髭まで愛して②

 ネアダネルの父マハタンには髭がある。
 経緯の全てをつぶさに知るわけではないが「髭がある」「生えた」そのこと自体は、そういうこともあるのだろうと思ってはいる。
 エルフにも髭の生えることがある。分かった。確かだ。分かった。
 とはいえ髭の生えた生物など今まで見たことはない。ヴァラールの何人かは髭のある姿を見せる時もあったので、髭というものがあるのは知っていたし、生えてくるものなのも納得して――無理やりそういうものだと思い込んで――実は今だってなぜ顔にあんな余計な毛が生えるのかは一切理解できないが――父がそうなってしまったのは仕方ない。と思っていた。
 隙あらば剃り落としてやりたい。
 今もそう思っている。しかし父は気に入っているようだし(!)母も父のするように任せているので口を出すのも憚られてそのままであった。
 むすめの時分にはご機嫌な父の頬ずりから逃れもしたが。
 じょりじょりするのイヤ。と言ったことがある。そうしたらどうだ、ある程度伸びた頃にふさふさだろ~と来た。
 全然わかってない。
 髭がイヤなのっと叫んだら傷ついた顔をしていたので悪かったとは思っている。
 だってどう考えても余計な毛だとしか思えない。あとむさくるしい。ただでさえむさくるしくなりがちな工房詰めなのになんだって顔にさっぱりしない余計なもの付けなきゃならないのか。
 その考えは一向に変わらずに来た。父の髭はさすがに見慣れた。工房にやって来る者の中には髭の無いマハタンの顔を知らないものもいる。それくらいの月日は過ぎた。
 そして、―――ある日、ネアダネルはふと気づいてしまったのだ。
 私の家族にも髭が生える可能性があるのではないか、と。

 フェアノールは戸惑っていた。
 もう何だかすごく切なげな顔をしたネアダネルが、先ほどからじっ…と顔を見てくるのだ。正確には、唇のあたりを。
 少し顰めた眉と、物憂げに潤んだ瞳と。隣に腰かけて、眺めてくる。
 なんだ、とも訊きづらくて、薄ら口を開けたまま妻の顔を眺め返してしまっている。身じろぎもできなくて、胸の鼓動が何だかどんどんうるさくなってきている気がする。
 すっ、とネアダネルの指が頬を掠めた。すこしざらついた指先。小さい爪のあるほそい指。とてもあたたかい。
 思わず手に擦りつくように目を伏せると、ネアダネルは飛び上がるように身を離した。
「ぁ――、」
 呼び止める間もなく軽やかに駆け去られてしまう。
 伸ばしかけた手を下ろして、深い溜息が出た。
「あああ…」
 私はもう。いったい何をやって。
 フェアノールはわなわな震える両手で顔を覆い、蹲った。また深い溜息が漏れた。

 その時の様子を、マエズロスはこう語る。
 母上が乱心したかと思った。
 廊下でばったり会ったら挨拶する暇もなくぱちっと顔を押さえられて、だいぶ剣呑な目つきで顔をじーっと……あの母上どうなさいましたかマエズロスあなた髭の兆候があるとか言わないわよね大丈夫よねすべすべね、でもあなたちょっと顔色悪いわよちゃんと休めているの?休みなさいね?あ、ハイ。言葉にするとこれくらいの勢いで観察されてまくしたてられて、去り際に母上が言った。
「年からしたら全員あやしい…」
 一番あやしいのは母上だと思った。

 マグロールの曰く。
「体質的には心配してないけど」
 と言いつつじっくりしっかり顔を眺められて、最終的には頬をつまんで横に引っ張られました。
「はんれふは、ははふへ」
「髭があると楽奏に邪魔だと思うわ」
「ふぁあ」
 引っ張られた頬は痛かったです。

 ケレゴルムは涙目で言った。
「母上、こわい」
 オロメさまに髭は無いわよいいわね!?と怒鳴りこまれて怯えないわけがない。ついフアンを抱きしめた。
「髭ってなんのこと…」
 訊いても全く答えずに据わった目で顔を見られた。色んな角度からじいっと見られて、半泣きになった頃にネアダネルはふう、と溜息をついて出て行った。
「なんだよお……」
 髭とか生えたら男前かも、と思ったことは否めない。

 カランシアは壁に追い詰められていた。
「顔を見せなさい、カランシア」
「特に見るものはないんじゃないか…、な」
「疚しいことがあるの?髭とか?」
「髭ぇ?」
 頓狂な声が上がったのをきっかけに、ネアダネルはカランシアの咄嗟に被った布を引き剥いだ。
「あら」
「えーとその…試作品というか…」
 カランシアの顔には不思議な光沢のある花模様が咲いていた。
 あらあらあら。ネアダネルはきらきらした目で息子の顔を穴が開くほど眺めた。まあちょっと服と合わせるのに。ぼそぼそと言い訳だが何だか分からないことをカランシアが述べているが聞いてはいない。
 感心してにこにこ微笑み、ぺりぺりと剥がせるのに驚嘆し、がんばりなさいねと頭を撫でて去、ろうとしてネアダネルはぐりっと振り返った。
「ところであなた髭は無いわよね」
「え。無いです」
「無いままでいてね」

 クルフィンは母の来訪を待ち構えていた。というに相応しい。
「母上、わたしに髭は生えてません」
 ネアダネルに背を向けてそんなことを言う。ネアダネルはつんと頭をそびやかして返した。
「そう。それは良かった。証拠を見せて?」
 窓からの光を受けながら、クルフィンは振り返った。
 父親に良く似た顔の、その口元に、豊かな、黒い……髭!
「なので、付け髭を作りました」
「何がなのでだかさっぱり分からない」
 毟られたくなければさっさと取りなさい。
 片眉を上げただけで冷たく言い切ったネアダネルに、クルフィンはちえ、と肩をすくめて付け髭を取った。

