結び目のある心臓

 奇妙な夢を見た。

 私はまだちいさなこどものようなのだ。低い視点から眺める王宮は、久しく目にしていないもののようだ。
 光の満ち溢れる回廊を、私は誰かを捜して駆けている。そう先ほど、女官から彼が来ていると聞かされて、勢いこんで捜していたのだった。彼は隠れるのが巧いし足も速い。早く見つけなくては“用事”を済ませてさっさと館へ帰ってしまうだろう。館の門は私には開かれない。そう思って駆けている。ああ、そうだ、父上の所だ。そこで待てば会える。会える。会える…
 ちいさな私の思考は分かりきったことを並べ立てているようで、途切れがない。そのうち会えるという歓喜が胸を満たして、足取りはいっそう速くなる。父上の所――は謁見の場でも執務の場でもない。彼と会う父は必ず自室へ、奥へ、通すから――それは、当たり前で――
 彼とは誰だろう。私はこれが夢であることを知っている。夢の中でちいさな私は鼓動をうるさく感じながら扉の前に立つ。前に立って、それから気が付いたように少し慌てて横の柱に身を隠す。驚くかは分からない。驚かしたいと思う。
 扉に糸のような隙間が出来て、声が聞こえて、彼が出てくる。
 射干玉の髪は光を受けると時折、銀に透けるのだ。それを知っている。ごく薄い色をした目がどれほど鮮やかに炯々としているかも、そのくせ私の父にはどれほど切ない甘さを含んだ視線を向けるのかも知っている。……私に向ける視線に、つとめて無視しようとする傷と痛みを感じる。浮き立つような悲しい色を感じる。
 私は飛び出る。彼が瞬間、身を引く。僅かばかり見開かれた目が、揺れる。私は言う――

 言った声を聞かぬままに場面が切り替わる。夢なのだとまた改めて思う。私は彼の目を覗き込んでいる。目の色ばかりが視界に広がる。彼は苛々と眉をひそめ、目を眇めると、もう良いだろう―、と、囁いた。
「放せ、フィンゴルフィン」
 彼は誰なのだろう?夢を見ている私は疑問に思う。私の名をそのように呼ぶ人物など限られている。そのどれもがもっと柔らかく優しい呼び方をするのだ。このように、突き刺すように心地よい甘さをもって呼ぶ者など居はしない。
 放せ?ふと気づくのは自らの右手。射干玉の髪を絡めて、彼の頭を引き寄せている。私の方が彼より背が高い。ああ、そうか今の私だ。
「放せ」
「嫌です」
 もう一度強く言われたことに、自分でも驚くほどすぐに答を返した。
「嫌です。兄上」
 ――――兄。

 彼、――囚人をなぜ私は兄と呼ぶ。

 ランプを持って、苦い笑みがもれた。このランプも“彼”の作品だ。これから会いに行く“彼”は間違いなくノルドール一の――否、エルダール一の匠だ。
 今はただの囚われ人だが。
 何が私にあのような夢を見せたのか分からない。父を、ノルドールの戴く唯一の王を害した男を兄と――同じ父の子とする夢など。
 父上はまだ目覚めない。刺し傷は深く、血が流れ……昏睡したまま父は、目覚めようとしない。目覚められないのだと癒し手の大伯父は言い、母は傍で泣き伏した。
 ……父上は目覚めたくないのではないかと私は思っている。王であることを厭っていたあの方だから。王であることに慣れすぎているあの方だから。
 祝祭の前の時だから、不穏はどこにも持ち込みたくはない。謁見の中止は祭りの準備のためとごまかして、大伯父の訪問は実際そのためで、…それが、まさか、親友の大怪我を看るはめになるとは、上級王だって予見するはずもない。――それとも予見していたのだろうか?
 階を降りて、窓のない部屋の扉の鍵を開く。牢というものはティリオンの都には存在しないから、物置が間に合わせの代用品で、そもそも閉じ込める必要があるのか、閉じ込められるのかも疑問だ。何せ囚人は。
 ランプを突き出すと、空気が揺れて乾いた血の匂いを微かに運んだ。壁に半身を凭せて、首が力なくがくりと傾いて、半眼がぼんやりと虚空を映している。投げ出された手も足も微動だにせず、ああ、手は乾いた血にまみれている。射干玉の髪、鋼の薄い色をした目。夢で見たようないかなる魂の輝きもなく、命なきもののように放り出されている。
 フェアノール。
 エルダール一の才能を称えられた男。珠玉の作品を生み出す匠。
 私は立ちすくむ。混乱している。彼の罰を決めなくてはならない。
 罪すらはっきりしていないのに、罰とは何だろう。

