ガラドリエルの髪が銀の彩る金髪であるのは周知のことで、その髪を褒め称える者は枚挙に暇がなく、彼女の最も知られた名である「ガラドリエル」の由来もその輝く髪によるものだ。その類稀なる髪を、同じく類稀なる手の技の主、かのフェアノールが3度乞うたのも有名な話だが、彼女は一筋たりとも伯父に髪を与えようとはしなかった。
だがその顛末はある種の痛みと共に彼女の心の奥深くに記憶されている。
1度目は、ガラドリエルが幼子の時分、初めてトゥーナの丘なるティリオンの王宮へ来た日のことである。
とはいえガラドリエル本人は、遭った彼が伯父だとは気づかなかった。
父といる時は父と、母といる時は母と、そうでなくても前か後ろに兄たちが、そんな状態がガラドリエルの常だったものだから、完全にひとりであると気づいた時、幼子なりにうろたえたのだと思う。
庭園にいた。そう呼んで良いほどに茂り、様々な緑と花を溢れさせた場所だった。
立ち止まった時にはすっかり緑に囲まれ、ぐるりを見渡しても王宮の石組がどこにも見えない。いくつか茂みを潜り抜けたような気もする。ガラドリエルは少し唇をとがらせた。迷った、のかもしれない。
うつむきがちに自分の服の裾をぎゅうと握りしめた時、横の茂みががさりと鳴った。
風のせいではないその揺れ方にガラドリエルは身構えて、じりじりと後ずさる。茂みの揺れは激しくなり、ぬっと腕が出た時には、ガラドリエルは小さな悲鳴を上げかけて口に手を押し当てた。
腕の後には黒髪の頭が出てきて、肩と広い背中、と続いたので、ガラドリエルはそっと口から手を放した。
這い進んできた大人の男はふうと息をついて顔を上げ、ガラドリエルを見て、ぱちりと大きくひとつ瞬いた。
だいぶ離れていたけれども、その視線が鋭くきらっと光るのを感じた。
じろじろ見られて居心地が悪かったのと、迷宮のような丈高い緑と花に囲まれて、ふいに背筋がぞくっとする。
ガラドリエルはぱっと踵を返し、速足で行きかけたが、右か左か、生垣と花の咲く小道と、どちらに折れたものか迷った。そっと後ろを伺ってみれば、茂みから這い出して来たむっつりとした大人はまだそこにいて、しかもこちらを見ていたので、ガラドリエルは意を決して振り返った。
「あの、」
声をかけると、彼は顎をしゃくるようにして頷いた。
「なにか、ごようですか」
精一杯首を伸ばして見上げても、彼の顔は近づいてしまうと良く見えなかった。と、不意に彼がしゃがみこんだので、ガラドリエルはぴくっと竦んだ。
こどもみたい、と思った。
自分もほとんど赤子同然の幼子であるのにそう思ったことは、よく覚えている。
灰色というには、薄い鋼の色、金に近い淡い色の瞳が、なぜ?と叫び出しそうなきらめきを湛えて見ていた。ガラドリエルは彼を見つめ返し、彼が見ているのは自分ではないと気づいた。
彼の視線はせわしく何度か頭から肩を行き来した。髪の毛だと思った。金色が珍しいのかしらとガラドリエルは思った。彼の髪が、光を吸い込むような射干玉の黒だったからだ。
ほんの少し、首を傾げるのが印象に残った。つまりそれは好奇の目線だったのだが、そんなふうに見られたことは一度たりとてなかった。
それから彼はふっと小さな息をつくと、まるで熱のない声をして、しかし瞬きもせずにガラドリエルを――正確にはその髪を、見つめて、いささか早口で言ったのだ。
「迷子の姫よ、その髪を一房、私にくれまいか?」
ガラドリエルは身動きも出来ない心地で立っていた。立っているのだろうか。ぐるぐると辺りが渦を巻いて回っている気がしていた。今まで一度も向けられたことのない視線の持ち主は、いっそ不思議がるようにまだガラドリエルの頭のあたりの光を見ていた。
何か言わなくてはと、口を開いた。は、と言葉にならない息をついた時、
「――アルタニス、」
聞き慣れた声がして、ガラドリエルは飛び上がる思いをした。途端に視界が元に戻り、眼の前の彼はガラドリエルの向こうを見上げて、ああ、と投げ出すような声を出した。
アルタニス、ここにいたのと声が近寄って来る。ガラドリエルは何かを振り払うように頭をぶんぶん横に振ると、すぐそこに来た父の後ろに逃げ込んだ。
彼が何か言い、父が何か答えた。さらりと衣擦れの音がして、彼が立ち上がったのが分かった。ガラドリエルはフィナルフィンの衣の裾を引っ張るようにして隠れていた。地面が突然とても柔らかくなってしまったかのようで、うまく立てているのかわからなかった。
「―――ここを、こう」
「えぇ、切るならこっちにしてくださいよ…」
