろをみて、笑顔は柔らかいものになった。
「父様、ちょっと茸狩りに行ってきます。フロド殿と一緒に」
 篭を持って立ち上がった彼は予想に違わず長身だった。フィンロドも顔だちや雰囲気からは思いも寄らぬ立派な男性であるのだが、彼はそれ以上に逞しかった。
「父様?」
 ビルボが飛び跳ねそうな勢いで大きなふたりを見比べると、ああ、と彼はゆるりと小首をかしげた。
「私には父が四人いるもので」
 後で説明するよ、とフィンロドはビルボの肩を抱いた。
「早めに帰っておいでね、エレイニオン」
「お泊りになられるのでしょう? ビルボ殿と、探検でもしておいてください」
 迷子にならない程度に。付け加えて彼はフロドに、さあ茸狩りだ!と弾んだ声で囁いた。
 フロドはすんなりと頷いた。彼がそういう同意をたやすく得る雰囲気を持っていただけで、茸に目が眩んだのではないと主張しておく。

 分け入るには一本道を歩んだものだ。茸狩りにはそうはいかない。
「エントがいそうだ…」
 先を歩む森の主に聞かせるともなく呟くと、彼はフロドを振り返った。
「そう言われると、とても嬉しいな」
 足を止めたのは岩に張りつく苔の上にちらちら踊る木洩れ日が火花のような模様を描いている場所だった。花畑から長く歩いたわけではないのに、水の気配が濃い雰囲気になっているのに、フロドは気づいた。
「ここは若い…、とても若い森だけど、深さは思っているよりきっとある」
 彼は傍の樹の裏に手を伸ばし、ほら――、フロドの目の前に差し出した。
「茸もこんなにたくさん」
 フロドは目を輝かせて近くの岩の上によじ登った。歓声を上げた。

 茸を山ほど抱えて帰る。帰途でようやくフロドは彼の名を聞いた。身内はエレイニオンと呼ぶかな。彼は少しぼんやりとした瞳で笑って続けた。
「ギル=ガラドと呼ばれていたのが一番多いけれど」
 フロドはぎょっとして小石に躓いた。彼はその勇名に相応しい身のこなしで手を伸ばすと、フロドも抱えた茸も全部受け止めてみせた。
「ギル=ガラド? エルフの王の?」
「私が治めていたのは太陽の第二紀のことだから、まあ、元王、になるか」
 見上げた顔はたいそう真面目で、フロドは胸が温かくなった。
「サムに、教えてやらなくちゃ。貴方の歌をとても…好いていた」
 急きこんでサムというのは、と説明しかけたフロドにエレイニオンは弾んだ声で言った。
「私も、剛毅の士サムワイズと九本指のフロドの歌は好きだ」
 フロドは驚いて彼を見上げた。
「それに、ビルボ殿のことも」
 エレイニオンはとろけるような声で続けた。――スランドゥイルの友だもの。
 その瞳がたいそう切なかったのでフロドは気まずく足下に視線を落とし、話題を探した。闇の森のエルフ王と自分が懇意でなくて、良かったのか悪いのか分からなかった。そういえば、フィンロド殿のことは、声をあげる。
「なぜ父様なんです? 父が四人って?」
 エレイニオンがふふ、と微笑む気配を感じた。
「私の父が誰なのかは知ってる?」
「……勇敢なるフィンゴン殿?」
「そうだね。でも文献によっては私の父はオロドレスだったりフィンロドだったりする」
 父君、父様、ごく自然に呼ぶ。名付け親もいて、彼のことは父御殿って呼んでいる。エレイニオンはまるで他人事みたいに軽く言った。
「ずっとそう呼んできたんだ。たぶん、伯父が正しい」
「おじ…」
「あなたとビルボ殿もそうではなかったっけ」
 ああ、確かに、こみいった親戚関係を伯父と言い甥と言われて過ごしてきた。
 わたしがビルボを何と思っているか、言葉にして伝えるのは難しい。
 物思いに沈んだフロドをエレイニオンはそっとしておいてくれたので、その後の道は森のざわめきだけが響いていた。

