酒をくむ

 幼い頃に、葡萄酒は泉から汲むのだと教わった気がする。父にではなかった筈だ。とすれば記憶に遠い母の言だろうか。泉に樽を転がしていって、たっぷり汲んで蓋をして、それから船に積んではるばる川をたどり、この森までやってくるのだと。
 レゴラスはてっきりそう思い込んでいたものだから、父に「たくさん汲めるんですねえ」とか「どこから汲んできたんです?ああ、ドルウィニョン…」とか言っていた時、脳裏に浮かべていたのは赤紫色をした泉だった。しかしながら当然、葡萄酒は、葡萄から、つくる。であるからして、レゴラスがそう言うたびに、「くむ…?」みたいな顔をした父の反応は変ではなかった。どうやらその後「酌む」と広げた解釈をして返事をしてくれていたようだったが。
 さてそんなレゴラスの誤解にいつ気づいたのか、ある時、父は息子の膝にその果実を置いた。
「なんですか、これ」
 赤紫で、つぶつぶの、照るというよりはくすんだ皮が白くかすんだような、その果実を恐る恐るつまみあげて、レゴラスが問うた。
「葡萄じゃ」
「ぶどう」
 レゴラスは大きくぱちりと瞬いた。父は噛んで含めるように言った。
「葡萄は、果物じゃ。それを踏んで果汁を絞り出し、まあなんやかやして、ほれこの葡萄酒になる」
「踏むんですか」
「踏むぞ。あまり踏み心地は良くない」
「踏んだんですか」
「ルシアン姫の伴でな。足が葡萄色になる」
 父がちょいと裾をからげて素足をぷらぷら振ってみせたので、レゴラスは葡萄色に染まった足というものをわりかた真面目に思い浮かべてしまった。
「うええ」
 顔をしかめるレゴラスの前で、父は杯を唇にあててにんまり笑った。
「お前は葡萄酒の泉の方が嬉しかっただろうがの」
「いつか見てみたいと思ったのに…」
 葡萄酒の泉まで、樽の転がる道があるなんて素敵な話じゃ!父は笑いながら杯を干すと、ワイン差しを覗き込み、すこし口をとがらせた。
「ん」
「なんです」
 ワイン差しを突き出され、レゴラスも同じように口をとがらす。
「空じゃ、緑葉」
「はあ」
 父はレゴラスの唇をつまむと、遠い処まで行っても葡萄しか見れぬぞ。と静かに言った。
「酌んで来い。――樽からな」
「はぁい」
 それでも、レゴラスはドルウィニョンにはいつか行ってやるのだ。そして葡萄酒の湧く泉がないことをこの眼で見て、できたら葡萄も踏んでみたいなと思っている。