「アンバルッサ!アンバルッサ!!」
 最後のふたりを探そうとする前にネアダネルは大きな呼び声をあげた。
「はーい」
「母上、なにー?」
 と、すぐ横の部屋から答えが返って来た。
 アンバルッサちょっとここにおいでなさい、部屋に入って呼ばうと、素直な双子はすぐに近づいて来た。背丈もすっかり伸びた青年なのだが、七人も息子がいるとこの末のふたりは何だかいつまでも小さい気がする。
 そんなことはない。アンバルッサだってもうこどもじゃないのだし、髭だって生えるかもしれない。赤毛だし。ああ父様だって昔は可愛かった筈なのに!
 余計な私情も交えた絶叫型思考を顔には出さず、ネアダネルは双子の顔をじろじろ見た。アムロドとアムラスは不穏な気配を感じたのか、ふたりで手を取り合って一歩引いた。
「なぜ逃げるの」
「母上、なんか怖い」
「素描されてる途中だと思って固まっていなさい」
「何かあったの…」
 じいっと良く見ても口元にも顎にも一本の毛の兆候だって見えやしない。血色の良いすべすべした肌があるだけだ。
 ネアダネルはアムロドの顔を両手で挟んでみる。指先に触れる肌もなめらかで、余計なものなどありはしない。
 アムラスが自分の顔を両手で挟んで首を傾げた。だんだんその手を口元に運んで、あ、と言った。
「もしかして髭探ししてる?」
 ばっ!と音のしそうな勢いでネアダネルはアムラスを見た。
「なぜ」
「鏡見てよく私もするから」
 笑顔で言うアムラスに嫌な予感を覚えたネアダネルである。
「――見つけて、どうするの」
 抜くのよね…?
 そんな気持ちで問いかけた母に、末子はにいっと笑った。
「髭、カッコいいでしょ。生やしてみたいけど」
 言ったアムラスをネアダネルはじっ…と見た。そしてざっと頭をめぐらせて隣のアムロドを見た。アムロドも母と目が合うとにいっと笑った。 
「おとこのひとってどうしてそうなの――っ!!??」
 館中にネアダネルの渾身の叫びが響き渡った。
「なぜ髭を生やしたがるの!?」
「なんか強そう」
「強いもんですか!むさくるしいだけ!」
「じじさまカッコいいじゃん?」
「そんなの見慣れてるだけよッッ」
 声を荒げて言うと、ネアダネルはたっと身を翻して駆け去る。
 残された双子は顔を見合わせて、目線を見交わす。
「おとこのひとって言われた」
「母上に!」
 すこし気恥ずかしく笑うと、双子も急いで母の後を追った。

 かくして眼の前には扉がある。別に個人の部屋ではないのだから入れば良いようなものだが、先ほど絶叫した母が入っていった処となると、踏み入るのはちょっと躊躇われた。
 であるのでアムラスはほんの少しだけ扉を開けて、隙間を覗き込む。その背中にアムロドがくっついて、顔を縦に並べて中を見る。
「見える?」
「うーん、あ」
 アムラスが声を上げた時、下の方にクルフィンが陣取って来た。
「もう少し開けろ」
「見えちゃうよ」
 クルフィンに言い返しているとケレゴルムも顔を突っ込んでくる。脚を掻き分けるようにしているのはカランシアだった。
「見えないって」
「見えない」
「下すぎるだけでしょ…」 
 続々やって来た兄たちは双子の下で押し合い圧し合いして、最終的にやっぱり縦に重なった。
 アムロドはそっと扉をもう少し開く。その肩にもうひとつ手がかかる。
「派手に叫んでましたね、母上」
「うわ押すなよマグロール」
「見えない」
「中でなにしてる?」
 下の方からの囁き声にアムラスが戸惑った声で返す。
「父上がすすけてる…」
 兄たちがざわめいた。
「何だそれすげえ見たい」
「見えない」
「あの髭確認はやはり父上から始まっていたか」
「ああー、すすけてますね、あれ、だいぶ」
 もうこのお喋り次男が全部実況してくれればいいのに。積み重なった兄弟はそう思ったが、そこにごくごく軽く圧がかかった。
「面白いものでも見えるのか?」
「兄上」
「これから面白くなるんじゃないか?」
「見えない」
「父上が拗ねたら面白いかもしれない」
「あれって拗ねる前なの?」
「拗ねてすすけてるんじゃ…」
 扉の前に七人兄弟が勢ぞろいして顔を縦に並べている。今両親のどちらかでも扉の方を向いたらさぞや面白い光景だっただろうが、あいにくどちらも扉を見なかった。
 あ。誰が洩らしたのか溜息が重なる。
「くっつきましたね」
「また顔眺めてる…」
「髭生えると思う?」
「無理だな」
「だよなあ」
「あ」
「あ」
「ちゅーした」
「わー」
「お前らいい加減どけッ!!」
 一番下のカランシアがついに怒鳴り、と同時に扉を押さえる手は外れて七人兄弟は部屋になだれこんだ。とても仲が良さそうに密着した両親が、あっけに取られた顔で息子たちを見ていた。

「髭なんか生やそうものなら全剃りしてやります」
 ネアダネルが宣言して事態は収束した。ことになったが。
「むさくるしいからダメだって」
「筋肉はアリなのに?」
「母上の感覚はよく分からない…」
「髭、カッコいいのになあ」
 息子たちは髭の一本でも生えたら大事に育ててしまいそうなのだった。