 ローリエンへとの申し出は、母が嫌がった。全身全霊で拒絶した。私は母が泣き叫び取り乱す所など初めて見た。
「父上は帰ってこないような気がします」
 大伯父と連れ立って歩きながらそう呟くと、全エルダールの上級王は口を開きかけてやめ、小さく溜息をついた。
「インディスには悪いが、その可能性の方が高いだろうな」
 私は母の姿を思い起こす。父の傍を離れたがらない母。ローリエンを拒絶した母。私にも母にも、ローリエンで横たわり目覚めぬ眠りについた女性の姿が思い浮かぶ。父の最初の妻、特別な、最愛の女。
「とはいえ、マンドスにもゆけぬ」
 私は大伯父を見る。ぼうっと細められた瞳は悲哀の色をたたえている。
「何故です?」
「フィンウェは――自覚がないが――私よりよほど治癒の力が高いのだ。とりわけ、自己治癒の力が。瞬間的な衝撃でもない限り、まず身体の傷では死は訪れない。精神の傷ですら、目覚めて、思いつめない限りは無理だろうな。あの力は本人の意思とは関わりなく動く。――だから生き残っている」
 私は瞑目する。誰もいない未来を思い描く。
 はじめの子になるはずだった命と、最愛の妻を亡くし、夢幻の園で立ち止まった王は、時の恩寵を感じ、園を出て未来を手に入れた。
「……そなたも困るな」
 そっと頭に手が触れて、はっとする。
「愛していないわけではないのだよ。本当に。ただ、特別を作らないものだから……等量の愛しか、知らないものだから」
 私は微笑む。父上の愛情があまりに平等すぎることは、とっくに知っている。
「私は多分、少なくとも期待はされているようでしたから」
 大伯父も曖昧に笑った。
「その、期待されていることの手助けになるかもしれない。確か、政務に関しての書庫があった筈だ。管理者もいたようだから…それを捜してみてはどうだろうか」
 

 お兄さま。私は公務に関しての書類は管理していないのです。お知りになりたいのなら許すと一言、早く来なさいとあの兄弟に言ってくださいな。公殿下の許しなくてはあの二人は出てこないでしょう。真面目ですから。
 誰のことだ。……いやいい、分かる者がいるのなら早く呼べ。許す。
 そう返すと妹は、ころころと笑った。
「わたくし、お兄さまのそういうところがとても好きよ」

 呼ばれた兄弟の弟の方が、懇切丁寧に、刑法の前例について語った。大伯父の助言は正しく、それは確かに政務の手助けになるものだった。――今の状況が特別すぎるものでなければ、存分に。この事件さえ起きなければ確かに、父上は私の準備が出来たと判断したらすぐに、隠居生活に入っていただろう。その書庫には、これまで父上が下した判断、そのすべてが詳細な経緯と思考過程と共にまとめられているのだそうだ。あまりに膨大な量のため、この兄弟ふたりでようやく全体を把握しているのだと言う。
「事件のことは、兄から聞いております」
 伶人として名を馳せている(実際、聞き覚えのある名だった)彼は、その美しい声で開口一番そう言うと、書庫から持って来たという幾つかの書類を見せながら語り始めた。
 “事件”のことも王の容態も極秘事項ではあるが、王宮へその用事で呼んだ以上、話さないわけにはいかない。最も自分自身、詳しいことは分かっていない。この後にでも目撃者を呼んで話を聞かなくては。肝心なことを忘れていたと思い出し、また苦笑した。多分、私は大分混乱しているのだろう。長い一日だった。“事件”は昨日のことになるが、――夢のせいだろうか、幾日も経っている気がする。
 話が途切れ、私が考えに沈みそうになった時、その声が響いた。
「マグロール、この資料も考えた方が…」
 私は顔を上げた。
「公殿下。失礼を」
 呼ばれた兄弟の兄の方、珍しい燃え立つような赤い髪をした、驚くほど長身で細身の男を私は知っていた。よく知っていた。……よく知っていると言うには会話をしたことなどほとんど無いのだが。
「―――“先生”」
 呟きに、彼は戸惑った。
「……その呼び方はお止めください、公殿下」

