フリュートフルート

 檣楼から「笛!笛ー!」とよくとおる声がわめいていたのは少し前のことだ。フィナルフィンはオルウェと別れておもむろに帆柱に近づいた。
 今は竪琴の弦を弾く音が、ぽろんぽろんと零れてくる。それを聞きながら段索を登る。
 登りきって顔を出すと、しかめっ面で弦を撫でていた伶人が、不思議なものを見た顔をする。
「笛をご所望でしたので、参りましたよ」
 微笑みかけると、ヴァンヤの伶人は大げさに肩をすくめて、こき使いますよ、と言った。

 エレンミーレとはあまり話したことがない。とはいえ幼少期にタニクウェティルで顔を合わせたことは幾度もあるし、今回のこの戦いでは意外な一面も知った。虫も追い払えなさそうな美少女顔の小柄な伶人は、見た目に反して恐ろしく武闘派だった。ついでに言えば煽るのも(あえて敵味方問わずと言う)実に得意だったようだ。
 あの雷のような声はどこから出していたのか、今見ても全く信じられない。
 最も、さきほど「わめいて」いたように、彼の声はもともと紛れずにとおりはするが、それ以上に彼の意志で自由自在だ。それでなくては彼の言う「伶人のおつとめ」は出来ないのだろう。もっぱら館の中での話になるが。
「何の歌なんですか?」
 こき使う、の宣言通り、ひと通りの旋律を吹いてみて尋ねると、午後の遅い光の中でエレンミーレは瞳を眩しそうに細める。
「まあ、海の…に、なりますかね」
 海の、というのに異存はないが、どうもそれはフィナルフィンの思う海とは違うように聞こえる。フィナルフィンのよく知る海は真珠の都、真珠の港、灯火の下で映える銀の波、碧い飛沫だ。
 今走るこの大海はもっと青く、陽の光は目をくらませる。
「深海の?」
「潜ったこともありませんが、そういう感じでしょうね」
「でもそれより…」
 言いかけて、フィナルフィンは口をつぐんだ。竪琴を撫でるように鳴らしながら波の遠くを見つめる伶人の眼を、どこかで見たと思ったからだ。
 どこだったか。船に乗る前の。
「――船出の?」
 エレンミーレは振り返り、痛みの走ったように片目を眇めた。
「それが近いと思いますよ」
 ふいと顔を逸らして、エレンミーレは弦を軽く鳴らす。さて、くつりと笑むと、次にフィナルフィンを見るのは悪戯でも企んでいるのような、それでいて何だか激しい目だった。
「最初からお願いします。なんだかしっくり来なくて」
 フィナルフィンは背筋を伸ばして、ハイ、と言った。

 フィナルフィン自身、詩を考えるのがとてつもなく苦手だから歌は滅多につくらない。この戦いに出る前にひとつ、それだけ。こどもたちは得意な方だったな、良かったな。などと思ったりもする。
 笛は得意と言っても良い。それだって、自分で考えた旋律を吹いているわけではないけれど。何と言っても。
「ずいぶん息が長いんですね、フィナルフィン」
 絶対途中で吹けなくなると思いました。とエレンミーレが言い放った。あれも違うこれも何か違うここのところもう一回お願いしますそこはもう少し盛り上がる感じで、と好き放題指図をしてヴァンヤの伶人が練り上げた旋律は、確かに気合を入れないと息がつらい。
「………よくほめられます」
 気分的に少しぜいぜいしながら返すと、いえ本当にびっくりしました、とエレンミーレは微笑む。
「たまにね、手伝っては貰うんですけど。竪琴か、堤琴だから。いつもなら詩もあって…」
 言う間に表情が曇ったので、フィナルフィンは、あ、とうろたえた声を上げる。
「詩、詩が先ですか」
 慌てて言ったことに、エレンミーレはきょとんと目を見開いて、それから――くずれそうに笑った。
「詩がどっかいっちゃったんですよ…」

 儚く崩れそうな姿に、フィナルフィンはどうしたら良いのか分からない。身じろぎも出来ないその一瞬が過ぎ去り、伶人はぱっと頭を上げる。少しだけ震える息をつく。
「――もう一度吹いて貰えますか。私が合図するところから」
 はい、フィナルフィンの答えを聞く間もあらばこそ、エレンミーレは竪琴を鳴らす。先程までとは違う、わきおこるような音、そして何より、速い。
 細かな泡の昇るような繊細な音、深い海にたゆたうような低みの調べ。そこから広がり弾けるきらめきが奏でられる。
 目配せに、フィナルフィンは笛の音を乗せる。
 船出と言った。確かに分かる、これはゆく船の旋律だ。
 ひとつめを吹き終えても竪琴は続いた。穏やかな航海。まひるの静かな海。そこに風が吹く。フィナルフィンはふたつめの旋律を紡ぐ。ああ、それでも船はゆく。
 エレンミーレが声を乗せる。詩の無いうた。フィナルフィンは笛を離してその様を見ていた。
 この曲は祈りにとても似ている。
 最後の旋律を奏でていく。天に届くような、海にあまねく広がるような、そしてまた――光にきらめく泡が残る。
「初めて曲からつくったのに、」
 弦の響きが消えないうちに、エレンミーレはぽつりと言った。
「なんであのこ、」
 黄昏色に染まる時間、光を背にした伶人の頬に流れたものを、フィナルフィンは確かに見たように思った。

 そのまま竪琴を放り出すようにしてエレンミーレが膝を抱えてしまったので、フィナルフィンは、用事を思い出しましたと下手な言い訳を置いていく。
 いささか急いで檣楼から降りかけた、その時。
「カーノのばかぁ…」
 波の音に紛れそうなかぼそい声を、綱の軋みに紛れさせて確かに聞いてしまった。
 フィナルフィンは降りかけた足を止め、ふと西の彼方を見はるかす。水平線の彼方、沈みゆく陽の光。その鮮やかな赤。
「……ネルヨのばーか」
 言葉と共に零れそうな何かを留めるために上を向いた。遠い空に星がひとつ、光るのが見えた。