星から降る金

 夏の森を軽やかに駆けながらレゴラスは、木闇に油断なく目を走らせている。
 最もここはすでに緑葉の森、砦の外でも気の抜けない日々はだいぶ遠くなった。レゴラス自身は知らぬ戦いの爪痕も少しずつ癒え、焼かれた樹々も新たな芽を出し、ほっそりとした幹を伸びやかに空へ向けている。
 砦から離れ、目指すのは月明りに浮かぶ葉の蔦を幹に絡みつかせた大きな木だ。
 夜気に混じる甘い香りを吸い込んで、心はやる方へ顔を向けなおした時、それは聞こえた。
 風に乗って切れ切れに、しかしその声をレゴラスが聞き違えるはずもない。
 月光よりもとろけるように、飛ぶ矢よりも疾くレゴラスは駆け、ほどなくして木に辿りつく。
 声の主は間違いなく上にいるから、夜闇に濃いみどり、銀に照り返す葉を風のように揺らして登る。登る。
 ロスロリアンのフレトとは少し違う、変わった足場の上から、深い深い青の、けれどしぼんだ露草がぼとりと落ちてレゴラスの額に当たる。
「いたっ」
 声に出すと、続いてひとつ、またひとつ、気の抜けたようにぼとぼと落ちて来る。歌は相変わらず続いている。レゴラスは急いでよじ登る。
「父上!」
 呼ぶと、最後の花をぽいと投げて、月光の下では象牙色の髪の持ち主が振り返る。歌が止まる。
「緑葉」
 片手には瓶を持っていたし、周囲にはやっぱり瓶が転がっていたし、露草の花冠はとっくにうなだれた葉ばかりになって膝の上に広がっている。
「やっぱりここにいた」
「探しておったのか」
「ええ!それは勿論、明日出発ですからね」
 スランドゥイルはふんぞり返る息子を見上げて目を細め、座れと花冠を振って示した。
「あの歌、どんなお話なんです?」
 この瓶もこの瓶も空だ、と覗き込みながら訊くと、スランドゥイルは、歌、と繰り返した。
「前も、今も、歌っていたでしょう?歌詞は分からないけど」
 古い言葉なのは分かるが、ノルドールの言葉とも少し違うように思う、それは、レゴラスにはさっぱり意味が分からない。ただ、うつくしい歌だな、とは思った。
 前、と言ったその時は、もう本当にずいぶん前のように思える裂け谷への旅路の前夜だ。あの時もスランドゥイルはここにいて、確かその時は星を愛でていた。
「―――、わしは今、めちゃくちゃ酔うておる」
 ややあって、スランドゥイルが言ったのはそんなことだった。
 ふくれたレゴラスを見て、含むように笑う。
「“ぜったいうそだ”と顔に書くのはやめぬか。――酔うておるのだ。普段言わぬことも口にするやもしれぬ。お前が訊きたいことも、うっかり話すかもしれぬ」
 レゴラスは上目で父をじっと見つめ、にいっと笑んでみる。含み笑いの父は崩れない。
「秘密主義の父上が?」
「訊かぬから答えぬまでのこと。わしは素直な方だが?」
 スランドゥイルがそう言うので、レゴラスはすっと笑みを消した。
「……じゃあ、母上のこと、教えてください」
 父はゆっくりとひとつ瞬いた。
「それはまた…」
 レゴラスは真顔のまま続けた。
「私がいくら弓を練習したって、皆こぞって『まだまだ』って。母上は一体どんな腕だったんです。話を盛ってやいませんか」
 スランドゥイルはもう一度瞬いた。そして、弾けるように笑い出した。
「笑わないでください」
「笑わずにいられるか、そんなことを悩んでおったのか?」
「そんなことじゃないです。大事です」
 またふくれたレゴラスをスランドゥイルは引き寄せると、額に軽く口づけた。
「父の腕はとっくのとうに超えておるな。母の腕も、まあ、この凱旋の後では超えたと言わざるを得まい」
 額同士をくっつけて、囁くようにスランドゥイルは続ける。レゴラスは、遠い思い出を読むような父の不思議なみどりの瞳を見つめていた。
「いつか、言ったな。母の腕を超えたら何も言わぬ。どこなと好きに行け、と。その通り、お前はどこでも行けるぞ。望めばどこだって、牧人の森も、友のところも、――西方も」
 からかうように笑み、レゴラスの頭を撫でて身を離した父に、レゴラスは口をとがらせて言った。
「……母上は、西に行ったんでしょ」
 スランドゥイルはゆったりと頷いた。
「魂はな」
「やっと認めた」
「身体はここだ。それにあいつは、こどもが遊び疲れたみたいな顔していってしまったから、まあ満ちた旅路だったろうな」
 ここ、と言うのはこの木のことだっただろうか。萎れた露草に口づける父に、レゴラスは勢いよく飛びついた。
 おお、甘えん坊め、とスランドゥイルは息子を抱え込む。
「あの歌の話をしてください。あの歌、母上も歌ってたでしょう?」
「そうだな。好きだった」
「……私を連れて戦いに行ったりもして」
「そうだな。お前を持って行くと必ず帰って来たな」
「そういう話……、したことない、」
「お前が訊かぬで――」
「父上のいじわるッ」
 腹に頭を押しつけながら叫ぶと、スランドゥイルは華やかな笑い声をあげた。
「昔々――、『石の城、魔法の庭に、王が息子と暮らしていた』」
 子守唄のように語られた話はこの夜に相応しく、レゴラスは喉を鳴らすように父になつく。
 まるくなって抱かれて、髪を撫でる手が心地よくて、涙が出たような気がしたけれど、たぶんそれは朝には胸の奥に仕舞われている。スランドゥイルが、ああ良い夜だ、と蜜のような声で言った。

 『昔々、石の城、魔法の庭に、王が息子と暮らしていた
  時は流れ、希望失い、王は城をかたく閉ざした。
  「どうだ!」かれは言う。「ここに勝る場所などあるものか」
  父は息子に言い聞かせる。「外には苦難しかない」と。
  「この庭に留まるのだ! 私のように。
   お前に安らぎを与えられる。
   高い壁も閉ざした門も、お前を守るためのもの」
  王の愛はかたくなな石のかたち。
  けれど王子は【憧れ】の囁きを聞く。
  「ここを出ていかなくては!」
  “この世の果て、星から降る金の綺羅、
   ありえない夢を君は叶える。
   在ることはそう成ること、
   生きることは学ぶこと。
   星の綺羅を探すなら、どんな苦難にもひとりでいかなくては”
  愛は手放すこと、別れること、相手のためを思うなら
  涙尽きせずとも告げるだろう。
  「はるかな遠くの星から降る、金の綺羅を探し旅立て」と。
  在ることは成ること、生きることは学ぶこと。
  星の綺羅を探すなら、試練と苦難の世界へひとりで立ち向かわなくては』