不意に耳に飛び込んできた会話に、ガラドリエルはそっと父の裾から顔を覗かせ、ふたりの大人を窺った。
彼の手が父の顔のあたりに伸びていた。その指先がくるくる、もてあそぶように絡めているのは、フィナルフィンの金の髪に間違いなかった。
「なるほど」
やはり熱のこもらない声が聞こえて、ぱっと指から金の髪が離れる。とほぼ同時にじゃく、とぞっとする音が聞こえて、ガラドリエルはきゅっと目を瞑った。
頭を撫でられて、おそるおそる目を開けると、にっこり笑う父と目が合った。抱き上げられて、見渡せた遠くの方に、彼だろう後姿を見かけた。
2度目はガラドリエルにとって忘れられない思い出である。
少女の時分、彼女は行きたいところに行き、好きなところに住んだ。とはいえアルクウァロンデのオルウェの宮か、トゥーナの壮麗なティリオンの都か、はたまたタニクウェティルのヴァンヤールの住まいか、どれかであってどれかひとつではなかった。彷徨うわけではないが定まっているわけでもない。
そして件の伯父と遭うのは、当然のことだろうがティリオンでだった。
王宮を下の兄たちと歩んでいた時だ。その頃にはもうミーリエルの息子とインディスの子らとの間の微妙な関係は理解していたし、そこかしこで実際に感じてもいた。だからといって表立って対立することはない。ただ、フェアノールがいると空気が少し変わるのだ。はりつめて、息苦しいとさえ思うほどに。
フェアノールはフィナルフィンの子らを避けている、とガラドリエルは思う。姿を見かけるといささか身構えるこちらも悪いのだろうが、フェアノールも、こちらの姿を見かけると、近寄る前に進路を変えていなくなることの方が多い。
ただ、そんな時も鋭い視線で貫くように見ているものがある。他ならぬガラドリエルである。
見られているとは感じていた。伯父はおおむね何にも関心のないような無表情で闊歩しているが、何か興味を引くものがあると爛々と輝く目で、射貫くかのような強さで、じっと見るのだ。
目線を返すと、目が合う。ただその時には彼の瞳からは熱がすっかり引いていて、本当にこちらを見ていたのかどうか、疑わしくもなる。そんな歯がゆい状況がちくちくと神経を刺す。
だからその日、こちらを見とめ、ガラドリエルと視線が合うと、ゆっくり、あからさまに踵を返したフェアノールをガラドリエルは引き留めた。
「御機嫌よう、伯父上」
良く通る声で呼びかけると、フェアノールは静かに振り返り、慇懃に一礼した。
そのままガラドリエルがずんずんと近づいていくと――後ろで下の兄たちがものすごくざわざわしているのが分かった――フェアノールは小さく眉根を寄せた。
「何用か」
「わたくしの用事ではございません」
ガラドリエルはつんと頭をそびやかすように答える。
「伯父上が、わたくしに御用がおありなのでしょう。言いたいことがあるのなら仰ったらいかがです」
ほう、と伯父は小さく頷いた。取り澄ました顔で、ふと、瞳がぎらりと光ったように思えた。
「ネアウェン殿」
睥睨するように立って、フェアノールは腕をゆっくり組んだ。少し屈むように前のめり、艶やかな声が、囁くように言った。
「どうかその輝く髪の一房を、私に恵んでくださらぬか?」
ガラドリエルは伯父を見上げた。彼は物狂おしい視線でこちらを見ていた。ガラドリエルの髪をなぞる視線は、それでいて何か別のことを思い浮かべているようだった。
ちりちりとした心地で、ガラドリエルは口を開いた。
「イヤです」
フェアノールの薄い鋼のような瞳が、まじっとガラドリエルの瞳を見た。ガラドリエルは目を逸らさなかった。なんて強い熱が燻っているようだと思った。そのまま少しの間睨みあって、フェアノールの瞳がふと、細まった。あ、と思う間もなく、彼の引き結んだ唇の端が、すこしだけ、下がって、
「けち!」
聞き間違えようもなくはっきりと言い放つと、すうっと熱のない無表情に戻った伯父は、この上なく優雅にガラドリエルに背を向け、いっそ荒らかと言ってもいいほどの典雅さで歩み去った。
ガラドリエルは立ち尽くしていた。
握った手が震えていた。大声でわめきたかったが、彼女には伯父に投げかけるべき罵言の語彙がなかった。
慌てて駆け寄って来た下の兄たちが、周りで何やかやと言っていたが、ガラドリエルの耳にはなにひとつ聞こえてこなかった。
ただ、今聞いた信じられない、耳を疑う、何あのこどもっぽい、どうしようもなくバカげた、言葉がぐるぐると回り続け。全身がわなわなと震え。ぐらぐら頭が煮えるようで。
食いしばった歯が震えているのがわかった。目を見開いているけれど、何も見てはいなかった。唸りのような声が喉の奥から洩れてくるのを感じた。
