みずのたわむれ

 疼くような彷徨う目つきですぐ上の兄が、トゥルコ、ねえ、と甘えた声を出した。
 ケレゴルムは困惑して、抵抗を忘れた。
 だからこうしてふたりで寝台に埋もれている。

 艶聞の絶えなかった伶人公子様の顔をしているくせに、マグロールはまるでケレゴルムを大人しい犬にするみたいに抱き込んで、何も話そうとはしない。類まれな音楽を紡ぎだす唇は、何かの旋律を追いかけているのか、雨だれのような不規則な音を零している。
 ケレゴルムは居心地悪く大人しくしている。
 マグロールは弟の額から頬を何度か撫で、それから不意に耳をぎゅっとつまんだ。
「痛て」
「トゥルコはよく無事ですね」
 拗ねた声音でそう言われても、何が無事かはわからない。
「いま痛い目に遭ってる」
「私相手はどうでもいいんですよ」
「何の話だよ…」
 兄は指をすべらせて、耳たぶの裏をちょんと突いた。ケレゴルムは身震いした。やめろよ。すべすべですね。ひとの話を聞けよ。
「あれは愛なんでしょうか」
「それ俺に吹っかけてどうにかなる話?」
「おまえじゃなくて誰にするんです」
 ケレゴルムはまじまじとマグロールの顔を見た。没頭している時の顔をしている、と思った。
 音楽に。
 いや。
 雨だれの如き調べの正体が、突然ケレゴルムにひらめいた。
「カーノは伶人だから」
「え?」
「ウルモさまは分かってて、だから、良いんだろうけど、それ…」
 そこまで言って、ケレゴルムは我がことを思い返し、え?と声を上げた。
「聞いちゃったの?」
「はい?」
「もしかしてそのまま聞いた…の?」
「だから何です?」
 ケレゴルムは、思い当たることなどないような顔の兄を見て混乱する。マグロールはしかし、蕩けるような切望の眼差しをしている。
「その、……御名」
 ヴァラールの姿は自由自在だが、その本質は姿の彩りに現れる。ヴァラールの本質とは突き詰めれば、声であり、音楽である。エルダールがヴァラールを呼ぶ名とは、はるか昔、その調べを訳したならばこういう意味になるであろうという言葉に表したものである。
 ヴァラが、ヴァラの声で正しく名乗る時、それはエルダールの耳には音楽に感じる。
 感じるのであって聞くのではないとケレゴルムは思っている。事実ケレゴルムは、御名を聞いているということにすら長い間気づいていなかった。
「聞いてはいませんよ」
 マグロールはいささか頑なな声で答えた。ケレゴルムが困ったような不安な顔をした。弟の顔を、目を覗き込んで、マグロールは嫣然と微笑んだ。でもそれなら、
「私の専門ってことですね」
 
 疼くような彷徨う目つきがふつふつと滾るように燃えるのを見て取って、弟は相変わらず困惑の中にいる。
「カーノってなんでこう…」
「なんです?」
「なんでもない」
 すっかりご機嫌に向いた様子でマグロールはケレゴルムの頬をつまんだ。
 ケレゴルムは痛いと呟いたが、兄がご機嫌そうなのでまあいいかと諦めた。