もう遅い。
もう間に合わぬ。
だから急くことはない。
そう言うのに、兄よ、あなたは、走っていらっしゃるではないですか。
我を忘れた、という表現が正しいのだろうと思える兄の身体を私は抱き留める
この戦場でその報せを聞くはずがない、とは思っていなかっただろうに
それを聞いた兄の紡ぐ言葉は予想通りに平静なものだったが
(それとも 絶望 だろうか)
言葉を即座に正しく裏切ったのは兄の身体自身で
とりわけその伸ばされた右腕を私はおそらく 妬んだ
ああ兄よ、あなたは、駆けていらっしゃるではないですか。
この手を放したならあなたは急いていってしまう
その場所に縋りつき叫ぶのでしょう――彼の名を
そして私は思い出すのです
見てもいないその光景を
暗闇の中、吼えたける声をあげて
失われたものを求めて咽び
ただ走り、走り、走り、狂おしく走ったかのひとを
やがて。
私は 打ち寄せる岸辺で
なぜか 立ち止まって いる
(よるがあける)
(あなたはゆく)
あれらは夜明けのことではなかった
夜であり、日の暮れる時であり、真昼であり、その他のどんな時でもあったけれど
ただ夜明けではなかった
私は夜明けであるような気がしていた
私の身体は走らない
この夜明けに、愛しいものの息絶える夜明けに、
声だけが、遠くへ、駆ける。