こちらに駆けて来る父の姿を視界の端にとらえた瞬間、瞼の裏が真っ赤になった。
「………だ」
「アルタニス?」
いつものように落ち着いた父の声を聞いたら、塊になった言葉がついに、飛び出た。
「だぁあいっっきらぁあっいぃっ!!!」
ぴくっと竦んで「え。わたし?」と狼狽えだした父を常ならば慰めようものだが、怒り心頭に達したガラドリエルは全く気にせず、あろうことかそのままフィナルフィンの胸倉を掴んで「どうして!お父様は!!あげちゃったのよ!!!」と叫んだ。
「えっえっ。なに?」
「前に髪あげてたでしょう!?あの…、あの…、あの無礼者に!!」
「髪? え、前?」
「信じられない!なによあれ!なんなのよ!!!」
あ、あにうえ?あにうえいつもあんなだし…と言いながらフィナルフィンは娘に容赦なくがくがくと揺すぶられて泣いた。泣きたいのはガラドリエルの方だった。
「1本だってごめんだわ…!」
呪詛のようにつぶやいた彼女に、総合すると「断るのが面倒だったからあげちゃった」というようなことを揃いも揃って祖母やら母やら兄やらが言ってくるのは、少し後の話である。
その、三度めの記憶がたちまち胸に蘇った。
宴であった。
ガラドリエルとフェアノールはとにかく接触を避ける仲であった。はっきり険悪と言っても良かった。それはガラドリエルの髪に関する二度めの問答が発端であったが、これほど時間が経った今では何が発端かは最早問題ではなかった。あのふたりは近づけるべきではないと身内は思っていたし、事実そう動いていた。
だがその宴、その時は、何がどうなったのか定かではないが、気がつけばガラドリエルはフェアノールの隣に座っていたのだった。
伯父の常である、熱のない無表情は変わらず冴えている。その視線でガラドリエルを一瞥し、フェアノールは、しかし沈黙を守った。ガラドリエルはご機嫌ようと尖った声で言った。
それぞれの身内が誰も飛んでこなかったので、ガラドリエルはふと伯父と会話をする気になった。
「相変わらず雄弁な視線をお持ちですこと」
フェアノールの鋼に似た色の眼が、ゆっくりと瞬かれた。
「何を言いたいのか分かると?」
ふと透き通るように聞こえる声だった。ガラドリエルはつんと頭を反らした。
「わからぬほど鈍くはありませんわ。……けれど、」
挑発的に目線を据えた。以前から絡むのは爛々とした、射抜くような強いものだ。最もこうして見返すとき、伯父の眼はそれが嘘のように熱のないものなのだが。
「仰るなら今ではなくて?」
ガラドリエルの言葉に、フェアノールはかすかに頷いた。静かに唇が開く。
「―――姪御どのへ、みたび伺うが」
あの射るような強さはどこへ消え失せたのか、いっそぼんやりとした声で、目線で、伯父は言った。
「輝けるそなたの自慢のその髪を一房、」
フェアノールは立てた片膝にゆるりと肘をついた。小首をかしげて、けだるい声が続く。
「どうか、私に」
すい、と手が差し出される。
―――お恵みを。
ガラドリエルは、はくりと唇を開いた。なんの音も出てきはしなかった。刹那、フェアノールはその様子をちかりと光る眼で見、それから、――いいや、アルタニス、
伯父は、とろける声音で言った。
「もう要らぬ」
そして、憧れと諦めと、愛おしさと憎しみと、そんなものをないまぜにした瞳で、微笑んだ。初めて見る、その時確かに、ガラドリエルはフェアノールに見惚れていた。
だが伯父は、微笑んだままガラドリエルを二度と見ず、さらりと立ち上がり、行く、その先には、―――だからそれが、胸の奥に抜けない棘のようにいつまでも残っていた。
「そなたはこのようなものをどうしようというのです?」
瞬間の追憶から戻れば、誇り高く優しいドワーフの瞳が目の前にある。まばゆくせつない何かを見たように愛をたたえた、おずおずとした瞳。それが確かにガラドリエルを見て、まごころを語る。
「宝物にいたします」
真摯なドワーフの瞳が、声が、その熱情が、好意が、やわらかな陽射しのように燦々と降り注ぎ、ガラドリエルの棘を淡雪のように溶かし去った。
泣き出すかと思った。けれどもガラドリエルは微笑んでいた。
遠い彼方の日々から、誰であろうと自分の髪は一筋たりともくれてやるものかと思っていた。それは深く刺さった棘のせいである。棘の原因になった髪を誇りとしながら厭うた日もあった。
誇りは夫が捧げてくれた。
三度を経た重苦しい棘のために一筋、二筋、三筋。
棘を溶かしたまごころのために。
言祝いで贈る、記憶の彼方で、少女のガラドリエルも笑っていた。