「ホビットの住まいにはとうてい及びませぬが、我が穴ぐらへようこそ」
 言ったエレイニオンの住まいはとても変わっていた。斜面に穴を掘っているのは確かにホビットの家と似てはいたが――中は思ったよりも森に溶け込んでいて、広く、まさに山の、いや森の中身といったふうだった。
 茸をたらふく頂いて、ビルボはエレイニオンと話し込んでいる。やまもり尋ねるのはフィンロドの時も、他の会ったエルフみんなにもそうだったから、今更どうということではない。この一晩で終わらなかったらもう一日、または数日、もしかしたらもっとここに滞在するのだろう。
 その夜フロドは夢を見た。雲の中から花畑を見ている夢だった。

 フィンロドと別れたのはコール、歌と言葉の館に着いた時だった。
 やわらかな茶色と灰色の石、階を幾つも持つ変わった建物が、ヴァリノールの平原に建っている。
 歌と言葉の館の名の通り、あらゆる伝承と音楽とがそこには集まっていた。離れ島の百煙突の館とも似ている。いや、百煙突の館こそが似ているのだろうか。コールの主人は古い古いエルフたちで、歌と言葉に溺れるようにして暮らしている。
 フロドは入り口の階段に腰かけている。
 浴びるように音楽や伝承を聞くことができる。階から平原を眺めて、物思いにふけることもできる。裂け谷の暮らしに近いと言えばそうだろう。ビルボは生き生きとしている。フロドはそれを幸せに眺めている。
 本当はひとつ悩みがあった。誰かが気づいているかどうか分からないが、最近、夜な夜な、ビルボはどこかへ出かけていくのだ。
 ある夜ふと目が覚めて気づいた。ビルボはごくごく気をつかって部屋をすべり出て行き(ぱっと見ただけではまるで眠っているかと見えるように寝台に枕を詰め込んで)、朝の光が届く前にまた忍び足で帰ってくる。
 西の地でどんな危険があるわけではないけれど、フロドは心配で、それ以上にただ、ビルボが自分に持った秘密が気になって仕方がなかった。
 でもビルボの望んだ冒険を、わたしが止めて良いものだろうか?
 掠めた思いがフロドの言葉も行動も押しとどめる。
 重苦しい塊が胸の奥にある気がする。
 ここは西の果ての地だから、日没の光が一番強い。赫々燃える太陽はさらに西の海を赤く染め上げ、まばゆさを大地に突き刺してふいに姿を隠す。
 赤みを帯びた太陽の残照は、果ての海からは離れたここでは金色の光になって降りそそぐ。その金色の中で、フロドは階の下、愛しい姿を見つけて立ち上がる。
「ビルボ――」
 呼んだ、その筈だった。

