「名前」

 シリオンに「戻って来て」、月がひとめぐり、暮らしの仕方はだんだん落ち着いてきた。
 双子がギル=ガラドの執務室…書斎…とにかく日中彼がいるところに入り浸るのはそれぞれ別の理由がある。
 エルロンドは書が読みたい。これは早めに主張して、書庫を案内して貰った。
 エルロスはギル=ガラドと一緒にいたい。とは言わないが、ちいさな保護者に興味深々なのは誰の目にも明らかだろう。
 なのでエルロンドは書庫に行って、それからもちろん当然ここにいますけど?みたいな顔をして三人一緒のところにいる。
 エルロンドは窓辺で書を読みながら、エルロスが日々距離を詰めていくのを見ている。エルロスだってはじめのうちはエルロンドの隣に座っていた。窓辺だ。そこからジッと見つめていた。今は机の向かいとか横とか、とにかく近場に椅子を引っ張っていって、顔を見たり手元を見たりぼーっとしたりしている。エルロンドは視界にふたりがおさまるようになって快適だ。
 今日のエルロスは、ギル=ガラドが目を通し終わったものに目を通すことにしたらしい。とはいえ宛名ばかりを見ていて、ぶつぶつ呟いている。ギル=ガラド。ギル=ガラド。エレイニオン。ギル=ガラド。エレイニオン・ギル=ガラド。ギル=ガラド……
「ロドノールってだれ?」
 エルロンドは書から顔を上げた。ギル=ガラドが顔も向けずに言った。
「私だ」
 エルロスは何を言われたのかてんで分からないという顔をした。エルロンドもおそらく同じ顔をした。ギル=ガラドは顔を上げて、エルロスと目を合わせて、もう一度言った。
「私の名前だが」
「うそでしょ」
「嘘をついてどうするんだ。私の――父名がアルタナーロ、シンダリンでロドノールだ」
「………母名は?」
 エルロンドが訊くと、ギル=ガラドはほんの少し唇をとがらせて、唸り声に似た感じの音質で答えた。
「………たぶん、ギル=ガラド?」
「なんでたぶん?」
「ちょっとこみいった事情があって…」
 はっきりしない、とはっきりしない口調で言う。エルロスの手から「ロドノール」宛を取り返すと、ギル=ガラドは双子の顔をそれぞれ見て、眉を下げてやわらかに笑った。
「ふたりとも『シリオンのロドノール館』に住んでいて、ロドノールがいったい誰だと思っていたんだ?」
 エルロスはふくれた。エルロンドもむっとした。
「ひとの名前だと思ってなかった」
「場所の名前かと思ってた」
 言いながらエルロンドは思い出していた。――私の館で、今私が住んでいて、ロドノール館と呼ばれもする、言ってたって判断していいか悩むところだった。
「そのままはやめろって言えば良かったかな。でも私が付けたわけじゃないからなあ」
「そんな、知られてるほど、ちゃんと名乗ったこととかあるわけ」
「あんまり無いんだ。だから呼ばれる機会が増えるなら良いかなと思った」
 ふくれたままのエルロスに、ギル=ガラドは真面目な面持ちで怒られている。
「訳したら良かったんじゃない?」
 エルロンドは稲妻が閃いたような気持ちで言った。
「貴火館、でしょ」
「建物っぽい!」
 エルロスがぱっと笑う。その隣でギル=ガラドは、どこかで見たことのあるような眼差しをして、落ち着いた声で言う。
「なるほどそれは良さそうだ――満天の君、流星の君」
 双子は揃ってどきっとした。
「伶人殿が書いてきたのだから、もう添え名だな、これは」
 ギル=ガラドは正しく年長者の顔をして厳かに宣言した。
「名前が増えたな」

 そんなことがあったと思い出した。これはエルロンドに手紙を書くしかないな、と決意した。エルロス・タル=ミンヤトゥアは『インディルザール館』の前で息子をじろりと睨んでみる。
 エルロスは、そのままはやめろと言ったのだ。百万回くらい言った気分でいる。『流星の館』でも良いんだぞとも言った。「でも私が付けたわけじゃないから」の意味を心底思い知った。止めようがない。こんなの。息子ときたらこんなに良い名前ないでしょと言わんばかりに得意気で、エルロスは妙な気持ちで眉根を寄せる。
 違う言葉の名前、自身を指して呼ばれることはほとんどない名前…。
 名を呼ばれる機会が増えるのは良いものだと言ったあのひとの心持ちには、まだ到達できそうになかった。