 赤毛の彼は妻の幼なじみだ。そして、息子たちの――とりわけ長男の、教育係でもある。“先生”と呼ぶのは実際彼が教育機関で教える立場にあるからに他ならない。ノルドールの貴家の筆頭、赤銅家の直系である彼は、正しい作法と文字を教える。“学校”でも王宮でも。
 私は彼に関して悪い噂を聞いたことがない。……妻には散々なことを言われているが、それが幼なじみゆえの気安さから出る軽口で、彼はけして態度を崩さないが、妻とのその親密さに嫉妬心を抱いたことは何度かある。
「私を呼ばれたと言うことは、“事件”のことをお聞きになりたいのですね?」
 二人きりになると彼はそう言った。私は飛びかけた思考を呼び戻す。
 ……事件。そうだ。話を聞かないと……いや?目撃者…第一発見者……“先生”………よく、知っている……驚いた。
「そなただったか?」
「……ええ」
 何をいまさら、と言いたげな目で返される。
「公殿下、話す前にひとつお聞きしたいのです」
 私は彼を探るように見る。……彼は夢に出て来ただろうか。

 至高の宝玉を造りだしたフェアノールは、それを王へ捧げ、褒美に願い事をひとつ叶えて貰えることになった。だが気塞がりになったフェアノールは随分と長い間、その権利を主張しようとはしなかった。
 ある時、フェアノールは思い立った。王の剣を見せていただこう。何の為かも良くわからなかった――すでにその時フェアノールは、自身の心がわからなくなっていた。かつて望みがわかっていたことなどあったかどうかもわからなかった――
 そしてあの日、フェアノールとフィンウェは玉座の間で、ふたりきりで、会ったのだ。

 フィンゴルフィンは何も見ていない、知らない。彼はただ、父王が害されたと聞き、犯人を捕らえてあると聞き、それが誰であるかを聞き、昏睡状態に陥った父を目にした。それだけである。同時に、父王が目覚めない以上、自分がすべてを取り仕切らねばならないと悟った。姉も妹もそう言った。弟は使いに出した。王宮にいた少数の者に口止めをして、王の不調を隠した。罰を決めなくてはならない。祝祭の準備をしなくてはならない。
 ―――そんな狭間の転寝にかいま見たのがあの夢だった。

 匠と会った時、王はシルマリルを持っていた。繊細な網目に編まれた細い細い色のない金糸にくるんで、その片手に至高の宝玉をぶらさげていた。腰には剣を佩き、髪は正しく結われ……そう、王は正装で匠と対峙したのである。

 ――、そして。

 飛沫は上がっていなかったように思う。ただ、滴り落ちる血はじわりと広がって床に模様を描いた。倒れ伏した体から止め処なく流れる血が。染めてゆく。床も衣も宝玉も、髪も足もその指先も。
 血溜まりに座り込んで、剣を取り落として、虚ろな目で何かを呟き続ける人影があった。それが誰であっても、取るべき行動はひとつしかなかった。
「―――誰か!」
 声に、何事かを呟く者が顔を上げる。その手から剣を遠ざけて、もう一度呼んだ。
「誰か、癒し手を!王が怪我をされた!」
 ひとり、ようやくひとり誰かがやってくる。そのひとりに虚ろな彼の身柄を預け、王を抱き上げた。軽い。この軽さを知っている。いや知らない。いっそ何もかもが夢であればいい。ティリオンの王宮には今、全エルダールの上級王がいる。癒し手たる彼がいる。
 ああ、手が血に塗れる。抱き上げた手を、腕を、胸を、腹を染めて血が滴る。
 どうか、どうか、どうかまだゆかないで。
 願って、駆けた。