 赤い、赤い花が揺れている。芥子の花だ。
 振り返れば青い、青い花が咲き乱れている。ベラドンナ、こんな深い青を見たことがない。
 赤と青の花が一面に咲く原に、フロドは立ちつくしていた。
 ビルボはいない。階の館はどこにも見えず、それどころか夕暮れですらない。見上げた空は晴れとも曇りともつかない鈍色にうす明るい。見渡す限りどこまでも、空と花が広がっていた。
「――おや」
 耳の痛む静寂の中に、声が響く。フロドはびくりと身体を震わせ、声の主を見た。
 右手の側に赤い芥子を、左手の側に青いベラドンナを広げて、彼は立っていた。
 黒い髪、灰色の眸、最もよく見るエルフのすがた。……けれど何か、何かが違う、と感じた。フロドは肌の粟立つのを感じる。
「親愛なるアルダの子、『賢きひと』フロド・バギンズ! 遠くまでようこそ」
 彼はゆるりと微笑む。
「迷いの中でこんなところまで来てしまったのだね、指輪の王よ」
 穏やかな声で言われたが、フロドは一歩後ずさった。
「ここは、何処です? 貴方は…何?」
 彼はフロドの警戒を気にする様子もなかった。笑みを刷いた唇で、歌うように答えを返す。
「何処かと言えばおそらく君の悪夢で、私が何かはさして重要じゃない」
「悪、夢」
「最後の悪夢だと思ってかまわない。君の夢を祝福しよう。同じ名前の誼」
 彼はひょいと身を屈め、赤と青の花を一輪ずつ摘み取った。
「宿無し迷子の君は、何に満たされているかが分からなくてこんな夢を見る。慰めと、沈黙」
 フロドは足から力が抜けるのを感じた。へたりこんだ鼻先で、二色の花が揺れる。
 彼が近づいて来るのを感じた。そよ吹く風よりも静かに彼はフロドの前に屈みこむ。
「ビルボが心配していた」
 弾かれたように顔を上げたフロドに、彼はからかうような声音で続けた。
「色んな話をしたけれどね、ぜんぶ君の話になる」
「え、」
「迷うことはない。君は満たされている。傷はあっても――」
 差し出された手をフロドは握った。強く引かれ、起こされる。
 その刹那、幻を見た。見たように思った。幻が心を駆け巡り、ふと気づけば口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。
「貴方なら指輪を捨てられただろうに」
 彼はぱちりとひとつ、瞬きをした。
「さて、どうだろうね。何せ私は、宝玉戦争の元凶だから」
 とても落ち着いた声だった。フロドは幻を追いやり、すこし唇をとがらせる。
「………貴方の傷を知ってしまった」
「君はもうとっくに知ってたよ。私が、赤表紙本で君の――君たちのことを知っているようにね」
「読んだんですか」
「流行ってるもの」
「流行って…」
 フロドは声をたてて笑った。彼も微笑み、そっとフロドの肩を叩いた。しゃんとして、そう言われているようで、自然と背筋が伸びた。
「君はビルボのすべてを受け継ぎ、けれどそれを君の後継者に渡して追いかけて来た。なんて賢いやり方だろう」
 彼はどこか虚無的な表情で、たとえようもなくうつくしくわらった。
「妬ましいほど」
 その眸がきっと慈愛とか、そういう名前で呼ばれるべきものに満ち満ちていて、フロドは息ができなくなる。
「さあ、フロド・バギンズ!」
 力ある声が堂々と告げる。
 赤と青の花は風に舞い散るようにふくれ、渦を巻き、荒涼たる仄暗い岸辺に、彼が決然と立っているのが見えた。そう思う間もなく、彼の白い姿がまばゆく光り、光に目が眩み、フロドは瞼を固く閉じ、
「あなたは今どこにいるの」
 は、と目を開ければ、何故かずいぶんとひやりとした風の吹き抜ける平原に、ひとりぼっちで立っていたのだった。

 幸いコールはすぐ近くに見えていたから、フロドは無性に焦って駆けだした。灯火の乏しい平原、月ももうさらに西の遠くへ下がり、青く澄んだ大気だけが広がっている。
 息弾ませて正面の階へ回り込むと、てっぺんにほど近い段々に、小さく丸い塊が見えた。あ、と声を上げる間に、その塊の中心で何かがちかっと赤くひかり、それから橙、薄い黄色、夜にたちのぼる白い煙――パイプの灯が見えた。フロドはいよいよ急いて階段を駆け上った。
「………っ、ビルボ」
 はたして入り口の階段に腰かけていたのはビルボそのひとで、毛布で膨れるようにして、ひょこんと出した顔と手でパイプを吸っていた。
 やあ、フロド。老ホビットは年に相応しい落ち着きと、彼特有の茶目っ気をにじませた声で言った。
「お前、ずいぶんと長い散歩だったね。冷えたろう。こっちにお入り」

 夜明けを待っているのだとビルボは言った。フロドと一緒に毛布に包まって、ぷかりと吐き出す煙が、じわりと明るさを増した青い空に溶けていく。
 何かを話したいと思った。けれど言葉が出なくて、傍らのビルボのぬくもりがあまりに心地よくて、まばゆさを強くしていく空ばかり眺めていた。
 ビルボがパイプを階に軽く打ち付ける。柔らかい音がして、フロドは泣きたくなる。
「どこに…行ってたんですか」
 口から出たのはそんな恨み言で、言った瞬間後悔した。ビルボの手が止まった。
「最近の夜のお散歩は、たぶん、わたしも、今、知ったと思いますけど…」
 ――どこにいるのと、言われた。フロドは西へ来てからのことを思い出す。どこにいるんだろう。わたしはどこにいたいんだろう。もうずっと、薄い雲の向こうから抜け出せないような気分でいた。
 空を見る目線が落ちて、階の向こうの平原からも離れ、近くのかたい石の階、灰色と茶色を見つめる。わたしは今どこにいるんでしょう、ビルボ。俯いた声で囁く。
「あなたのそばに、いたいだけなのに」
 フロドは繰り返した。あなたのそばに。胸苦しい気持ちのままでいると、そっと肩に手が触れる。
「フロド、お前はここにいる。ここにいる。私の近くにいる」
 染み入るような声で、ビルボは言い、毛布の中で指を絡めて握り、きゅっと身体を寄せた。
「私のいちばん近くに…」
 フロドは振り仰ぐようにビルボを見た。折しも遠い山の端にさしそめた金の光が空にあふれ、ビルボの眼差しは輝いていた。
 ああ、フロドは嘆息した。
 晴れが訪れた。心の望みが今こそ分かった。
「ビルボ、わたしはもう充分に受け取りました。今度はあなたに受け取って貰いたいんです。わたしを」
 そうしてフロドは、ビルボに頬を寄せて、その温みを感じて、唇に残る煙の香りを味わった。
 ビルボは一度おおきく目を開き、それから緩むように瞳を閉じた。睫毛と睫毛が金の光を散らすようにふれあった。

 フロド、フロドや、ねえフロド、ビルボが呼びかける声がしても、フロドは目を開けたくなかった。閉ざされたようなのとは違う、ふわふわした雲の中にいるような心地だったから、それを壊したくなかったのだ。
 目を開けるかわりに腕に力をこめると、ふう、と息をついて、ビルボが繋いでいない手を伸ばすのを感じた。
「離れ山への旅の時、私は帰りたくて仕方なかったもんだがね、袋小路屋敷に……私達のあの家に、」
 すこし掠れた声で始まった言葉に、フロドは小さく息を飲んだ。
「お前にあの屋敷をやっちまって、それから自由に旅に出て…今度は思い返すのはお前の顔ばかりだった」
 頭を撫でられて、フロドはゆるゆると息を吐き出す。ビルボの笑う気配がする。そしてやさしい声が降ってくる。
「私にはもう、家っていうのはお前のいるところになっていたんだよ、フロドや」
 フロドは目を開いた。ビルボはとっておきの秘密を教える顔で、この上もなく満足気に言った。
「だから私は今家にいるのさ」
 それからビルボはフロドの瞳からこぼれ落ちる雫を指ではらうと、額と額を合わせて微笑んだ。
「さあ、私はもう一冊本を書いてしまいたいんだよ。三冊目ということになるかな――お前と一緒にね」
 フロドはただ頷いた。西のことをさ、ビルボは続けた。あちこち行ったこのことを、……
 ビルボは喋り続け、フロドは頷いた。空の下でふたりきり、ぴったりとくっついて話し続けた。
「結びの言葉は考えてあるんだ」
 ビルボがそう言う頃にはフロドの涙も晴れている。
「そして一生を終えるまで、ずっと幸せに暮らしました」
 微笑み合い、そこでようやく身体を離して、――フロドはビルボの手をぎゅっと握った。
「わたしたちは」
 明るい朝の広がる中で、とびきり晴れやかにフロドは告げる。
「幸せに、暮らしました」

 バギンズ達に贈り物が届いた。それはそれは美しい本だった。緻密な絵のついたそれは、まさにバギンズの赤表紙本が、ふるいエルフ語に翻訳されたものだった。
 ビルボは、うつくしいなあ、と溜息をついて日々飽かずに本を眺め、フロドは本と一緒に届けられた、自慢だよ、という一言になんとも言えない珍妙な顔で黙った。
「字がですか、言葉がですか」
 数えきれないほどのうつくしいの果てに不機嫌な声でフロドが言うと、ビルボはのんきな声で返した。どちらもさ。でも、
「私はお前の書いたところを見るのが好きだね。エルフ語に翻訳されてもうつくしいじゃないか」
 フロドは難しい顔をしてビルボの背中に抱きついた。
「わたしはビルボの字が好きです」
 ビルボは笑い、肩口に俯いたフロドの頭を撫で回した。フロドは黙って、髪をぐしゃぐしゃにされていた。