“罰を決めたのですか?”
「いいや」
“陛下のご様子は…?”
「目覚めぬかもしれない。父上は目覚めることをおそらく、望んではいない」
“それならば、――極刑は死ではありません。公殿下”

 私は“先生”の鬱々と沈んだ眼を見た。
「そなたは何故そこまで彼にこだわる」
 “先生”はごく薄い色をした眼を瞬く。どこかで見たような気がする。
「ご存知だと思っていました。フェアノールは私の」
 父です。
 私は息を飲む。何かを言おうとして口を開く。そこに――声がかかる。
「マエズロス」
 赤毛の彼は緩々と振り向いた。その視線の先に私の息子がいて、胸苦しいような表情で笑った。

 また、奇妙な夢を見た。
 あの男、フェアノール、エルダール一の匠は夢の中でも変わらずその名前でその顔でその地位を得て、しかし、身分だけが違った。
 ミーリエルの息子。
 それが私の心に深く刻まれたあの男を示す記号のひとつだった。ミーリエルの息子。つまりはフィンウェの息子、私の異母兄。
 当然のように、いや実際この世界では当然のことなのだが、彼と奥方、彼の七人の息子たちはしっくりと王家に馴染んでいる。――同時に拭いがたい違和もある。彼らはあまりにノルド的で、そうではなかった。夢の中で彼は私を複雑な目で見たが、王へ、……父へ向ける視線は、紛れない愛情と隠せない執着に満ちていて、それはつまり、子が親へ向ける感情ではなかった。
 私はあの男を見かけるばかりで、会わなかった。
 代わりに、赤毛の甥に会った。

「叔父上、忘れてはいけないことを忘れる術を知っていますか」
 謎かけのようなことを、甥は真剣に聞いた。私は知らないとは言えなかった。知らないとは言ってはいけないような気がした。
「……その術を使った者でもいるのか」
 そう答えて、言った瞬間に後悔した。忘れてはいけないことを忘れる?――そんなことをしそうな人物を私はひとりしか知らず、この夢の世界では――術を使ったのかもしれない。あの方は。そしてはじめの子に最大限の愛を注いだ。
 赤毛の甥は息をひそめて、半ば陶然とした眼をして、すい、と私の胸に指を突きつけた。
「心臓に、結び目をひとつ、つくるのです」
 甥の指は“彼”に似ているか?
「それだけでいいのです。それだけで忘れられます」
 私は“彼”の指が……巧みな指先が胸に潜り込む幻影を見る。どんなに優しく、どんなにきっちりと心臓を結ぶ指だろう!ところがその私の目の前で甥は冷たく笑った。囁く。
「けれど、結び目のある心臓では恋はできません」
 幻影の“彼”の目はひどく虚ろだった。

「―――ばかなことを、いいました」
 幻影のようにどこか虚ろな目をして甥は微笑むと、やはりどこか覚束ない足取りで去っていった。行く先に息子の姿を見たような気がした。
 私は胸を押さえてみる。心臓に、結び目を。
 あの男の心臓に結び目をつくってやったら、“彼”は何を忘れる? 夢の中で私は囚われる。密かな息を閉じ込めた胸を探り、指を潜らせそのささやかな鼓動を刻む心臓を愛撫する幻に。

 一段一段とその石の階段をひとつずつ降りながら、私は何を考えている?
 夢の中で彼に会わないことが、現実の世界で私をして彼の元へ急がせる。こんなことをしている場合ではない。祝祭は迫っている。いや今こそ会うべきだ。彼に。彼の抜け殻ではなく、彼にあうべきなのだ。彼に――“彼”に。
 

10

 たとえどんな立場にあろうとも、あの方を愛し崇め焦がれるのだ。この魂は。
 たとえミーリエルの息子ではなくても、たとえフィンウェの息子ではなくても。

11

 「わたしをこうてください、あにうえ」

12

 ―――そして、夢が閉じる。